レプリカント

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 久野未来。  街頭署名の氏名欄にそう鉛筆を滑らせたとき、あまりの違和感のなさに息を飲んだ。それは透明なまでの自然さに満ちていた。  頭の中に記録されている目次録を開き、一ページ目に記されている名前を、目の前の紙に書き写した。何の躊躇もなく、わたしはその名を書いた。  先の尖った鉛筆は、一画書くごとに黒い鉛のカスを吐き出した。じりじりと先端が丸みを帯びていく。ペン立てに三本ほど入っている鉛筆は、どれも削りたてに見えた。  住所まで記入して顔を上げると、さっきわたしに署名を求めてきた中年の女性がにこやかに、ありがとうございますと言った。頬の肉がふんわりと垂れた優しげな笑顔を見たときだけ、心が揺らいだ。  住所欄には自分の本当に住んでいるところを書いた。この署名はどこへ提出するのか詳しいことはわからないけれど、一人一人の名前と住所を照合するのだろうか。もし名前と住所が一致しなければ、その人は除外されるのだろうか。まさか、集めた署名すべてが無効になるということはないだろう。  まあいいや、と思う。だいたい、何に対する署名運動なのかもよく把握しないままサインしたのだ。社会の何を変えようと、わたしはその運動に貢献したかったわけではない。  女性に呼び止められ記入用紙を見せられたとき、〝氏名〟の文字に胸が騒いだ。女性の説明は耳を通り過ぎていった。心臓がどくんと跳ね上がったかと思うと、次の瞬間には鉛筆をとり、息をするように久野未来、と書いていた。  署名のブースから離れ、早歩きで通りを歩く。別に急ぎの用事なんてないけれど、たらたら歩く気にはなれなかった。  衝動を実行に移したあとの高揚感に包まれていた。今すぐ駆け出したい気持ちと隅っこに隠れたい気持ちが、やじろべえのように均衡を保っていた。  足元をカラカラと木の葉が転がっていった。日差しはあるが、風は冷たい。もうそろそろ裸足にパンプスというスタイルは通用しなくなってきた。  道路脇に散らばる枯れた葉を見ると、わたしはいつもショパンの木枯らしのエチュードを思い出す。曲全体がそこはかとなく暗澹で、まさしく秋の夕暮れのような雰囲気が漂っているのだが、ことにラストの部分は枯れ葉を伴って木枯らしが吹き抜けていく様が目に浮かぶ。  マウリツィオ・ポリーニの奏でる木枯らしのエチュードのラストからは、寛容でスケールの広い大自然の中の木をイメージする。その木が葉を落とし、葉が土に還り、また次の芽吹きまで感じさせるような壮大さだ。  ポリーニの演奏も素晴らしいが、フジコ・ヘミングの木枯らしのエチュードのラストは、木枯らしというタイトルを最も生かしている気がする。今さっきわたしの足元にまとわりつくように通り過ぎていった枯れ葉。彼女の演奏は、まさに乾いた葉が木枯らしに巻き上げられ地面を転がる様子が表現されていると思う。  頭の中にクラシックを響かせながら信号待ちをしていると、揚げ物のいい匂いがぷわんと漂ってきた。横を見ると、新しくできたらしいトンカツ屋が営業中の看板を出していた。ガラス戸の奥に三人ほど客が並んでいる。  カラカラと音を立てる枯れ葉とサクサクの衣のトンカツが、何故だか同類のような気がしてきた。多分、乾いた感じが似ているのだと思う。  信号が青に変わったが、わたしは渡らないでトンカツ屋ののれんをくぐった。 「何名さま? あ、一名さまね。名前を書いてお待ちくださーい」  ショートカットの背の低い店員が、手前のカウンターの客に水を運びながら言った。忙しそうに店内を動き回っている。 テーブルを片付け注文を取り、会計をして新しい客を案内する。客がメニューを見ている間に、別のテーブルへ料理を運ぶ。それらを淀みなく一人でこなす店員は、障害物を避けながら隅々まで掃除するルンバのようだと思った。不器用なわたしにはきっと真似できない。  わたしは言われた通り、会計台横の記入用紙に名前を書こうとペンを取った。そのとき、再びあの名前がひらめくように頭をよぎった。  わたしはどきどきしながらボールペンを握り、噛みしめるように久野未来、と書いた。時がゆっくり進んでいるような錯覚を感じた。  署名はあんなにあっさり書いたというのに、偽名でもバレない飲食店の名前記入には時間がかかるなんておかしいと思った。普通、逆だろう。でもわたしは妙に緊張していた。自分でも自分の感覚がわからなかった。  一文字一文字ゆっくりと書きペンを置くと、前に並んでいる三人の名前が目に入った。  タナカ。イトウ。大橋。 用紙をめくると、以前来店した客の名前がずらりと並んでいた。カタカナ、ひらがな、漢字と差はあれど、皆名字だけしか書いていなかった。  署名の要領で記入してしまったことに一瞬恥ずかしさを覚えたが、久野未来という字の据わりのよさを見てどうでもよくなった。わたしは久野未来のまま、席に案内されるのを待った。 「えーと次は、ひさのさーん。ご案内しまーす」  わたしが先頭になってすぐ、名前が呼ばれた。けれど、その読まれ方に戸惑いと失望が湧き上がった。 「くの、です」  案内しようと歩き出した店員の背中に、わたしは言った。どうしても訂正しなければ、と思ったのだ。店員は驚いた顔で振り返り、 「あら、ごめんなさいね」  とたいして謝る気もなさそうな声で言った。 何事もなかったかのようにカウンターの席に案内される。わたしはまだ釈然としない気持ちでいた。くの、だもん。くのみらい、だもん、と心の中で呟く。  トンカツは食べ終わるのが勿体ないと思うほど美味しかった。口に入れるとサクッと小気味いい音を立てる。 食べ終わる頃には、悶々とした気持ちはどこかへ消えていた。かわりに、わたしは久野未来だ、という強い意思のようなものが芽生えていた。それは擦っても落ちない黒カビみたいなものであったし、吹いたら飛んでいく綿毛のように軽やかなものでもあった。  ありがとうございましたー、という声を背に店を出た。途端、冷たい風が顔に吹きつけてくる。でも、わたしは微笑んだ。風に歪みそうになる口元を引き上げ、上機嫌の顔を作った。わたしは嬉しかった。久野未来は嬉しかったのだ。  高校の頃、一学年上に嫌いな先輩がいた。先輩とは部活が一緒だった。卓球部だ。部員が少なくて男女混合で活動していた。  先輩は卓球こそ下手だったものの、それ以外は何につけても要領がよく器用にこなした。どんくさいわたしは先輩に、 「不器用だねえ」  なんてからかわれたりもした。もともと一重の細い目が、笑うと針金みたいになった。  先輩はいつも大体笑顔で人当たりがいいけれど、自分の通したい意見はどんな手を使っても絶対に通す。相手の気を巧みな話術で外らせ、その隙にポンと自分の有利な方に話を持っていく。相手は特に嫌な気分にもならず、「まあこういうもんか」といった具合に納得してしまう。そんな詐欺師的な要素が、先輩にはあった。  途中まで帰る方向が同じで、部活のあと夕暮れの歩道を並んで歩いた。夕日に向かって歩くので、わたしと先輩の影が後ろに長く伸びていた。先輩の少しニキビ跡のある横顔をちらりと見ては、肺が圧縮されるような息苦しさを感じていた。  どうして先輩といるとこんなに苦しいのか。わからなくて、怖かった。十五、六年生きてきた自分の土台や価値観全部が丸ごと否定されているような気になってくる。  先輩の細い目も笑い顔も広い背中も、見たくなかった。視界に入るだけで、内臓ごと飛び出しそうなしんどさを覚える。  だから、嫌いだった。わたしにわけのわからない苦しみを植えつける先輩が、嫌いで仕方なかった。  目を覚ますと、ずっと遠くで鳴っていた気がしたスマホのアラームがすぐ耳元で聞こえた。止めようとして、間違ってスヌーズボタンを押してしまった。解除してスマホを枕の横に戻す。  仰向けになり、天井に手を伸ばす。指の間に、カーテンから漏れてくる光が当たった。  先輩の夢を見た。久しぶりだった。前回見たのは確か、一週間前だ。  高校を卒業してもう八年も経つのに、いまだに先輩の夢を頻繁に見るなんてどうかしている。多分、それほど嫌いだからだろう。  夢占いのサイトで読んだことがある。繰り返し夢に見るのは、そのものに対してトラウマを抱えていたり強く記憶に刻まれているからだと。もしくは消化されていない思いがあったり。  夢の中の先輩はいつもわたしに冷たい。わたしは先輩に一生懸命話しかけるのだが、先輩は迷惑そうに眉間にしわを寄せるだけ。  どうしてこんな夢を見るのだろうか。それも、一度ではなく何回も。八年に渡って見続けている。  どれだけ首を捻ってもわからないし、胸が苦しくなってくるのでもう考えるのをやめる。嫌いすぎてトラウマにでもなっているからだろう、ということでケリをつける。  わたしは弾みをつけてベッドから起き上がった。  クローゼットの中から適当な服を選んだところで、今日は仕事終わりに合コンがあることを思い出した。手にしている緑色のカーディガンと黒のスカートに目を落とす。カーディガンの袖の部分には毛玉ができていた。  しばらく悩んで、まだ一回しか着ていない紺のドット柄のワンピースを引っ張り出した。これならしわも寄っていないし、合コンでも浮かないだろうと判断した。  合コンと言っても友人に徴収されたわけではない。わたしが今日参加するのは、ネットで見つけた街ぐるみで行われる合コンイベントだ。街コンと言うらしい。飲食店を貸し切って、三、四十名の出会いを求めている男女が交流をする。企画によっては、年齢制限があったり職業が限定されたものもあるらしい。今回は二十代から三十代までの男女が参加する予定になっている。  二十六にもなると、周りは結婚だ出産だと騒がしくなる。勝手に騒いでおけばいいと素知らぬふりを決めこんでいたのだが、どうにもこうにもわたしという人間は流されやすいタイプなのかもしれない。気づけば合コンや街コンのサイトを開いては、スケジュールを調整するようになっていた。婚活アプリにも登録しようかと迷っている。  一人暮らしをしていると、たまらなく寂しさに襲われる夜がある。狼のように遠吠えでもしたくなる。そして、そういう夜に限って先輩の夢を見るのだから、やる瀬なさが頂点に達しそうだ。  顔を洗い歯を磨き、ワンピースに腕を通して着心地を確かめる。問題ない。トレンチコートを上から羽織り、家を出る。  一層秋が深まっていた。この間の休みの日に署名活動をしていた場所を通ったが、今日は誰もいなかった。立ち止まる人さえ、いない。皆風に追われるように、足早に駅のほうへ歩いていく。  今ここでわたしが立ち止まったら、誰かわたしを見るだろうか。何をしているのだろう、と不思議に思う人が何人いるだろうか。水の流れを遮ったときのように、わたしを中心にして二手に分かれて進んでいくのだろうか。  そう思いながらも、わたしは人の流れに沿って歩いた。立ち止まる意味がないからだ。木枯らしが耳の横を吹き抜けていった。  地下鉄の中は暑かった。ぎうぎう、と鞄同士が擦れる音がする。トレンチコートを脱ぎたいくらいだが、身動きさえ容易にはとれない。  会社の最寄駅に着き、地下鉄のドアから人が大量に吐き出される。蟹の腹の中にからチャカチャカと出てくる子蟹のようだといつも思う。そのイメージは多分、幼い頃に読んださるかに合戦の絵本からきている。  会社に到着し、自席でパソコンを起動する。メールチェックから一日が始まる。 「あれ、なんか今日の服かわいいね」  隣の席の桜田さんが椅子にもたれかかりながら話しかけてきた。 「何? 彼氏とデート?」 「彼氏なんていませんよ」 「うそー、じゃあ何で?」 「街コンに行くんです」  正直に答えた。適当に誤魔化しても、桜田さんはずいずいと突っ込んでくるからだ。 「街コン? 大人数でやるやつ?」 「まあそうです。今回は四十名が定員ですけど」 「へえ、出会い求めてる系なんだあ」  桜田さんはにやにやと魔女的な笑みを見せた。そういう彼女には、付き合って五年になる彼氏がいる。すでに婚約をしているらしく、あとは環境が整ってからと彼女は言う。 「人肌恋しい季節なんで」 「あははー、確かにね。でも街コンとかって、ちゃんとした人と出会えるの? キモメンばっかじゃない?」 「今日初めて行くんで、わからないですけど」 「変な男には気をつけてね」  ……さん、可愛いんだから。  桜田さんはわたしの肩を軽く叩き、姿勢を正してデスクに戻った。  わたしは可愛いとお世辞を言われたことよりも、自分の名前を出されたことに不快感を覚えた。  自分の名前が嫌いなわけではない。でも、わたしには別の名前がある。その名を呼んでほしかった。  けれど、わたしがその名を名乗っていることはわたし以外誰も知らない。誰にも言っていない。だから、仕方ないことだ。  わたしは周りに気づかれないように小さくため息をつき、とっくに起動しているパソコンに向き合った。新着メールはなかった。  午後六時になったと同時にパソコンの電源を落とし、席を立った。桜田さんが小声でいってらっしゃーい、と言い手を振ってくる。わたしはお先に失礼します、と頭を下げた。  会社を出て、地下鉄の駅へ向かう。街コンの会場は、この街一の繁華街にある〝SCAT〟というバルだ。行ったことはないが、住所を見れば大体場所はわかった。  帰宅ラッシュの地下鉄に揺られ、わたしの家の最寄駅を過ぎ、二駅行ったところで降りた。これから飲みに行くのであろうサラリーマンたちが、わたしの後ろからどっと降りるのが見えた。 すぐわかると思っていたが、SCATはビルとビルの間のさらに奥まったところにあり、一見ではわからなかった。何回も店の前を通り過ぎてはまた戻る、ということを繰り返し、男性の集団が入って行ったのを見かけてようやく店にたどり着いた。開始時間の七時五分前だった。  店の中は薄暗く、入り口の横にバーカウンターがあった。奥に人が集まっている気配がする。ガヤガヤとした話し声が耳についた。  バーカウンターで受付を済ませる。 「お名前いいですか?」 「久野未来です」  雑音にかき消されないよう、大声で言った。受付の二十代前半くらいの男の子は一瞬顔をしかめ、名簿に丸をつけた。おもちゃのコインのようなものを二枚わたしに手渡し、 「このチップをバーテンダーに渡せば、好きなドリンクと交換できますんで。好きなタイミングでどうぞ」  愛想のない言い方をして、男の子はまた名簿に目を落とした。小ぶりなピアスが彼の右の耳たぶを貫いていた。ピアスは暗がりの中、天井のライトに反射してやたらとピカピカ光っていた。  男の子のぶっきらぼうな応対のせいで、久野未来を名乗ったことの余韻に浸る余裕がなかった。店の奥へと進みながら、わたしは胸に手を当てた。鼓動はそれほど大きくない。むしろ穏やかなくらいだ。 久野未来はわたしと融合しつつある。最初から違和感こそなかったけれど、わずかな緊張感はあった。でも、それも薄くなってきている。わたしは久野未来を手にしつつある。  もっと名乗りたい。わたしは久野未来であると叫びたい。世界中の人に名刺を渡したい。  久野未来。久野未来。わたしは、久野未来……。 「皆さん、こんばんはー! 本日はお忙しい中お集まり下さいましてありがとうございまーす! 三十五名の方々にお集まりいただきました。皆さん、是非楽しいひと時をお過ごし下さいねー。交流は完全自由となっております。自分からどんどん気になる異性に声をかけて、じゃんじゃん仲良くなってくださいっ。それでは、第五回SCATパーティースタートです!」  司会の女の子の掛け声に、わあああ! と場内の歓声が高まった。わたしが頭の中でぶつぶつとお経のように久野未来と唱えている間に、街コンが始まっていた。 皆グラスを片手に移動し始めた。ぽつぽつとペアやグループができている。わたしはまだドリンクさえもらっていなかった。  とりあえずバーカウンターでジンジャーエールを注文し、場内を見渡した。わたしのように一人でうろうろしている者はいない。手持ち無沙汰な感じの男の子もいたけれど、隣には友人らしき男の子がいてきょろきょろとターゲットを探していた。  こういうラフな雰囲気だとは思わなかった。もっとこう、席に座って向かい合った人と自己紹介をし合って、時間が来たら席を移動して別な人と話して……。そんな感じを想像していた。  わたしには今回の企画は合わないと思った。ある程度枠組みがされていないと、どう話しかけてよいのかわからない。わたしはちびちびとジンジャーエールを飲みながら店の奥側の隅に立ち、誰かに話しかけられるのをひたすら待った。  しかし、待てど待てど、わたしのそばに寄ってくる人はいなかった。もうかれこれ十五分は場所を移動していない。 周りは盛り上がっているようで、このあと飲み行くー? なんて会話がちらほら聞こえてきた。余っているのはわたしくらいなのだろう。  わたしはジンジャーエールを口に含み、場内を歩き出した。少しずつ飲んでいたから、グラスにはまだ半分以上残っている。  ふらりと歩き、立ち止まったのは、さっきいた場所から直線上に移動しただけの隅っこだった。 わたしは結局、街コンの間中、十分置きくらいにぐるぐると店の四隅を移動して過ごした。これほど二時間が長いと思ったことは、きっと今までの人生で一度もないだろう。  ドリンクは一杯だけしか飲まなかった。もったいないと思いつつも、ジンジャーエールの炭酸で胸いっぱいになってしまった。使わなかったチップはどうすればよいのかわからず、終了と同時にこっそりバーカウンターに戻した。 「ありがとうございましたー」 「お気をつけてー」  出口で司会の女の子と受付の男の子が、参加者に挨拶をしていた。場内では雑然としていた人たちも、出口まで来るときれいな二列になって外へ出て行った。漏斗で濾過されていく液体のように、皆滑らかな動きだった。  ドアを通り抜けようとしたとき、受付の男の子と目が合った。男の子はわたしには何の興味もないといった目で、機械的にありがとうございました、と言った。そしてすぐ、わたしの後ろからくる人たちに目線を向けた。  わたしは彼の左の耳たぶにも、右と同じピアスが刺さっていることに気づいた。ピアスは店中の光を集めて、やっぱりピカピカ光っていた。  店を出てすぐのところに人集りができていた。街コンで出会った人たち同士で今から飲みに行くらしい。店どこがいいー? と甘ったるい声で女の子が仕切っている。  他にも、男女のペアが通りを歩いて行く姿を何組も見た。店を出てからスマホを取り出し、番号を交換する人たちもいた。  わたしはそんな彼らを横目に見ながら、飲み屋街とは反対のほうへ歩き出した。誰とも連絡先を交換できないとは思っていなかった。始終受け身だったわたしも悪いのかもしれないが、生きたまま裸で鳥に啄まれるような当てどない虚しさが込み上げてきた。  空っぽなネオンの瞬きをぼんやりした頭が急速に絡め取っていく。わたあめのようなあやふやな思考が、耳元を過ぎていくねっとりとした話し声を遮断する。一刻も早く、家に帰りたかった。  夢で見た先輩の冷めた表情が、何故だか脳裏に浮かんだ。わたしの浅はかな考えを見越していたかのように、先輩は冷たい目をしていた。  体が震えた。それは気温が低いからとか、少し前に冷たい飲み物を飲んだからとか、そんな理由ではない気がする。体の芯も冷えているだろうが、もっとずっと届かないほど奥の、心の芯もきっと冷えていた。  この世界にたった一人取り残されたような寂しさ、などという表現は嫌いだ。寂しさは物理的なものより精神的なもののほうが何倍も重いと思う。多くの親しい人に囲まれて何一つ不自由のない暮らしをしていても、ときどきぽつんと指で障子に穴を開けるような気持ちになる。そんな寂しさのほうが、多分より寂しいのだと思う。ないものを諦めるよりも、あるものをなくすほうが辛いのと一緒だ。  地下鉄の駅に着いた。意味のない考え事をしながら歩いていると、目的地には早く着くらしい。  階段を降りたところでバッグに手を突っこみICカードを探していると、 「あの、すいません」  後ろから声をかけられた。  振り向くと、二十代後半か三十代前半くらいの体格のいい男性が立っていた。 「あの、さっきパーティーにいましたよね?」 「……はい」 「あの僕、佐原と言います。実はあのときあなたに声かけようかなってずっと思ってて。ごめんなさい、こんなところでいきなり」  男性、佐原さんは頭を掻きながらそう言った。照れたように下を向く。  照れくさいとき、頭を掻きながら話す人を初めて見た。意外といそうなものだが、目にする機会は今までなかった。 「あの、よかったら連絡先交換してもらえませんか」 「……いいです、けど」  わたしたちは券売機の横のスペースまで移動して、ラインを交換した。佐原圭佑、という名前がわたしのスマホの画面に現れた。友達に追加する。 「えーと、グッピー、さん?」 「あ、それ適当につけたんです。小さい頃、グッピーって魚飼ってて」 「そうなんですか。あの、お名前は」 「久野未来です。ラインの名前、変更しておいてください」 「くのみらいさん。あの、よろしくお願いします」 「こちらこそ」  わたしがそう言うと、佐原さんは二重の大きな目をいっぱいに細めて笑った。  佐原さんの家はわたしと反対方向らしいので、改札を抜けたあとおやすみなさい、と言って別れた。  ホームに降りると、向かい側に佐原さんが立っているのが見えた。彼も気づいたようで、お互い頭を下げ合う。こちらの電車のほうが早く来た。  ラッシュ時ほどではないものの、車内は混んでいた。わたしの前に立つ背の高い男子集団のせいで、ホームにいる佐原さんの姿は見えなかった。  わたしは吊り革につかまりながら、佐原さんのことを考えた。彼はさっきの短い時間の中で、何回「あの」と言っただろうか。目が大きかった。笑っても目が大きいことがわかる人って、そういないと思う。ジャケットを着ていたけれど、体がガッチリしているのが見て取れた。何かスポーツをやっているのだろうか。例えば、ラグビーとか。  好感は持てた、と思う。それに声をかけてきてくれて素直に嬉しかった。あのまま帰っていたら、きっとわたしは泣きたいほど惨めだっただろう。  でも、と胸の奥で声がする。どうしてだろう、先輩の細い目が、弧を描く唇が、白い肌が、ちらちらと頭に浮かぶ。わたしは、先輩みたいな人は嫌いなのに。 鼓動が早くなる。手を胸に当てなくてもわかった。そのとき、鞄の中でスマホが震えた。 『久野さん、先程は失礼しました。連絡先交換できて嬉しかったです。もしよろしければ、今度食事でもいかがですか?』  佐原さんからのラインだった。久野さん、の文字に目が吸い込まれていく。しゅるしゅると心臓が元の大きさに戻っていくような感覚がした。先輩の影が頭から消える。わたしはスマホを両手でぎゅっと握りしめた。 頬が緩んでいく。初めて誰かと心が通い合ったときは、こんな気持ちになるのではないだろうか。  わたしは地下鉄を降り、家に向かう道のりで佐原さんに返信をした。 『こちらこそ声をかけていただいて嬉しかったです。是非ご飯行きましょう。都合のいい日はありますか?』  もしかしたら、食事に行きましょうは社交辞令かもしれないと思いつつも、もっと彼と話してみたかった。久野さんでも未来さんでも、名前を呼んでほしかった。久野未来という響きを、自分の声以外で聞いてみたかった。  家に着いて部屋着に着替えていると、またスマホが震えた。 『今週の土曜日は空いていますか? 久野さんの都合のいい日も教えてください』  わたしはすぐに返信した。 『今週の土曜日、空いてます』  久野未来は、佐原さんとデートをすることになった。  先輩が笑っている。なんて小憎たらしい顔。  夕日の差す緩やかな坂道。わたしは赤い空を指さして言う。 「見て、綺麗」 「ほんとだ」  大して感動もしていなさそうな乾いた声で先輩が応える。  分かれ道に来ると、お疲れ様でしたと言って二人は背を向け合う。  わたしは先輩が嫌いだった。  また、先輩の夢を見た。今日の先輩は冷たくなかった。夢の中だけれど、夕日が本当に当たっているみたいに顔が熱かった。  今日は、先日街コンで知り合った佐原さんと出かける日だ。駅前で待ち合わせをしている。 彼とはあの日以来ラインが続いている。他愛のない話ばかりだが、彼は決して会話を終わらせなかった。わたしから終わらせるのも悪いと思い、色々と話題を探したが、大抵は佐原さんから質問してきてくれた。 「久野さん!」  名前を呼ばれて顔を上げる。薄手の茶色いコートにジーンズ姿の佐原さんがこちらへ歩いてくる。 「今日はわざわざ来ていただいてありがとうございます」 「いえ、こちらこそ」  佐原さんが頭を下げたので、わたしもつられて同じ仕草をする。佐原さんからはかすかにヘアトニックの香りがした。 「何か食べたいものはありますか」  そう問われ、考えてみたが何も浮かばなかった。 「何でもいいです」  と答えると、すぐに後悔が襲ってきた。デートのとき、食べたいものを聞かれ何でもいいと答えるのは印象がよくないとネットの記事に書いてあった。中華か洋食がいいです、とか昨日和食を食べたのでそれ以外で、とか何でもいいにしてもある程度こちらで絞って答えること、と恋愛指南サイトには記載されていた。 「あ、えっと……」  慌てて何か言おうとすると、 「俺はピザが食べたい気分なんですが、イタリアンはどうでしょう」  佐原さんが先に口を開いた。わたしの失態を気にするふうでもなく、ごく自然に提案してきた。 「あ、いいですね」  じゃあ決まりで、と佐原さんは笑った。爽やかな笑顔だった。 この人、いいな。そう思った。先輩のような心に何か秘めている笑顔ではなく、純粋に楽しいから笑う、そんな清々しさがあった。 先輩とは正反対の……。  歩き出す佐原さんの背中を見てハッとした。どうしてわたしはこんなときに先輩のことを考えているのだろう。目の前に男の人がいるのに。その人に好印象を持っているのに。もしかしたらこれから恋愛に発展するかもしれないのに。 「久野さん、あの信号を渡ったところに美味いイタリアンの店があるんですよ。俺、前に仕事で行って感動して。そこでもいいですか」  屈託なく笑いながら佐原さんが振り返った。わたしは今、どんな表情をしているだろうか。彼の気遣いや優しさに応えられるだけの余力があるだろうか。初っ端から今ここにいる彼のことではなく、目の前にいない先輩のことを考えてしまっている自分に嫌気がさした。  通りを越え、佐原さんの言う店に入った。四方の大きな窓から日の光が差し込み、店内は活気に満ちていた。テーブルも椅子もすべて木でできており、植物は置いていないにもかかわらずどこか森のような雰囲気が漂っていた。 「素敵なお店ですね」  わたしが感想を言うと、佐原さんはにっこりと笑った。 「そうでしょう。俺も一目で気に入ったんです。料理も美味しいんですよ」 「楽しみです」  わたしたちはパスタを一皿ずつ頼み、サラダとピザは二人で分け合うことにした。先にサラダが運ばれてくると、佐原さんはわたしの分も取り分けてくれた。  何より目を見張ったのは、佐原さんのパスタの食べ方だった。ボロネーゼという巻きやすい質のパスタだったのもあるかもしれないが、計算したかのように麺はフォークにくるくると巻きついていった。巻き具合は太過ぎず細過ぎず、ちょうど一口サイズで佐原さんの口に運ばれていった。  わたしのほうがパスタを食べるのが下手かもしれない。麺を巻くたび、カルボナーラのクリームが小さく皿のふちに飛び散る。テーブルに飛ばないだけましかもしれないが。  ここでもふと先輩のことを思い出してしまう。部員みんなで部活終わりにファミレスに寄ったとき、先輩のパスタの食べ方は実に野生的だった。と言うか、ラーメンを食べているようだった。まったくフォークに巻きつける気なし、何なら箸で食べたほうが早いのでは? と思うほどだった。 「久野さん? どうしたんですか」  佐原さんが正面から不思議そうな顔をしてわたしを見ている。彼に言われて初めて、わたしは笑っていることに気づいた。にやにやと口元が歪んでいたようだ。 「すいません、ちょっと思い出し笑いを」 「どんなことですか?」  佐原さんが食いついてきたので、わたしは先輩のパスタの食べ方のことを話した。 「俺も最初はそんな感じでしたよ。でも友達に指摘されて直したんです」 「そうなんですか」 「苦労しましたよ、直るまでに」  そう言って佐原さんははにかんだ。 「でも、久野さんはその先輩のことが好きだったんですね」 「ええっ?」  突然佐原さんがそんなことを言い出したものだから、わたしは驚いて普段より高い声が出た。 「あ、いや、異性としてかどうかはわかりませんが、人としてと言うか、お気に入りの人物と言うか」  しどろもどろになりながら話す彼を見て、わたしは冷静さを取り戻した。この人は何を言っているのだろう。わたしが先輩のことを好き? 人として? お気に入り? まさか。 「なるほど。でも違いますね。わたしは先輩のことは嫌いだったんですよ」  佐原さんは目をしばたかせた。わたしの答えが意外だとでも言うように。 「そうなんですか? とても嬉しそうな顔をされてたからてっきり好きだったのかと」 「嬉しそう?」 「はい。愛おしそうと言うか、もうこの子はまったくしょうがないなあ、みたいな雰囲気のやさしい顔をしてましたよ」  わたしは目を見開いて佐原さんを見た。この人の目に映るわたしは、実際のわたしとはかけ離れているのではないか。どんな形相のわたしでも、この人の目には好意的に映るのではないか。 「あ、気を悪くしたならごめんなさい」  黙り込んだわたしを心配したのか、佐原さんが謝ってきた。彼が変なことを言ったせいで、わたしはまた先輩のことを考え始めてしまった。  それでもわたしは何とか笑顔を作って、 「いえ、大丈夫です」  と言った。佐原さんはほっとしたように表情を和らげた。けれどそれ以降、何を口にしても味がしなかった。わたしは佐原さんと楽しげに会話をしながら、心の中ではずっと先輩のことを考えていた。もし目の前にいる佐原さんが先輩だったら、わたしはどんなことを言いどんな仕草をするのだろう。何を話し、どんな話に笑うのだろう。それがただただ知りたかった。  イタリアンを食べ終わり、店を出た。奢ります、と言って聞かない佐原さんを何とか制し、割り勘にしてもらった。お互い働いているのだし、奢ってもらう理由もなかった。 個別会計をしているわたしの横で困惑の表情を浮かべている佐原さんを見て、またやってしまったと思った。恋愛指南サイトには、相手が奢ると言ったら素直にお礼を言って奢られること、と書かれてあったはずだ。そして、次は私がご馳走しますと持っていけば二回目のデートにもつながると。  可愛くない女だと思われただろうか。融通のきかない女だと思われたかもしれない。 そもそも何故、二人で食事をするとき奢る奢らないを気にしなければいけないのか。友人同士だったら別に気にしないだろう。わたしと佐原さんは恋人ではない。今後どうなるかはわからないが、現時点では違う。それなら友人かと言われれば、それも違う。知り合ったばかりでこれから関係が発展する可能性がある人、というのはどんな言葉で表すのだろう。人間関係のどこに位置するのだろうか。  適切な言葉で表せない関係は、どうにも落ち着かない。短い爪でゆで卵の薄い膜を剥がすみたいに、なかなか核心に引っかからなくて苛立ちが募る。そんな相手に気軽に奢ってもらえるほど、わたしは器用な人間ではない。  一方で、考え過ぎかとも思う。佐原さんは佐原さんなりの哲学を持って、わたしに奢ろうと思っただけかもしれない。例えば、自分が誘ったのだからご馳走するべきだとか。そうすると、わたしは彼の哲学を根こそぎ否定したことになる。彼が困惑した表情をしていたのも納得ができる。  わたしは途端申し訳ない気持ちになって、隣で信号待ちをしている佐原さんに、 「ごめんなさい」  と言った。彼は驚いた顔でわたしを見た。 「え、何がですか」 「わたし、佐原さんの哲学を否定してしまったんじゃないかって。そんなつもりはなかったんですけど……」 「哲学? 何のことですか?」 「佐原さんがせっかく奢ってくださろうとしたのにわたしが無理に断ったから。でもそれは佐原さんの思考とか心に根付いた考えを否定したわけではなくて、わたしにもわたしなりの思いがあったと言うか、それを押し通してしまったのは申し訳ないんですけど、否定してやろうと思ったわけではないんです。と言う意味での、ごめんなさい、です」  わたしが彼に謝り長々と弁解をしている間に信号が青に変わり、点滅して、また赤に変わった。佐原さんはちらりと信号に目をやったけれど、わたしが喋っている間はわたしの顔をじっと見ていた。それがどうもわたしの鼻のあたりを見つめているような気がして、何かついていてはいけないものがついているのかと恥ずかしくなった。  わたしが話し終わると佐原さんはふっと笑って、 「久野さんはそんなこと考えていたんですか。俺は別に深いこと考えて奢ろうと思ったわけじゃないですよ。もっと気楽に捉えてください」  と言った。大きな目が山なりに細くなる。やさしく笑っているのだろうけれど、わたしは心臓がひゅんと冷たくなった。  そんなこと、って。  そんなこと、と言われたわたしの考えは、一応わたしなりの哲学に基づいている。わたしが重く考え過ぎているだけかもしれないが、軽く受け流してほしくはなかった。  次に信号が変わったとき佐原さんは、 「行きましょう。まだお時間はありますか? 映画でも観ます?」  とあっさり話題を変えた。  切り替えなければ、と思うほどにわたしの気分はずぶずぶと沈んでいった。佐原さんの問いかけには曖昧に返事をし、わたしたちは映画館へ向かった。  これと言って観たい映画はなく、佐原さんが興味を示したSF映画のチケットを買った。さっきのイタリアンの店で懲りたのか、佐原さんは俺が払いますとは言わなかった。  映画の内容はほとんど頭に入ってこなかった。序盤から人がよく死ぬなあ。それくらいしか思わなかった。中盤に差しかかっても、続々と人が死んでいった。人がゴミのようだ、とは昔別の映画で聞いた台詞だが、まさにそんな感じでもはや人には見えなかった。  終盤で主人公らしき人物が死んで平和が訪れるという、理解し難い展開となり、壮大なテーマソングとともにエンドロールが流れ始めた。面白いか面白くないかで言えば、まったく面白くなかった。 唯一心に残ったのは、終盤で死んだ主人公らしき人物が先輩に似ていたということだ。海外の映画だからキャストも全員外国人なのだが、主人公だけは彫りの深い顔ではなく日本人のような薄めの顔をしていた。日系何世とかなのかもしれない。先輩ほど塩顔ではないものの、厚ぼったい瞼と細い目が先輩を彷彿とさせた。眼鏡をかけさせれば、もっと似ている。  主人公が消えて世界が平和になる、という終わり方も先輩を思わせた。わたしの心に今もなお何故か居座り続ける先輩。彼がわたしの心から消えたら、わたしはきっともっと器用に生きられる気がする。先輩がわたしに言った、不器用だねえ、の言葉が、未だにわたしを縛りつけている。わたしは不器用でいなければならない、とどうしてか思っている。  もっと要領よく立ち回れるはずなのだ。わたしはそこまで出来ない人間ではないはずだ。先輩が器用すぎるだけなのだ。でも先輩が高校を卒業して、わたしも卒業して、大学に入って大学を出ても、社会人になってもなお、不器用だねえという呪いじみた言葉が心の至るところに貼りついて剥がれない。  先輩とは連絡も取っていないし、会う予定も会えるかもしれないイベントもないから、もういないも同然なのだけれど、何故か事あるごとに思い出してしまうし夢もたくさん見る。いつまでもいつまでも、わたしは不器用だねえの呪いにかかったままだ。  先輩が心から出ていけば、わたしはきっと本来の割と要領がいい自分に戻れるはずだ。立ち退いてください、と念じてもどうにもならないのだけれど。  そんなことをぼんやりと考えていると、いつの間にかエンドロールが終わり場内が明るくなっていた。隣に目をやると、佐原さんがコートを着ているところだった。 「どうでした?」  と聞かれ、 「人がたくさん死にましたね」  と答えると、佐原さんは吹き出した。 「確かにそうですね」  今のコメントのどこに笑う要素があったのだろうかと思いながら、わたしも膝に掛けていたトレンチコートを羽織った。  夕飯にはまだ早いですね、と腕時計を見る佐原さんに、わたしは用事を思い出したのでこの辺で、と言った。佐原さんは残念そうな顔をした。 「また誘ってもいいですか」 「はい」 「また連絡します」 「はい」  わたしは軽く手をあげ、佐原さんに背を向けた。数歩歩くと後ろから、 「久野さん!」  と声がした。振り向くと佐原さんが駆けてきて、 「本当は夕飯をご一緒できたら言うつもりだったんですけど」  と一息で言った。それからしばらく黙りこみ、わたしがどうしたんですか、と言おうかと思ったちょうどそのとき。 「久野さん、よかったら俺と付き合ってくれませんか」  佐原さんは緊張した面持ちで、でもまっすぐわたしの目を見てそう言った。  わたしの脳は稼働をやめたらしく、言葉も出なければ感情も湧き上がってこなくなった。そのくせ耳の奥では佐原さんの言葉がリピートしている。図らずとも、わたしと佐原さんは見つめ合うかたちになった。  目力が強い、と思った。佐原さんはこぼれそうなほど大きな目で、わたしのさして大きくもない目を押さえ込むように見つめてくる。  周りの空気が急に薄くなったと思ったら、自分が息を止めていたことに気づいた。わたしは苦しくなって、つい目をそらし下を向いた。けれど、ここで目をそらすのは失礼かと思い、すぐに顔を上げた。  佐原さんの固かった表情がみるみるうちにほどけていく。にへえっと笑い、 「よかった、断られたらどうしようって思いました」  と嬉しそうな声で言った。  佐原さんとわたしの間に何が起こったのか、状況がつかめなくて戸惑った。けれど、彼のほっとしたように緩んだ顔を見ているうちに、ああ彼はわたしの仕草に勘違いをしたのだとわかった。わたしの、一瞬下を向きすぐ顔を上げるという仕草が、頷いたように見えたのだろう。  しまった、と思った。今日何回そう思ったかわからない。佐原さんとの関係がこの先どうなるかわからないとは思っていたけれど、付き合いたいという気持ちにはまだ至っていなかった。それどころか、デートを途中で切り上げて帰ろうとしたくらいなのだから、少なくともわたしにとってそれほど居心地のいい時間ではなかったということだ。  どうしよう。でも佐原さんの浮かれた顔を見ると、付き合う気はありませんあなたの勘違いです、とはとても言えなかった。  散々あれこれ考え、結局わたしはまあいいかと思うことにした。佐原さんと付き合ってみてもまあいいか、と。もともと好感は持っていたのだし、爽やかでいい人ではないか。 「久野さん、あの、名前で呼んでもいいですか」  照れながらそう言ってくる佐原さんのことを、可愛らしいと思った。何も問題はない。 「はい」 「俺のことも、圭佑って呼んでください」 「はい」 「あの、未来さん、ありがとうございます」  彼が「久野さん」から「未来さん」に呼び方を変えたとき、わたしの心に一筋の光が差した。糸みたいな光はやがて幅を持ち、遠く細い道になった。この道の先は、いったいどこに続いているのだろうか。ずっと歩いていけば、どこにたどり着くのだろう。  未来さん。その響きは至福に近く、久野未来を名乗ることはわたしの人生のテーマだとすら思った。  隣では佐原さんが穏やかに笑っている。わたしも口元がゆるゆると柔らかくなっていく。  未来さん。もう一度そう呼んでほしくて、わたしは彼の下の名前を口にした。彼の顔がさらにほころぶのを目で追いながら。 『初めて彼氏ができました。デートのとき、彼が手をつないでくるのですが、わたしは何だかしっくりきません。何故恋人同士になると手をつなぐのでしょうか? つなぎたくないわけではありませんが、つながないほうが両手が空いて便利なのではないかと思うのです。でも、断ったら彼が悲しみそうで怖いです。どうすればいいのでしょうか。アドバイスをお願いします。 二十代・久野未来』  圭佑さんと付き合うようになって、三週間が過ぎた。外はもうすっかり寒い。わたしは去年買って一度も出番がなかったショートブーツをクローゼットの奥から出して履くようになっていた。パンプスやミュールは新聞紙に一足ずつ包み、ダンボールに入れて靴箱の一番上にしまった。  圭佑さんと付き合って少し経った頃、雪虫が漂うように飛んでいたので、もう初雪が近いだろう。天気予報はあまり見ないが、ここ二、三日の冷え込み具合からそう予想した。  テーブルの上に置いていたスマホがヴヴーと鳴った。手に取ると、先ほど恋愛指南サイトのトーク欄に投稿した質問に対する回答がきていた。 『恋人と手をつなぐのは、お互いに好きっていう愛情表現の一種ですよー。質問者さんは彼氏のことが好きではない、もしくはまだ恋心がそれほど燃え上がっていないのでは? 三十代・みみこ』  何度もコメントを読み返す。内容よりも、みみこと名乗る人物がわたしのことを『質問者さん』と表記していることが気になった。  ハンドルネームを入力するとき、名字だけにしようか、それとも名前だけにしようかと悩み、結局フルネームで投稿したのだ。もしかしたら巡り巡って圭佑さんの目に触れるかもしれないとの懸念もあったが、画面に表示された久野未来の文字は美しくてうっとりと見惚れてしまったほどだ。混沌としたネットの世界にフルネームで立ち向かうには勇気が要ったが、わたしはやってのけたのだ。  それなのに、わたしのハンドルネームもといフルネームをあっさり無視して、『質問者さん』だなんて。せめて『久野さん』だろう。  わたしは自分が質問したことなどすっかり忘れて、みみこに苛立っていた。けれど、せっかく回答してくれたのに何も返さないのはさすがに失礼だろうと思い、義務的に『ありがとうございました』と入力して送信した。  画面を暗くしてテーブルに置いたところで、再びスマホが震えた。 『別に手なんてつながなくてもいいと思いますけどね。僕も両手空いてるほうが便利って言う意見、同感です。久野未来さんも結構淡白な方なんですね。 二十代・ぱぴよん』  ざっと流し読みをすると久野未来という文字を見つけた。おっ、と口元が緩む。ぱぴよんはわかっている。わたしは嬉しくなって、早速コメントを返した。 『ご回答ありがとうございます。確かにわたしは淡白なのかもしれません。付き合ったことがないからかもしれませんが、あまり相手にのめり込めないんです。好意はあるんですが、好きなのかどうかわからないです。好意と好きの違いって何なんでしょうか?』  画面をタップする指の動きが速くなる。気づけばまた質問してしまっていた。  それからしばらくの間、スマホは沈黙していた。ネットの向こうのぱぴよんはスマホを見ていないのか、返信内容を考えているのか、そのどちらでもないのか、わからなかった。  わたしは一旦スマホを離れ、部屋の掃除に移った。クイックルワイパーでリビングの床を拭く。 土、日と二日ある休日のどちらかは、掃除と洗濯に追われる。平日はやる気が起きなくて、帰宅したらついだらだらと過ごしてしまう。これがわたしのスタイルだ、と都合よく思い込むことにしている。  リビングと洋室の床を拭き終わり、埃が貼りついたシートを丸めてごみ箱に捨てたところで、スマホが鳴った。ぱぴよんからの返信だった。 『好意と好きの違い……何なんでしょうね。僕もよくわからないです。好意が好きになることもあるでしょうし、好意はあっても何か違うと思ったり。久野未来さんは誰かを好きになったことはありますか? あるならそのときの気持ちと今はどう違うのか、よく考えてみたらいいと思いますよ。本当に相手のことが好きなら、何かしらの苦しみ、痛みが伴うんじゃないかと僕は思います。ただの好意ならそこまでは思わないから』  ぱぴよんという人物は、実によく出来た人だと思った。わたしの質問に真剣に答えてくれる。久野未来と書いてくれる。わたしは満足だった。  満足したついでに、もう一度きちんと内容を読んだ。 「わたしって、誰かを好きになったことあったっけ」  ふと独り言が漏れた。今まで気にしたことはあまりなかったけれど、そう言えばないかもしれない。幼稚園や小学校の頃の記憶はすでに色褪せていて、好きな人どころか誰と仲良くしていたのかもわからない。  中学校では誰と誰が付き合っているだとか、何組の誰々が好きだといったクラスメイトの恋の話について行けず、曖昧に笑っていた記憶がある。  大学も社会人になってからも、色恋とは無縁だった。高校でもそれは同じだったはずなのに、わたしの瞼の裏には今、先輩の笑顔が映し出されている。手揉みしながらお代官様に擦り寄る越後屋を思わせる、胡散臭い笑顔。 わたしは先輩のことなど嫌いだった。先輩のことを考えると、心臓麻痺でも起こしたのではないかと思うくらい胸が苦しかった。先輩と一緒にいると、錐で刺されているように体中が痛かった。  夕暮れの帰り道を、本当は一緒に歩きたくなんてなかった。先輩を置いて逃げ出したかった。でも、そんなことはできなかった。できないわたしがいた。どうしてなのかは、未だにわからない。  高校の頃を思い出すと、顎の下あたりが熱く重くなってくる。その重さに耐えかねて何か叫ぼうと口を開くのだが、言葉なんてまったく出てきやしない。惨めったらしく口を半開きにして猫背で佇んでいる自分の姿が想像できるから、もう思い出したくなんてないのに……。  スマホのバイブレーションの音で我に返った。長く鳴っているから、これは電話だ。表示を見ると、圭佑さんからだった。  おたおたと電話に出ると、今から少し会えないか、と明るい声で彼は言った。人混みの中にいるのか雑音が混じっている。彼は今日休日出勤だったが、予定よりも早く終わったのだそうだ。  わたしの家の最寄駅にいると言うので、三十分あれば行けると答え電話を切った。薄く化粧をして、クローゼットを開く。今から会うとなれば、軽くお茶をするくらいだろう。一日デートのときよりはラフな格好でいいかもしれない。白いフーディの下にブラウンのプリーツスカートを合わせ、トレンチコートを羽織った。  家を出る間際になって、さっきまでやり取りをしていたぱぴよんに返信をしていないことに気づいた。もうすっかり時間が空いてしまっている。けれど、あれだけ熱心に答えてくれたのだから、 『丁寧なご回答ありがとうございました。とても参考になりました』  と送信しておいた。  圭佑さんはこの寒いのに外で待っていた。わたしの家の最寄駅はJR線と地下鉄二線が乗り入れするターミナル駅なので、駅ビルもそれなりに立派だ。むしろそこがわたしの住む地域では随一の都会の象徴となっている。  そんなわけだから、ビルの中で待っていればいいものを、彼はわざわざわたしの家から一番近い地下鉄の入り口の前に立っていた。スマホをいじりながらまっすぐに立つ彼を見て、わたしは淡い苛立ちを覚えた。ほんの一瞬だけの些細なものだったから、彼のそばに駆け寄ったときにはもう消えていたが、わたしを不安にさせるには十分だった。 「未来、急にごめんな。呼び出したりして」 「ううん、いいけど」 「近くまで来てたから、会いたくなってさ」 「うん」  圭佑さんは屈託なく笑い、わたしの手をとった。そのとき、ぱぴよんのコメントと先輩の顔が同時に頭に浮かび、わたしは咄嗟に手を離してしまった。圭佑さんが目を見開いてわたしを振り返る。 「どうしたの」  彼の問いかけに、うまく答えられる自信がなかった。振り払ってしまった左手を胸の前で握りしめ、ごめんなさい、と呟いた。 「手をつなぎたくないの?」 「ううん、そんなことない」  わたしは笑顔を作ってそう言ったけれど、うまく笑えている気がしなかった。けれど、圭佑さんはそっか、と言い再びわたしの手を握って歩き出した。  地下街の店をぶらぶらと見てから、コーヒーチェーン店に入った。店内は薄暗くて、心なしか利用客の会話もトーンを抑え気味になっている気がする。この落ち着いた雰囲気が好きで、たまに一人で来ていた。  圭佑さんは入ったことがないと言い、 「何か暗くて居心地悪くない?」  と何回も椅子に座り直していた。  わたしたちの隣の席では、母親らしき女の人が二、三歳くらいの男の子にカボチャのケーキを食べさせていた。 「おいしい?」 「んまあ」  その様子を見ていた圭佑さんが小声で、 「可愛いな」  と目を細めた。同意を求めるようにわたしの顔を覗き込んできたので、適当に笑顔を作った。わたしは先輩のことを考えていた。  部活帰りに先輩と並んで歩いていると、子猫がわたしたちの後ろをついて来たことがあった。白地に右の脇腹の一部だけ黒い、両手にすっぽりおさまりそうなほど小さい猫だった。顔をよく見ると鼻の横も黒かった。  先輩が先に気づき、足を止めて子猫が寄ってくるのを待っていた。人馴れしているのか、子猫は先輩の足元に擦り寄って来た。 「うわあ、可愛いっ」  わたしはしゃがみ込んで子猫に手を伸ばした。子猫はわたしの指先の匂いを嗅ぎ、ふいっと顔をそむけた。  先輩もしゃがんで、子猫の頭を両手で撫で回した。可愛くて仕方ない、といった撫で方だった。 「先輩って猫派なんですか?」  道路に寝転んだ子猫の後ろ足の肉球をぷにぷにしながら聞くと、 「うーん、子猫派かな。犬でも猫でも、あんまり大きいのは可愛くないからね」  と先輩は答えた。  あのときわたしはそれに対して何と言っただろうか。わかります、と言った気もするし、猫は大きくても可愛いですよ、と言った気もする。  散々わたしたちに撫でくり回されたあと、子猫は急に我に返ったように飛び起き、猛ダッシュで逃げて行った。突然の子猫の俊敏な動きに、わたしも先輩もびくっと肩を震わせた。顔を見合わせたが、お互い声が出なかった。 猫って不思議な生き物だなあ、とそのとき思った。先輩が何を思っていたかはわからない。  先輩の理屈からすると、二、三歳の子供は可愛い対象になるのだろうか。先輩はあのとき犬や猫のことは口にしていたが、人間の子供のことは言っていなかった。先輩は人間の子供も好きなのだろうか。そんなことを考えていたのだ。  圭佑さんはまだ隣の男の子を見ている。口元に笑みを浮かべて。ただ子供が好きなだけならいいが、わたしとの将来のことを考えているのならちょっと重いな、と思った。そう思った自分に驚いた。  圭佑さんとの将来をまったく考えていないわけではなかった。そもそも周りの結婚、出産ラッシュに影響されて参加した街コンで出会った人だ。彼も結婚を意識しているのだろうと思う節が多々ある。このまま順調に付き合っていけば、彼と結婚することになるだろう。それも悪くないのかもしれない。  けれど彼との将来を思うと、噛み切れない肉を口の中でもぐもぐやっているような怠さが伴う。彼の爽やかな笑顔を見ると胸焼けがしてくる。曇りがなく、とても爽やかなのに。 「未来」  圭佑さんの声がつむじに降ってきた。下を向いて考え込んでしまっていたようだ。慌てて顔を上げる。 「晩飯どうする? この辺で食べるか? まだちょっと早いけど」  圭佑さんの低めで通る声が、わたしの鼓膜を揺する。同時に、胃の中が重くなった。朝も昼も、大したものは食べていないはずなのに。吐いてすっきりしたいのに吐き気が込み上げてこない。気持ち悪さを抱えたままこれから何かを食べる気にはなれなかった。 「ごめんなさい、何だか具合悪くなってきちゃった。今日はもう帰ってもいい?」  そう告げると、圭佑さんは途端心配そうな表情になり、 「大丈夫か? 今日はごめんな、急に呼び出して」  と会ったときと同じことを言った。  家まで送ると言う圭佑さんの申し出を断り、一人で帰った。外の空気を思いっきり吸い込んだら、少し具合悪さがましになった気がした。  月曜日、会社のビルの自動ドアをくぐったところで、エレベーターを待っていた桜田さんに会った。桜田さんはわたしを見るなり顔を明るくし、やるじゃん、と肩を叩いてきた。 「何がですか?」 「見たよ、一昨日駅の地下街にいたでしょ。男の人と一緒にいたよね。彼氏?」 「あ、はい」 「そっかあ。いつぞやの街コンで出会った人?」 「えーと、まあそうですね」 「ちゃんと出会えるんだね、街コンって」  桜田さんは感心したように息を吐いた。  エレベーターが来たので乗り込む。ホールにはわたしたちしかいなかった。五階のボタンと閉まるボタンをほぼ同時に押す。  桜田さんはエレベーターの中でもわたしの彼氏について色々と尋ねてきた。私はそのたびに愛想笑いをしながら一つ一つ答えていったけれど、五階について会社の入り口までの廊下を歩くうちに、生ごみにコバエがわくようなうじゃうじゃとした不快な塊が胸の中に広がっていた。  質問攻めは会社に入る直前で終了した。 「おはようございまーす」  と言い桜田さんが先に入って行く。私も後に続いた。  デスクについてパソコンを起動させる。青い画面を見つめていると、ふいに吐き気にも似た、どうしても言いたい、言ってしまいたい、という衝動に駆られた。オーブンの中のマフィンのようにむくむくと膨れ上がってくる。  この三週間余り、心の中ではずっと思ってきたことだ。言葉にしたいと思うのは、わたしがもう抱えきれないからではない。それを言葉にしたときの、そのものの自重で落ちるからだ。熟れた柿が枝を離れるのと同じようなことかもしれない。口に出すべくして出すのだ。 「桜田さん」  わたしは隣の席で同じくパソコンの起動を待っている桜田さんに声をかけた。彼女は、 「んー?」  と間延びした返事をしてこちらを向いた。そして目を見開き、どうしたの、と小さく言った。前のめりになり慌てて顔を寄せてくる。 「わたし、彼氏のこと好きじゃないかもしれません」  桜田さんの反応を見て、わたしは自分が泣きそうな表情をしていることに気づいた。視界がじわりと霞んでいる。桜田さんはわたしのデスクに置いてあったティッシュを一枚取り、手渡してくれた。 「わたし、彼氏のこと好きじゃない。好きになれないんです。好感は持っているのに、好きにはなれない、どうしても。何か違うなと思ったらもう駄目で。彼の笑顔を見ても胸焼けしかしなくて。正直、苦しいです」  わたしの話をうんうんと頷きながら聞いていた桜田さんは、 「付き合ってどれくらい? 街コンのときに出会ったなら、えーと」  と質問をしてきた。 「三週間ちょっとです」  わたしが答えると、 「まだ三週間じゃないの。好きで好きでやっと付き合えたわけじゃないんだから、三週間じゃまだ何もわからないわよ。相手のことも、これからどうなるのかも。ここで好きじゃないって判断しちゃうのは勿体ないと思うよ。せっかく巡り会えたんだから、もう少し付き合ってみたら?」  桜田さんは諭すようにそう言った。それから、私だってさ、と自分の過去の恋愛について語り出した。  わたしは一人取り残されたような気持ちになり、それ以上桜田さんの話が耳に入ってこなくなった。言いたいと思ったことは、吐き出せた。でも、知らず知らずのうちに期待してしまっていた。自分に都合のいい、耳に心地いい台詞を彼女が言ってくれるのを。好きじゃないなら別れたら、と背中を押してほしかったのかもしれない。あるいは、それはつらいね、と共感してくれることを。  わたしは桜田さんの低くて丸い鼻をぼんやりと見つめた。気持ちよさそうに持論を語る彼女。しかし鼻だけを見つめていると鼻が一人でに喋っているような、奇妙な感覚になってくる。十円まんじゅうみたいだな。彼女の鼻に対してそんな感想を持った。 「だからね、あなたも占いに行ったらいいと思うのよ。いい先生、紹介してあげるから」  桜田さんの話は、いつの間にかあらぬ方向へ行っていた。中身をごっそり聞いていなかったから、何故占いの話になったのかわからない。彼女はわたしの返事を待っているようだ。 「あの」 「わたしもよく行く所なの。誰か紹介したら次回の料金が安くなるのよ」  なんて言いながら、彼女は自分のデスクからメモ帳を手繰り寄せ、一枚破いて占い師の情報を書いた。 「彼との相性とかも占ってくれるから。本当に当たるの。びっくりするよ」  にこりと笑って桜田さんはわたしにメモを渡してきた。 「ありがとう、ございます」  話の流れは掴めないままだったが、反射的に差し出されたメモを受け取った。  占ってもらったところで、わたしは自分の気持ちに折り合いをつけられるのだろうか。圭佑さんと相性が最高、と出たら、彼のことを好きになれるのだろうか。相性が悪い、と言われたら別れる踏ん切りがつくかもしれない。わたしは渡されたメモをバッグの中にしまった。行く機会は果たして訪れるのか、と思いながら。  午後六時半、わたしは〝占い処・千鶴庵〟の扉の前にいた。今朝、桜田さんに紹介された占い師がいるところだ。行くかどうかわからないと言いながら早々に来てしまったことを、我ながら少し恥ずかしく思う。  最初から興味津々だったわけではない。占いなんて、とむしろ少々胡散臭く感じていた。だが、時間が経つにつれバッグに入れたはずのメモがぎんぎんと自己主張してきたのだ。五センチ四方の小さなメモが何十倍にも膨らみ、バッグを突き破って会社中に広がって行く想像をする。 気付けば、占いのことばかり考えて午前が終わっていた。興味が出てきたことを素直に認める。認めたはいいものの、今度は何を言われるのだろうかと気になって仕方ない。圭佑さんと別れなさいと言われた場合、彼にはなんと言って別れればいいのだろう。反対に相性最高、結婚する運命などと言われたら、わたしは自分の胸に蔓延るもやもやとした気持ちをうまく消化することができるのだろうか。人並みに幸せになりたいと思う。圭佑さんと結婚したら、それが叶うのか。好きじゃないと感じている人と一緒にいて、果たして幸せと言えるのか。そもそもわたしにとっての幸せって何だろう。  考えが発展に発展を重ね、ついには幸せについて思考を始めた頃、午後が終わった。結局、大して仕事に集中できないまま一日が終わってしまった。これはいけない、と終業後駆け足で占い師のところへ向かったのだった。  千鶴庵は繁華街の外れの商業ビルの一角にあった。深緑色のドアに小さなプレートがかけられている。 インターホンを押すと中からどたどたと足音が聞こえ、四十代前半くらいの大柄な女性が顔を出した。ベリーショートの黒髪に大振りのストーンピアスがよく似合っている。ふくよかだが顔立ちは整っており、占い師というよりはモデルか女優のような風格だった。 「あら、初めましての方ね」  声楽でもやっていたのかと思うほど、腹から響くアルトの声だった。 「あ、はい。桜田真知さんからの紹介で」 「ああ、桜田さん! 今度お礼言わなくっちゃ。さ、入って入って」  桜田さんはもう二、三年も通っている常連なのだと、占い師が教えてくれた。この店ができた頃からの古株の客だと言う。  部屋の中は普通のマンションの一室と変わりなく、玄関横にトイレ、向いに洗面所とバスルームがあった。ドアを開けると、八畳ほどの部屋の窓側に占いスペースと思しき机と椅子が配置されていた。  どうぞ、と言われ籐でできた肘掛けつきの椅子に座る。壁にかけられている飾りと言い、テーブルクロスと言い、何となくアジアンテイストだった。机の端には綺麗な絵のカードが数種類置かれてあった。 「改めまして、占い師の千鶴と申します」  千鶴さんは恭しく頭を下げた。わたしもよろしくお願いします、と言う。 「それで、どんなことを占いましょうか」 「えっと、今付き合っている人がいるんですけど、その人との相性とか、これからどうなるのかとか、例えば結婚するのかとか別れたほうがいいのかとか、そういうことを知りたくて」 「なるほど。じゃあ、ここにお名前と生年月日を書いてください。彼のもね」  ボールペンと、方眼紙を切ったようなメモを渡された。わたしはいつものように久野未来と書こうとして、ふと手を止めた。占いなのだから本名じゃないと結果が変わってくるのではないか。目の前にいる千鶴さんは、もちろんわたしの名前なんて知らない。久野未来と書いても問題はないはずだ。でも、正しい結果を知りたいし。考えあぐねていると千鶴さんが、 「どうしました?」  と声をかけてきた。わたしは思い切って、久野未来と書いた。圭佑さんの名前も書き終えてから、そう言えば彼にも久野未来と名乗っているのだから、むしろこの名前で占ってもらうほうがいいように思えた。 「久野未来さんと佐原圭佑さんね。そうねえ……」  千鶴さんは顎に手をやりながら、じっとメモを見ていた。 「相性は悪くはないね。長く一緒にいるほど噛み合ってくる相性ね。噛めば噛むほど味が出るじゃないけど、結婚してずっと一緒にいるのにはいいかもね」  彼女は顔を上げてそう言い、にこりと笑った。よかったね、と言うようなその笑顔に、心臓が疼いた。 相性がいいと言われ落ち込むのは、圭佑さんのことを好きじゃないと断言しているようなものだ。けれど、長く付き合えば気持ちも変わるかもしれないとの思いもある。どっちみち、自分では決められないから、占いで方向性を示してほしいというのが本音だ。 「カードで今の状況も見てみましょうね」  カラフルなカードを机に広げ両手で混ぜる千鶴さんは、女優ではなく占い師然として見えた。  彼女は円を描くようにカードを並べていき、あー、と声を漏らす。わたしも身を乗り出してカードを見つめた。絵が綺麗ということしか感想がわかない。このカードが何を意味しているのかさっぱりわからなかった。 「彼は今、空回りしているね。あなたの気持ちが煮え切らないから、どう振る舞ったらいいのか模索している感じ。あなたは彼のこと、そんなに好きじゃないんじゃない? 曖昧な態度を取ってる、迷ってるってカードに出てるけど」  わたしはハッと千鶴さんの顔を見た。彼女の二重の大きな目が、圭佑さんのそれと重なる。 「わたし、実は彼のこと好きじゃないのかもって思ってて。それで桜田さんに相談したらここを紹介されたんです。付き合ってるうちに好きになるかもしれないとも思うけど、こんな気持ちで付き合うのも辛くて」  千鶴さんは相槌を打つ代わりに深く頷きながらわたしの話を聞いていた。わたしが言葉を切ると彼女は目を閉じた。瞼がぴくぴくと震えている。わたしは彼女の瞼とカードを交互に見ながら、彼女が話し出すのを待った。 「あなた、他に好きな人がいるんじゃない?」  目を開けてから開口一番に千鶴さんはそう言った。疑問形だが、確信があるような言い方だった。わたしはすぐに言葉が出なかった。以前圭佑さんに、わたしが先輩のことを好きだったのではないかと言われたことがあったのを思い出した。何故だろう。どうして先輩が好きだということになるのだろう。好きな人と言われて、先輩の顔が浮かぶのだろう。大嫌いなはずなのに。 「その人が心の中にいるから、彼氏のことを好きになれないのかもしれないね。心当たりはある?」  千鶴さんに聞かれ、わたしは首を横に振った。 「好きな人じゃありません。嫌いなんです。でもそう言われて顔が浮かぶ人はいます。その人のことを考えると苦しくて、自分がくしゃくしゃに丸められて路上に捨てられたような感じがするんです。会わなくなってもう八年にもなるのに、いまだに夢に出てきます。夢でのその人はわたしに冷たくて、起きたときに体がひどく冷えているんです。わたしの心を掻き乱すその人が嫌いです。昔から嫌いでした。だけど、好きな人って言われて思い浮かぶのはその人だけなんです。何なんでしょうか。わからないんです。わたし、今まで何となく毎日過ごしてきて、色んなことが気づけば過ぎ去っちゃってて。それに対して別に後悔とかはしたことはないけど、流されて生きてるのかなって思うと少し悲しくなるんです。そんな中で、その人のことだけは何故か風化しないんです。思い出すって時点ですでに風化してるのかもしれないけど、今に続いているどの地点にもその人が立っているんです。濁流にも流されない大きな木みたいに。わたし、わからなくて。自分の気持ちも曖昧で毎日胸が重苦しいです」  滔滔としたわたしの取り留めのない話を、千鶴さんはまた深く頷きながら聞いてくれた。そして、わたしが話尽くしたあと、 「心にいない人と付き合い続けるのは苦しいだけだよ。心にいる人と付き合えないことよりもね」  とポツリと呟いた。その一言は、一滴の水のように乾いていたわたしの心に落ちてきた。こうしなさい、とは言わなくても、人に方向性を示すことはできるのだと知った。わたしにはその言葉だけで十分だった。  お金を払って、千鶴さんにお礼を言い部屋を出た。千鶴さんは、 「また何かあったら来てね。誰か紹介してくれたら千円引きになるから」  と言って笑った。わたしもつられて笑う。  外に出ると、雲一つない夜空に三日月が貼りついていた。繁華街の雑多な明かりに負けず、金色の光を放っている。ドビュッシーの月の光という曲を思い出した。もっと静かなところのほうがイメージに合うけれど、わたしの心は凪いでいたから、頭の中でメロディーを流しながら歩いた。爪先から踵まで意識を巡らせて一歩を踏みしめたい。そんな気分だった。 早速占いに行ってきたことを伝えると、桜田さんは大袈裟にのけ反って、さすが、と言った。 今日は出勤前に寄った会社近くのコンビニで彼女に出くわした。照り焼きサンドとカフェラテを手にしていた。わたしの視線に気づいたのか、 「朝はこのコンビって決めてるの」  と鼻の付け根にしわを寄せて笑った。わたしも持っていたエッグマフィンとミルクティーを見せて、 「わたしはその日の気分です」  と言った。桜田さんは口を開きかけたけれど、レジの順番がきたので何も言わず素早く行ってしまった。  会計を済ませてコンビニを出ると、桜田さんが待っていた。 「で、どうだった、何て言われた?」  興味が表情からはみ出している。子供みたいな彼女の言動に、わたしは思わず小さく笑った。 「心の中にいる人と結ばれないことよりも、心にいない人と付き合っているほうが辛いよ、って言われました」 「え、何それ」 「千鶴さんって、すごい方ですね。心が軽くなった気がします」 「そうでしょう? 私もいつも元気もらってるのよ。それで、さっきのはどういうこと?」  桜田さんは気になって仕方ないといった様子で身を寄せてきた。わたしは少し考えてから、 「彼と別れようと思います。千鶴さんの言葉でハッとなって。やっぱり彼のこと、好きじゃないんです」  と答えた。彼女はしばらく釈然としない顔をしていたけれど、やがて、 「そっか」 とだけ言った。 会社のエレベーターの前まで来ると、彼女は切り替えたように、 「まあ、色々あるよね。次行こ、次」  とわたしの肩をばしんと叩いた。まだ別れてはいないのだけれど指摘するのも億劫で、曖昧な笑みを浮かべて頷いておいた。  終業後、圭佑さんと会う約束をしていた。気が重いけれど、別れを告げないといけない。何故と問われたら、どう説明すればよいのだろう。好きじゃないからと正直に言っていいのだろうか。無闇に傷つけたくはない。  誰かと付き合い別れるということは、こんなにも面倒なものなのかと思った。相手の気持ちに応えられないという罪悪感を、ヤドカリのように背負って歩かなければならない。ヤドカリは足がたくさんあるからまだいい。わたしなんて二本しかないのだから、そんな重い荷物を持ったらカクカクと崩れ落ちてしまわないかとても不安だ。  わたしはもはや自分の中に圭佑さんを思い遣る気持ちがなくなってきているのを自覚していた。わざと嫌われるようなことをして、圭佑さんから別れを切り出してくれるのを待とうかな、なんて無責任なことまで考えていた。 決して悪い人ではない。だからこそ傷つけたくないし、誰かいい人と幸せになってくれたらとも思う。けれど、わたしの心の中に彼はいないのだと気づいてしまったから、もう駄目だった。彼の仕草や言葉、表情や声までもがわたしの足枷でしかなくなった。好感を持っていた爽やかな笑顔も、今やぶわぶわに溶けて見える。唯一、彼を好きだと思えるポイントは、わたしを「未来」と呼んでくれるところだ。  しかし、それはわたしを久野未来と認識して名前を呼んでくれる人ならば誰でもいいとも言える。誰かの声を媒介にして「くの、みらい」と発音されるのを聞くことができれば、わたしは満足する。それは文字でもいいし、手話などでもいい。わたしが誰かに久野未来であるとわかってもらえれば、それでいいのだ。圭佑さんであるかどうかは関係ない。  好きじゃないって、恐ろしいことなんだ。  恋愛経験のないわたしには、恋愛は手に負えなかった。恋愛が上手になってから恋愛しなくては。 そんな卵が先か鶏が先か理論のようなキリのない考えに眩暈がしてくる。  また上の空で仕事をしていた。資料作成の業務にあたっているが、キーボードを打つ手と指令を出すはずの脳がまったくバラバラに動いている。手だけ別の生き物みたいだ。それでも作成した資料を読むと、それなりの内容になっているのだから、わたしは一体何者なのかと思ってしまう。  身が入らないながらもやるべきことをこなし、午後六時を過ぎたので会社を出た。圭佑さんとは繁華街の地下鉄駅で待ち合わせをしていた。スマホを見ると、五分前に『あと五分で着く』とラインが入っていた。と言うことは、もう彼は到着している。わたしは駆け足で駅に向かった。 「未来」  わたしに気づいた圭佑さんは、右手をあげて笑顔になった。お疲れ様、と言い合う。 「今日は居酒屋でいい? 行きつけの店があるんだ」 「うん」  地下鉄駅から三分ほど南に歩いたところに、〝大衆居酒屋小五郎〟という看板を掲げた店があった。行きつけという言葉のイメージから小ぢんまりとした店を想像していたが、中に入ってみると段々畑のように席が配置されている、奥行きのある店だった。 「珍しいだろ、こんなテーブルの並び」  圭佑さんがきらきらした目でわたしを見た。確かに珍しくて心躍るけれど、自分の好きなものをわたしと共有したいという彼の気持ちが垣間見えて、一気に食欲がなくなってしまった。  段々畑の一番上に案内されて、わたしたちは向かい合って座った。わたしがメニューを開くと、 「適当に頼んでいい? いつものやつ」  圭佑さんが得意げにそう言った。わたしの手からやんわりとメニューを奪う。 「生二つ。それからぬか床きゅうり、鶏のたたき、串焼きおまかせ五本。あ、やっぱり十本で。あとだし巻き卵」  店員に注文している圭佑さんの顔を、わたしは両手で頬杖をついて眺めていた。割と整っているけれど、疲れる顔。もうそんな感想しか出てこないことに、少し虚しくなった。  別れるって、言わなきゃ。  わたしはこの人のことが好きではない。ついでに言うと、ビールも好きではない。お酒があまり得意ではないと以前伝えたことがあった。何の確認もなしに生二つと言われたこと、それから店員にタメ口だったこともいちいち心に引っかかる。  すごいな、と思う。好きじゃないとわかったら、解像度が一気に高くなる。よく見えすぎて、粗ばかり目につくようになる。テレビと同じだと思った。ブラウン管のときは肌が綺麗に見えていた女優が、液晶に変わった瞬間シミや毛穴が目立って見える、あの現象と。  ビールが運ばれてきた。乾杯、と言う圭佑さんに合わせ、わたしもジョッキを傾けた。ちび、と口をつけたが泡しか入ってこなかった。彼はもう半分近くまで飲んでいる。  料理がくる前に言ってしまおう、とタイミングをうかがっていたけれど、はたと思い至った。別れ話をしたあとに料理を食べるのか? そんなの、気まずくて食べられたものではないだろう。かと言って、残すのも悪い。冷えて気分的にも味のしなくなった料理を二人向かい合って沈黙しながら食べる図を想像して、身震いした。  二の足を踏んでいると、きゅうりと鶏のたたきが運ばれてきてしまった。圭佑さんが嬉しそうに割り箸を割り、きゅうりをつまむ。わたしは彼に気づかれないように小さくため息をついた。  わたしの頭の中には別れ話のことしかなかったから、圭佑さんがどんな話をしたのか、それに対してわたしが何と相槌を打ったのか、把握できないままいつの間にか食事が進んでいた。大皿にはだし巻き卵が二切れ残っているだけで、他は下げられてしまったらしい。圭佑さんは何杯目かわからないビールをくびくび飲んでいた。わたしのビールは三口分くらいしか減っていない。 「それでさ、その個展なんだけど、来週の土曜だから。空けといて」 「え」  まったく聞いていなかった。仕事のときよりもはるかに上の空だった。急いで記憶の糸をたぐってみたが、耳にも残っていないから思い出せなかった。 「えっと、個展?」 「何だ、聞いてなかったのかよ。うんうんって言ってたのに。来週の土曜、俺の大学んときの親友が個展開くから、未来も一緒に行こうって話だよ」 「あ、そっか」  何の個展を開くの、とは聞けなかった。話を一部聞いていないのと、全部聞いていないのとでは大きな差がある。この期に及んで取り繕ってしまう自分が情けなかった。行けるよな、と念を押され頷くしかできない自分も、優柔不断で嫌いだ。  結局、この日は別れ話を切り出せなかった。もう一軒行こうと言う圭佑さんの誘いを明日早いからと断り、帰路についた。盛大なため息が白い息に変わる。雪が降りそうな空だった。  何とはなしに、先輩のことを思い出した。今夜は先輩の夢を見そうだと思った。もう長いこと見続けているせいか、夢に出てきそうな夜は大体わかるようになっていた。今夜の先輩はいつもみたいに冷たいのだろうか。冷ややかな目でわたしを見て、避けるように離れて行ってしまうのだろうか。  久野未来。わたしは久野未来。  白い息とともに、夜空に吐き出した。意味もなく口にする久野未来という響きは、冬の夜に相応しく尖って聞こえた。  土曜日は朝から雪が降っていた。重く湿った雪で道路がぬかるんでいた。わたしはブーツに泥水が染みないか心配しながら、雪溜まりを避けて最寄り駅まで歩いた。  雪はわたしの髪の毛やコートにぼたっと落ちてきては、時間をかけて水になっていった。時間をかけて、と言っても数秒ほどなのだが、わたしの生きる時間と雪の溶ける時間は同等ではない気がして、こういう表現になる。雪にとっては、水になることが死を意味するのなら、溶けるまでの時間は一生になるだろう。わたしにとってのほんの数秒が、雪にとっては一生なのだ。夏の間しか生きられないセミよりも儚い。わたしは雪が降る時期になるといつも、そんなことを考える。  個展会場は、ターミナル駅から地下鉄で三十分ほど東に行ったところにある、複合施設内の文化ホールで開催されていた。圭佑さんと現地で集合し、一緒に中へ入った。  自動ドアを抜けてすぐ中央にエスカレーターがあった。三階まで吹き抜けになっていて、一階と三階を直接つなぐ長いエスカレーターも動いていた。 「来たことある?」  圭佑さんに聞かれ、首を横に振る。わたしの行動範囲は会社と自宅の行き来と、たまに繁華街やターミナル駅で飲んだり買い物をしたりするくらいだ。大体それで事足りてしまうため、街の中心以外には足を運んだことはあまりなかった。  長いエスカレーターで三階まで行くと、ホールの前で受付をしていた。自由に出入りできるものと思っていたわたしは、戸惑ってつい足を止めた。名前と住所を書くのだと、圭佑さんがわたしに耳打ちをした。後ほど来場者にダイレクトメッセージを送るためらしい。  なるほど、と思いボールペンをとる。いつものように久野未来、と書いたところで、ふと三つ上の欄に書かれてある名前に目が留まった。  心臓が闘牛のように暴れ出す。ひっくり返ってぐるぐると回転して、肋骨や皮膚を割って飛び出そうとする。喉の奥もどっどっどっ、と脈打ってきた。  何故、ここに。 左手を口に当てた。目は見開きすぎて乾いていた。瞬きすると、潤いを与えるように涙が滲んだ。 「未来?」  横から圭佑さんの怪訝そうな声がした。わたしは彼の顔を見ることができなかった。 彼にこの受付表を見せるわけにはいかない。わたしは震える手でボールペンを握り直し、残りの住所を書いた。 「圭佑さんのも書いておくね」  そう言って彼の名前を書き始めると、 「え、いいよ、何で?」  とボールペンを奪われそうになった。 「いいから!」  思わず大きな声が出てしまった。圭佑さんが手を引っ込めたのを横目で確認し、急いでうろ覚えの彼の住所を書いた。彼の顔は見ることができないままだった。  会場に入ってからも、心臓は波打っていた。むしろ、入る前よりも激しく鳴っている。展示してある絵なんて、呑気に見ていられる状況ではなかった。  見つかったらどうしよう。  圭佑さんにバレたらどうしよう。  でも、会いたい気もする。  色んなベクトルの感情が織り混ざって、どこへ向かおうとしているのか自分でも見当がつかなかった。  会場は絵を堪能するには広く、身を隠すには狭かった。圭佑さんは入り口近くから順に見ているようだった。何も声をかけてくれないのは、さっきのわたしの行動に怒っているからだろうか。不審に思われても仕方ない。わたしは絵を見る振りをして、そっと彼のそばを離れた。  展示は隣の部屋にも続いていた。パーテーションでジグザグに区切られていて、迷路のようになっていた。迷路の先にはまた違う部屋があるようだった。  わたしは人の顔ばかり見ていた。じっくり見るのではなく、確認したらすぐ目をそらして次の人へ視線を移す、を繰り返していた。 わたしの脳裏には、さっき受付表で見たあの名前が立体的に浮かび上がっていた。彫刻のように完璧な形をしたそれは、もうわたしの一部だったはずだ。揺るぎない確信だったはずだ。  赤い空に向かって、二人で歩いた。他愛のない会話を幾度となくした。幾度となく、名前を呼んだ。名前を呼ばれた。わたしの名前。ずっとあの日に置いてきてしまったような気がしていた。 「遥子ちゃん?」  わたしは振り向いた。気づけば迷路の真ん中で佇んでいた。目の前には一人の男性が立っている。  細いフレームの眼鏡の奥の、一重の目。セーター越しからでもわかる、広い肩幅。色白の肌に少しあったニキビ跡は、綺麗に治っていた。 「せん、ぱい」  喉の奥に貼りついた声を無理やり押し出した。  先輩がいた。絵なんて最も興味がなさそうだった先輩が。基本的に自分のことにしか興味がなかった先輩が。どうして。 「やっぱり遥子ちゃんかあ。全然変わってなくてすぐ気づいたよ。久しぶりだね」  先輩の細い目が福笑いのように垂れる。茶色のノルディックセーターにジーンズという先輩の出で立ちは、そう言えば高校時代は見たことがなかった。制服かジャージ姿しか記憶に残っていない。けれど、その格好は先輩の雰囲気に似合い過ぎていて違和感がないどころか、この姿をずっと見てきたのではないかと錯覚するほどだった。 先輩こそ、変わってないですね。  言おうと思った言葉が、出なかった。八年間、夢に出てきた先輩は高校の頃の姿だったのだと気づいた。夢の中ではいくらか成長していた気がしたが、今先輩の実物を目の前にして、やっぱり違うと思った。先輩は冷ややかな目なんてしていない。わたしを避けもしない。眩しいときにするような表情で笑っている。わたしの名前を呼んでくれる。  偽物だったのだ。わたしが夢に見ていた先輩はきっと、偽物だったのだ。わたしが勝手に作り上げた、わたしの主観が見せているだけのまやかし。 「高校卒業以来だよね。遥子ちゃん、今どうしてるの?」  屈託なく、先輩が聞いてくる。そんなの、わたしが知りたい。わたしは今、何をしているんだろう。どうしてここにいるのだろう。  流されて流されて、曖昧に受け答えをしていたらいつの間にかここに流れ着いていた。わたしの意思ではない。  いつだってそうだった。誰かの話を鵜呑みにしたり、周りの価値観なんかに飲まれて、それが自分の意思かどうかもわからなくなっていた。自分の意思がなくてはいけない、と言うのもまた誰かの意見で、わたし自身はどう思っているのか、何が何だかもうわけがわからなかった。  ただ一つ言えるのは、久野未来を名乗ることは流されて生きてきたわたしの唯一の意思だった、ということだ。  久野未来。 それは先輩の名前。あの頃何度だって呼んでいた、口が、喉元が、覚えている名前。  わたしはずっと、先輩の名前を拝借して過ごしてきたのだ。  わたしの一部となっていた、融合しつつあった久野未来は本人を前にして、蜥蜴が尻尾だけを残して逃げるようにしゅるしゅると先輩の元へ戻っていった。わたしは丸裸の、津賀遥子になった。  先輩と話しても、あの頃の濡れそぼったネズミのような少女はもういなかった。分かれ道で手を振ったあと、いつまでも先輩の後ろ姿を見つめるだけだった少女は、八年のときを経て大人になったのだ。それはおそらく、雪が溶けるはやさに似ていた。わたしの久野未来は、雪が水になるように静かに死んだ。 「わたし、久野先輩の名前を借りて生活してたんですよ。ずっとじゃないです、ほんの数ヶ月。どうしてって、うーん、どうしてなんでしょうね。先輩の名前が好きだったから。先輩のことが、好きだったから。先輩のことが嫌いだったから。多分、どれでもないんでしょうね。わたしの心とか内臓とか耳の奥とか脳みそなんかにも染みついた名前だったんです。きっと、心の中も合わせたら、一番呼んでたと思います。ふっ、とした拍子に溢れて出てきちゃった。名前の記入を求められて、ここに久野未来って書いたらどうなるかなって。どうもならなかったけど、何故かわたしは満たされたんです。今日も受付で書きましたよ。本当です、あとで見てみてください。先輩の名前で定食屋の順番待ちの名前も書いたし、アプリの質問コーナーのハンドルネームにも使ったし、占いも行ったんですよ。あとは、まあ色々使っちゃいました。ごめんなさい。もう使いません。ねえ、先輩。わたしずっと先輩の夢を見てました。これは八年間。だから先輩のこと、忘れたことがなかった。え、告白みたい? そうですね、そうなのかもしれないですね。ふふ、困らないでくださいよ。今日会えて、本当によかったです」  先輩の肩越しに、圭佑さんの姿が見えた。こちらに向かって歩いてくる。硬い表情をしている。 嘘をついたことを、彼に謝らなければならない。でもこのままだと、先輩のいる前でバレてしまうことになる。大変ややこしい修羅場になりそうだ。  先輩のいる前で圭佑さんに「未来」と呼ばれて、その名前に先輩が反応して、わたしが慌てる構図。彼氏にまで久野未来と名乗っていたことは、さすがに先輩には言えなかった。  圭佑さんはもうそこまで来ている。彼の口が「み」と動いたのを見て、わたしは叫んだ。 「未来じゃない、わたしは久野未来じゃない! 偽物でした!」  圭佑さんの足が止まる。呆気にとられたように、口が「み」のまま開いている。  先輩はもっと驚いた顔をしていた。 「遥子ちゃん?」  先輩の口からわたしの名前がこぼれ落ちた。すぐ後ろにいた圭佑さんの左頬が、ピク、と動いた。わたしは身を硬くした。  咄嗟に出た、偽物という言葉が、輪唱のようにわたしの耳にこだましていた。それは久野未来よりもはるかに甘くて、鼻の奥がツンとするほどにスパイシーな響きだった。  わたしは二人の男性を前に、浅く息を吐き出した。もう一度吸ったとき、どちらかのヘアトニックが香った気がした。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加