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第1話 呼ばれる
『ナルミマキ……さんのお宅でしょうか?』
受話器の向こうから彼を呼ぶ声は小さく、自信なさげだった。
いまどき固定電話が鳴ることはめったにない上、その九割は投資や不動産売買のセールスだ。いつもは留守電に任せているのに、その日はなぜか取ってしまったのである。男の声だったが、彼の耳には若く未熟に響いた。それでも決められた言葉を機械のようにまくしたてるだけのセールスとは気配がちがった上、マキ、と呼ばれたことが彼の注意を引いた。
「ちがいますが」
『成人式の成に海と書いてナルミさん、ではないですか? 真実のシンの字に樹木の――』
相手はしつこく確認しつづける。面倒になって彼はいった。
「マサキと読むんです。ご用件は?」
『あの、コンドウナツキといいます。実は父が亡くなりまして、成海さんのお名前がある書類が出てきたので、その件でお話が……。父が長年その、お金を借りっぱなしだったようで、一度お会いできたらと』
「コンドウ?」
彼は怪訝な声を出す。そんな知人は記憶にない。
『榎本大洋の息子です。近藤は母親の名前で……』
「ああ」
マキ、と呼ぶ声にどきりとしたのはひょっとしてそのせいだろうか。名前を聞いたとたん、まぶたの裏に大洋の顔が思い浮かんだ。榎本大洋。彼の記憶にあるその顔はせいぜい二十代のなかばだ。彼と同級生だから、今年で四十五歳。死ぬには早すぎる。
「それは……急ですね。いつお亡くなりに?」
『三月十五日です。ご連絡が遅くなって申し訳ありませんでした。その、整理に手間取って、気がつくのが……』
今日は十月一日だから、約半年前だ。しかし彼が榎本大洋と最後に会ったのは十年以上前のことだった。その後も何度かメールをやりとりした記憶はあるが、少なくともこの十年は音沙汰がなかった。
そう考えれば、亡くなったという知らせが来ること自体珍しいというべきだろう。固定電話にかかってきたのも合点がいく。同窓会名簿でも見たにちがいない。
「ああ。借用証の控えが出てきたということでしょうか」と彼はたずねた。
『返済が終わっていないようなので、ご連絡しなければと思ったんです』
相手の声は最初よりもはっきり響いた。そのとたん彼の耳は学生時代の友人のこだまを聞き取った。
(マキ、これは永年保存しておくぜ)
ほかにもみつけたものはないか――喉元までせりあがった問いを彼は飲みこんだ。おそらく額面がそれなりだったから電話をしたにちがいない。大洋の息子にしてはずいぶん律儀だが、親子だからといって性格が似るとも限らないし、これは相続の金銭問題である。のちのちトラブルにならないように先手を打ったのだろう。
彼がそう思ったのは自分自身に経験があったからだった。二年前に最後の肉親を亡くしたあと、あると知らなかった借金を何件も片付ける羽目になったからだ。
「別にいいですよ。返さなくて」彼は受話器に向かっていった。
「まだ若いでしょう、大洋の息子さんなら。おいくつですか?」
声はすこしためらう気配をみせた。
『……二十四です』
そうか。もうそんな齢になるのか。
「実をいうと残額がいくらかも覚えていないんです。昔の話ですから。香典がわりということで、返さなくてけっこうですよ」
『でもそれでは……その、お話はありがたいですが、電話だけだと心配ですし、直接お話したいんです』
口調こそ丁寧だったが、受話器から響く声色は榎本大洋そのものだった。親子でこんなにも似るものなのか。彼は断ろうと口をひらきかけた。そのとき相手がいった。
『父はマキ――マサキさんにずいぶん、お世話になったようなので』
頭蓋のどこかでピシリと音が鳴ったような錯覚が起きた。マキ、というその響きがあまりにも似ていたせいだろう。
(こんな頼みきいてくれるの、おまえだけだよ。マキ)
「わかりました」彼はついにこたえた。
「住所はわかりますか? この電話番号はアドレス帳から?」
「あ、高校の卒業アルバムに載ってました」
なるほど、個人情報保護法以前か。彼は苦笑しながら日程をきめ、最後にスマホの電話番号を教えた。
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