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第7話 翻る
「マキさんの中、俺の形になってる」
つながったままの姿勢で夏生がささやく。
「そうだよね? するほどよくなるの、いいね……」
夏生に揺さぶられると彼はろくに返事もできない。もう十二月だ。平日の夜だというのに夏生は彼の家にいる。
この一カ月、夏生は何度も彼の家を訪れた。週末のこともあれば平日のこともある。一見気まぐれなようだが、仕事のシフトが関係しているようだと彼は見当をつけていた。抱かれる快楽を思い出した彼の体はやすやすと雄を受け入れるようになっている。
「見て」
夏生が彼の横で仰向けになり、彼は毛布をふたりの体にかける。汗をかいた体はあっというまに冷えていく。夏生の腕が真上に伸び、つかんだスマホのロックを解除する。パターンをなぞる指を彼はじっとみていた。
「マキさんて、自分がどれだけエロいか知らないでしょ」
画面に自分の顔がみえた。髭のあとのある疲れた中年男の顔。夏生は次々にスクロールする。彼は局部までさらされた写真から目をそらす。こんなに疲れた中年の何を気に入っているのだろう、と思う。
「夏生」
彼はスマホから顔をそらしたままいった。
「何?」
「次に会うのは別の場所にしよう」
「どうして?」
「もっといいところに行こう。僕が手配する」
夏生は意外そうな目つきで彼をのぞきこんだ。
「いいよ」
クリスマスシーズンを迎えた街は電飾とツリーで彩られている。彼は待ち合わせにホテルのロビーを指定した。ラブホテルではなく五つ星の高級ホテルだ。
彼の趣味は資産を増やすことだ。使うことに興味がなかったおかげで高級ホテルの相場など何も知らなかったが、彼にとってはたいした金額でもなかった。その日彼は待ち合わせ時間より先にチェックインした。夏生から着いたとメッセージが来たので、ロビーへ降りていく。
「俺、こんなホテル入ったことないです」
彼の顔をみて夏生は無邪気に笑った。冬のコートを着ていつものトートバッグを持っている。カードキーで操作するエレベーターは自分の部屋がある階にしか止まらない。夜景をみおろすラグジュアリーツインのベッドはどちらもダブルサイズだ。夏生は中に入るなり窓のそばへ行った。外の景色から室内へ視線が動く。
「すごい。マキさん、お金持ちですよね」
彼は小さなテーブルに封筒を置いた。
「なんですか、それ?」
「持って帰りなさい」
夏生の顔からすっと表情が消えた。
「お金? 俺にくれるの?」
大股でテーブルに近づき、封筒の中をみる。
「何これ」夏生は唇をゆがめて笑った。
「マキさん、これ、手切れ金のつもり?」
彼は黙っていた。夏生は眉をあげた。
「それともこれで俺を買ったつもり? 馬鹿だなマキさん。見損なったよ。こんなもののためじゃないのに」
「そんなはずはないだろう」と彼はいった。
「じゃあなに、俺とセックスしたいから? 俺に抱いてほしいんだ。そうだよね?」
夏生は彼のすぐ前に立っている。眸はいつかみたときと同じくらい昏かった。
「頼みがある」と彼はいった。
「何?」
「マキ、と呼んでくれ」
「呼び捨てがいいんだ?」
「ああ」
「いい匂いがするよ」
夏生の顔が首筋に近づき、くんくん嗅いだ。
「もしかして、準備して待ってた?」
「……そうだ」
「俺もシャワー浴びようか」
「そのままでいい」
「待てないの? やらしすぎるよ、マキ」
(マキ)
彼は目を閉じた。錯覚するのは声のせいだ。唇をあわせながらベッドに倒れこむ。シャツのボタンをはずし、下着を脱ぎすてる。夏生も裸になり、彼の体をさぐりはじめた。
「ほんとだ、ほぐしてある。ローションまで持ってきて、準備万端ってわけだ?」
ふふふ、と笑う声が肌をなぞる。彼は目を閉じたまま夏生が望むように姿勢を変え、いつもより荒い手つきに耐える。室内は明るく照らされたままだ。彼はうつ伏せになって夏生に尻を差し出している。えぐるように何度も揺さぶられて、唾液がシーツに吸いこまれる。快楽の波が彼を高くもちあげると、今がいつなのか、ここがどこなのかもどうでもよくなる。
「あっ、ああっ、んっ、あああ――大洋、たいよう――」
夏生が腰を押しこむようにして彼の中で果てる。雄がずるっと引き抜かれて、体の上から重みが消えた。
「夏生?」
彼はシーツに片頬をつけたまま呼んだが、聞こえたのは浴室のドアが開く音だった。彼は体を起こした。椅子に置きっぱなしのトートバッグをみつめた。
シャワーを浴びた夏生は服をきちんと着て出てきた。下着をはいてシャツを羽織っただけで、ベッドにだらしなく座っている彼とは対照的だ。立ったまま彼を見下ろす眸はどこか挑発的だった。
「どう、よかった? 俺とのセックス」
彼は黙って夏生を見返した。
「おやじより俺のほうがいいんでしょ?」
「さあな」
「マキさんって馬鹿みたい。そんなにおやじが好きだったの? 何年もゆすられていたのに」
彼は小さくため息をつき、ベッドからおりた。夏生の視線を背中に感じながら、隅に置いた自分の鞄に手をのばす。古い型式のデジタルカメラを持って椅子に座ると、夏生は怪訝な表情になった。
「デジカメのデータは放置すると消えるものらしい」彼は淡々といった。
「これがまだ残っているのは奇跡――といいたいが、実際はちがう。大洋から音沙汰がなくなったあと、保存しなおしたんだ」
彼はボタンを押し、荒い小さな液晶画面の画像をみせた。写っているのは彼の裸だ。五枚どころではない。
夏生はこわばった声でいった。
「どういうことです?」
「あれは最後の五枚だった。僕の家で印刷したんだ。大洋はデジカメもプリンターも持っていなかった。僕のカメラを勝手に使った。大洋に金を渡すたび、何枚か取り返していった。借用証を書かせたのは……どうしてだろうな。僕も覚えていないよ。二十代というのは馬鹿なことを考えるものだ」
覚えていない? まさか。
脅迫されて金を渡すのでも、金で買いもどすのでもなく、貸しにするのだと自分に思いこませるための借用証だった。大洋に返すつもりがないことはわかっていた。
彼はただ、自分の感情を人質にとられたままにしておきたくなかったのだ。そもそも最初は大洋がはじめたことだった。ただの友人からそれ以上の関係への閾を超えさせたのは、彼ではなく大洋の方だった。
彼はデジカメのボタンを押した。消去の警告にOKを出す。データが消えるのは一瞬だ。自傷行為のようにこれを保存するのも、もうおわりだ。
「五枚残っているのがわかっていたのに、どうして放置したんですか?」
「大洋から連絡がこなくなったからだ」彼は静かにいった。
「事情は知らないが、僕に金をもらう必要がなくなったんだろう。別の金づるができたんだろうな。おかしなことに最初はショックだったよ。じきにどうでもよくなったけどね」
「どうでもよくなった?」
彼は冷たい目で夏生をみた。
「カエルの子はカエルとよくいったものだ。大洋は人間として最低の部類だったが、息子も最低だな」
「マキ――」
「出て行け」彼はぴしりといった。
「その金はやる。早く出て行け。二度と僕のまえに現れるな」
「そんなこといっても、俺はあなたの……」
「さっさと行け!」彼は怒鳴りながら立ち上がった。夏生は気圧されたようにびくっとして、後ずさった。「早く行くんだ!」
夏生は凍りついたような顔で封筒を拾い、のろのろと背を向けた。彼はそのあとを追い、トートバッグを押しつけた。
「忘れ物だ」
夏生はバッグをひったくるようにして受け取ると廊下に出て行った。彼は扉にチェーンをかけ、隙間から夏生がエレベーターへ向かうのを確かめた。それから静かに扉をしめた。
隅に置いた自分の鞄からスマホを取り出す。彼のものではなく、夏生のスマホだ。浴室にいるあいだにトートバッグから抜かれたのに夏生は気づかなかった。彼はスマホを持って浴室に入り、洗面台のスツールに座った。
夏生のスマホのロックはパターンだけで、指紋認証もない。金融取引用にスマホを複数台契約している、彼のような用心深さもない。最近の若者はセキュリティ意識が足りない、と彼は思いながら、まずすべての写真を消去した。彼を撮ったものだけでなく、全部の写真だ。
つぎにメールアカウントにアクセスし、パスワードを変え、再設定用の電話番号と緊急用アドレスを彼の電話番号に――夏生に教えていない番号へ変えた。さらにメッセージアプリをひらき、番号設定とパスワードを変える。スマホにインストールされたSNSの設定もすべて変更した。漏れがないか確認し、最後にアドレス帳のデータを彼自身のクラウドにエクスポートして、スマホの電源を落とした。
夏生のスマホと、ここに登録されたネットのアカウントは彼に乗っ取られたも同然になった。半時間もかからなかった。
夏生はスマホがないことに気づいただろうか。
だがここへ戻ることはできない。夏生は宿泊客ではないから、エレベーターはロビーまでの一方通行しかない。それでも彼はフロントに電話した。グレーのコートを着た若い男がロビーをうろついているかもしれない、と話す。
「迷惑行為を受けているんです。みかけたら気をつけてほしい」
彼はシャワーを浴び、ていねいに体を洗った。持参した新しい服に着替え、チェーンを外して廊下に出る。静けさに安堵しながらエレベーターに乗り、宿泊客専用のラウンジへ下りた。吹き抜けからロビーが見下ろせる。
正面扉の近くで夏生がホテルマンに声をかけられているのがみえた。彼はきびすを返し、また部屋に戻った。
贅沢な夜景を横にみながら、ホテルの設備を説明したマニュアルを熟読し、ルームサービスを注文する。こんな金の使い方をしたことがなかったので、奇妙な興奮を感じていた。夏生は他にもスマホを持っているだろうか。彼なら重要な書類や写真のバックアップは複数とっておくだろう。
自分がこんなに用心深くなった理由について彼は考えないようにした。夏生がさらなるアクションを起こしたら、そのときはそのときだ。
最初に夏生と会った時から数えて、いったいいくら――彼は総額を計算しかけてやめた。昔はともかく、今の彼にとっては痛手になるような金額ではない。その気になれば今の彼は夏生に痛手を負わせることもできるのだ。
それはそうと……。
彼は自分のスマホを取り出し、夏生のアドレス帳データをダウンロードした。
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