第9話 崩れる

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第9話 崩れる

 夏生はスマホを取り返しにくるかもしれない。彼はそう思ったが、回線はすぐに通じなくなった。紛失届を出して解約したらしかった。  夏生は彼を恐れているのかもしれなかった。彼はあのスマホからたどれる様々なアカウントを乗っ取ってしまったからだ。  彼は夏生の過去のメールや履歴を調べることもできたが、しなかった。そのかわりアカウントの削除申請を出した。  ネットで調べたのはただひとつ――めったにやらない自分のエゴサーチだ。成海真樹、と検索窓に入れた時は緊張したが、表示されたのは彼と同姓同名の他人がふたりだけだった。  十二月はあわただしく過ぎた。夏生のことは気にかかっていたが、彼はずっと先のばしにしていたことを実行したのである。都心にマンションを買い、家を売りに出したのだ。  不動産に関する勉強は以前やっていたし、家の老朽化が進む前に早めに処分した方がいいとも思っていた。それに彼はさまざまな相場に慣れている。単にきっかけがなかっただけで、いざやると決めると事が進むのは早かった。たまたま新築マンションの売れ行きが鈍っていた頃で、予算の制約も少ない彼には選択肢も多く、まもなく手ごろな物件をみつけることができた。  年が変わり、彼は新居に引っ越した。  家具や家電はすべて買い替えたから、荷造りはパソコンとモニターと本や書類のたぐいだけだった。家の整理は業者に依頼すれば思いのほか簡単で、電化製品をまとめて処分したとき、例のデジタルカメラは一緒に捨てた。ついでに夏生のスマホも初期化し、ショップに売った。  広いだけで使いにくかった実家から、コンシェルジュがいて、フィットネスジムやスパといった共用設備があるマンションの十五階、広めの1LDKへの変化は大きかった。窓からの眺望もよかったし、木造の戸建ては冬のあいだ寒くてしかたなかったが、新居は床暖房があって快適だ。駅にも近く、通勤も以前より楽になった。  それなのに彼の気分は沈んだままだった。  会社にいるときはそれほど変わったようにみえなかったにちがいない。だが何をしても明るい気持ちにならないのだ。毎夜の日課である相場のチェックも、目が滑りがちで、チャートをみても何の興味もわかない。  新しいことをやってみようかと、敬遠していた暗号通貨やNFTに手を出したりもした。ビギナーズラックだろうか、買った通貨は三日後に急騰した。だがチャートを眺めているあいだに不安が兆し、すぐに売り払ってしまった。その後もその通貨は上がり続けたので、彼は買い戻そうかと何度か考えたが、いつも寸前でやめた。  それでよかった。それから数日後、主要取引所がシステムトラブルで停止し、暗号通貨全体に大暴落が起きたからだ。彼はラッキーだった。それなのにまだ心は晴れなかった。彼は短期売買のポジションをすべて片づけて、チャートを毎日眺めるのをやめた。  そのあいだも仕事への影響はなかった。しかし夜の眠りは浅く、朝まで何度も目を覚ますことが続いた。  きっとそのせいだろう。彼は以前にくらべると昼間にぼんやりすることが増えた。部下に「成海さん、最近元気なくないですか?」と訊ねられたこともあった。彼は大丈夫だと答えた。  ある日思い立って、仕事帰りにフィットネスジムへ行ってみた。トレッドミルで走るとすぐへとへとになったが、汗をかいたあとはすっきりして悪くない。それからしばらくのあいだ、彼はジム通いに精を出した。スマホで海外ドラマを流しながらトレッドミルやエアロバイクで汗を流すうち、朝まで眠れる日が増えた。こころなしか腹回りも引き締まり、だるさや肩こりも減った。  ところがそのうち、別の問題があらわれた。  夜中のフィットネスジムですれちがう男たちが気になって仕方ないのだ。彼の視線は女性を素通りし、男性にばかり向くのだった。最初は完全な無意識で、自覚すると恥ずかしくなった。彼はプールのジャグジーに行くのをやめ、ジムでは黙々と体を動かすことに徹した。  おかげで寝つきはよくなったが、朝のまどろみのひとときに甘美な夢をみるようになった。見ているあいだはいいが、目が覚めたとたんにやるせなくなる夢だ。夢心地で射精しても、彼の体はもっと別の刺激が欲しいと思ってしまう。  彼はそんな自分を持て余し、ついに、何年も近寄るのをやめていた夜の街に行くことにした。大洋から連絡が来なくなったあと、しばらくのあいだ通っていた街だ。  並んでいる店の看板は彼の記憶にあるものとはかなり変わっていた。はじめてこの界隈に来た時はどきどきしたものだ、と彼は思う。今も緊張していることに変わりはないし、前に来たときより彼は齢をとって、浮いているのではないかと気になった。以前よりひらけた雰囲気の店が増えている気がするし、女性も前よりよくみかける。  だが、浮いていたといえば前もそうだった。楽しかったのはいちばん最初のうちだけで、なんとなく自分に馴染まない気がして、やがて足が遠のいてしまったのだ。  歩いていると、カジュアルな服装の若い男ばかり目についた。でも彼は夏生を探しに来たわけではないし、そもそも夏生はこの街によくいるタイプとは真逆だった。  大洋がそうだったように。  彼は通りをぐるっとまわり、早くも後悔しはじめた。が、やっと、昔何度か入ったことのあるバーの扉をみつけた。店の位置や扉の雰囲気におぼえがあった。  思い切って中に入ると、見覚えのあるマスターがカウンターの向こうからみていた。 「こんばんは」 「ここ……何年か前に、何度か寄ったような気がするんですが」 「おや、そうですか。どうぞ、お帰りなさい」  カウンターだけの小さな店である。先客はひとりいるだけだ。スーツ姿で、彼よりも年上にみえる。  なんとなくほっとして、彼はひとつおいた右隣のスツールに腰を下ろした。 「何にします?」とマスターが聞く。  彼はハイボールを頼んだが、銘柄はまかせた。マスターは訳知り顔でうなずいてグラスをとりあげる。 「あ、それでね……」  彼の登場で途切れた会話の続きだろう。先客が口をひらいた。最近使われるようになったビジネス用語についての笑い話で、話しぶりもユーモラスだった。  彼は差し出されたグラスに口をつけながらぼんやり聞いていたが、だんだん気分がほぐれてきた。自分の仕事にも関係する言葉が登場したときは思わず頬が緩んだ。と、先客が彼をみて小さくうなずいた。 「前にここ、来たことがあるって?」 「かなり前です。何年ぶりかな……」 「それはそれは。どうしてまた?」 「なんとなく、ですかね。誰か……人に会いたくなって」 「新しい人に?」 「ええ」  目があったとき、どことなく匂いが似ているような気がした。  他愛のない世間話がはじまり、彼は不眠克服のためにジム通いをしたとか、何キロ走れるようになったとか、そんなことを話した。いつのまにか空いていたはずのスツールが埋まって、彼は年上の男と肩を並べていた。バーの扉がカラン、と音を立てると彼はハッとした。すでに酔って声の大きい三人連れが入ってきて、カウンターがいっぱいになる。 「出ない?」と男がいった。 「そうですね」と彼はいった。 「どこか、行く?」店の外に出て、アスファルトを歩きながら男がいう。 「それとも帰る? ぼくはあまりこういう展開ないんだけど、もし――」  彼はすばやくいった。 「僕はこの辺り、ぜんぜん詳しくないから、ついていきますよ」 「ぼくでいいの?」  どことなくひょうきんな物言いがよかった。彼はうなずいた。 「はい」  道を何本か渡ったところにホテルがあった。夏生と入ったホテル街の建物とちがって、ビジネス風の地味な外見だった。 「悪いけど、先にシャワー使わせて」  男はさっさと背広をハンガーにかけ、浴室へ行ってしまう。彼も背広を脱ぎ、ベッドに座った。スプリングが効いていて、尻が軽く跳ねる。 (ベッドに行きましょうよ)  突然、夏生の声が耳元できこえたような気がして、彼はびくりとした。 (おやじはどんなふうにしました?)  体がぶるぶる震えはじめた。彼は頭を垂れ、両腕で膝を抱えてじっとしていた。浴室の戸が開いたのにも気づかなかった。 「大丈夫?」  頭の上でささやく声がする。 「何があったの?」 「……すみません」彼はやっと顔をあげた。 「すみません……」 「いいから」どさっとベッドが揺れた。「どうしたの」 「いえ。ごめんなさい――」 「きっと何かあったんだよね? だから来たんだ」 「ええ、そう――なんですけど、でも――」 「話して」男の声には暖かい響きがあった。「聞かせて?」 「電話が……あったんです。友人の息子から。友人が死んだといって……」  彼は話しはじめた。夏生から電話があった日のことから、さかのぼって、かつて大洋と彼のあいだに何が起きたのか。夏生が彼に何をしたのか――そしてそのあとのことも。むかし大洋が撮った写真を取り返したこと。夏生のスマホを奪い、確かめた結果について。 「これはまた……呆れた話だね」  年上の男がいったが、彼はほとんど聞いていなかった。 「夏生から大洋が亡くなったと聞いた時、僕は一瞬……一瞬だけ嬉しかった。だけどそんなふうに思うのは間違っていると……あの子に悪いと思った。でもあの子が僕に近づいてきたとき、僕はまたすこし嬉しいと思ってしまった。夏生が……大洋みたいに……大洋にしてほしかったみたいに僕を抱くから、僕は……」  声に出すうちに目の奥が痛くなった。こみあげてくるものを彼は飲みこむ。 「あいつが本当に死んでいたらよかったのに」  吐き出したとたん、ぼろっと涙がこぼれた。 「僕はあいつの息子になんて会いたくなかった。そもそも僕はどうして何年もあいつに金を渡したりしたんだ。最初から間違ってた。あいつになんか会わなければよかった。友達だなんて思わなければよかった。それなのに僕は……僕は……」  彼はついにしゃくりあげはじめ、まともな言葉が出てこなくなって、鼻をすすった。  背中をさする手を感じ、マットレスが揺れた。男の腕がベッドに彼をひっぱりあげようとしている。 「大丈夫だから」低い声がいった。 「今日はここで休んでいこう? 何もしないで」 「す、すみませ――」 「あやまらなくていいから」  男は犬か猫を相手にするように彼の頭を撫でた。 「ほら、ぼくね、スーツを着てるあいだはまだ人間だけど、脱ぐとクマさんみたいでしょ? たいしてモテないおじさんだけど、腹で温めるのは得意なんです」 「でもほんとに、みっともなくて――」 「そんなことないよ」  シャツの上から撫でる手は大きくて、彼を安心させる心地よさがあった。 「えっと……ぼくはセイ。今原誓といいます。あなたのことは何て呼べばいい?」 「ぼ、僕は……マサキ……です」 「マサキ君」大きな手は彼の髪を撫で続けている。 「あなたは大丈夫だ。ぼくにはわかるよ」
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