タイトル未定

1/1
前へ
/1ページ
次へ
1%の奇跡 ①オミクロン株なるものが脅威を奮う2022年1月のとある日、私はというと通帳の引き落とし額に脅威を奮われる事態が起こった。数ヶ月通帳記入を怠っていた私は、思い立って銀行に記帳に行った。この時の私にはこれから警察沙汰になることなど、予想だにしなかった。 最寄りの駅前のATMコーナーで記帳を済ませて取引状況を何となく確認した。もっとも私は取引といえるものを頻繁にやってはおらず、確認に時間はかからない。その筈であった。さっさと中身を確認してさっさとバッグに通帳をしまおう、と考えていたその時だった。私の目は23から始まる6桁の数字に突如として釘付けとなる。しばらくの間銀行内で呆然としていた私は、取引履歴を頭の中で蘇らせる。私はクレジットカードを数枚所持しており、確かにその6桁の数字が掲げられている会社名には見覚えがある。それは私の携帯電話会社のクレジットカードである。携帯電話会社がクレジットカードを発行し、コンビニが銀行を作る昨今、随分と時代は変化を遂げたものである。そして一昨年まで似たような金額が引き落としはされていた。当時は保険料を年払していたので、当時は1月になると22万円ほどの引き落としがほぼ毎年あったのだ。しかしその保険は解約済であり、他にも思い当たる取引はなかった。スルーしてしまうにはあまりにも金額が大きすぎた。 更にメールも来ており、よく分からない会社名が記載されており92000円となっていた。早速携帯電話のかいしに連絡をする。オペレーターらしい女性が出る。 「どうされましたか?」 身に覚えがない取引をされた可能性がある旨を話すと、一気に緊張感が高まるのを感じた。 「取引記録を確認致しますので少々お待ちください。担当変わります。」 上席らしい男性が出る。高額な買い物の取引履歴を教えてくれた。高額取引は5件ほど、30万円ほどに及ぶという。しかし、会社名に思い当たる節はない。私のクレジットカードには家族カードなるものがあり、妻も利用している。一応妻に訊いてみてから再度連絡する旨を告げ、その日は終わった。 帰宅後妻に訊いてみると、やはり身に覚えがないという。これは知らないうちにとんでもないことに巻き込まれているのかもしれない、という思いで、翌日はろくに仕事に集中出来なかった。 仕事が終わると早速携帯会社に再び連絡を入れた。 「昨日見覚えのない取引に関する連絡をした者です。」 「はい。ご連絡ありがとうございます。それではお名前をお願いします。」 名前を名乗り、履歴を確認するとオペレーターから上司らしい人に代わり、状況を告げる。訊けば、高額取引は2021年10月末から続くが、誰かにパスワードが流れている可能性が高いこと、メールアドレスも私が数年前に設定したものに1つ追加登録されており、取引内容はその追加されたメールアドレスに届いており、本来の私のメールアドレスは着信拒否のような形になっていることが分かった。そこで私のパスワードが急遽変更されることになり、初期化したパスワードを教えてもらい、その上司との会話を終えた。 今度は、今後の対策を練るということで、違う部署の方に電話が回される。今回の件は、取引金額はおそらく戻ってくるが、調査に3か月ほどかかるということであった。そして、まずはこの電話でパスワード変更をしてしまいましょう、という話になった。やり方を逐一説明してもらい、パスワード変更が完了となった。 「それでは早速なのですが、アップルストアよりダウンロードしていただきたいアプリがあるのです。」 私が利用しているアプリが正常なものか、不正アプリを取り込んでいないか調査することになった。それには遠隔操作なるアプリを導入しなければならないらしい。70%から始まった私の携帯電話の充電は、この時点で20%になっていた。私の携帯電話は古いiPhone 7で、5年位前に購入したものをまだ使っている。充電がすぐになくなり、燃費が驚くほど悪い。私は焦りと共に遠隔操作なるアプリを導入する。そしてアプリ一覧の画面へ誘導される。 「下の方にゆっくりスクロールしていってください。・・・ここまでのアプリは怪しいものはなく正常ですね。」 私と同じ画面を向こうの電話口の担当者も見られるようになっているらしかった。どうやら、私の利用するアプリは全て正常なものらしい。この時点で充電は10%となった。 「この電話途中で切れるな。まぁ、切れたらまた明日にでもかけ直そう。」 と私は考えていた。 「では次に・・・」 まだ続くらしい。また私は新たな画面に誘導される。どうやらクレジットカードでよく利用する会社を登録出来るらしく、明らかに私が、もとい、私の家族が誰も利用しないであろうような会社名が羅列されていた。 「その画面にある中で利用されている会社はありますか?」 中には昔からある有名なデパートも記載されていたが、私はこれまでそのデパートで何かを購入したことはない。他にも聞いたこともないような会社名が羅列されている。 「いや、全て利用したことがない会社ばかりです。」 「では全ての会社名を削除してしまいましょうか。」 私は言われた通り全ての会社名を削除する。 「はい、その操作で大丈夫です。」 向こうにはやはりこちらの画面が遠隔で見えているようである。この時点で充電は1%。もういつ電話が切れてもおかしくない。 「では次に・・・」 まだまだ続くらしい。メールアドレスの設定である。私の正規のメールアドレスの他に、見たことのないメールアドレスが確かに登録してある。電話口の指示通りに削除する。 「以上になります。」 ホッとため息が出る。 「先程申し上げたように、調査終了するまで3か月ほどかかります。順調に進めば1か月ほどで終わるかもしれませんが、調査終了次第連絡を差し上げます。」 「はい。」 「その時までにやっておいていただきたいことがありまして・・・」 その後途中で電話が切れることもなく、最後の挨拶まで終えた。充電1%で10分以上話したことになる。意外と行けるものだと一人苦笑した。 3日後の休みの日、私は某派出所の前にいた。 ② 私は近所の某派出所の前にいる。携帯電話の会社の担当者に警察に届け出るように依頼された為である。 「ご協力いただきたいことがあります。」 充電1%で気が気でない私に追い討ちをかけるかのように担当者が言った。途中で電話が切れてはまずい、と思いながら私は次の言葉を待つ。「警察に行って被害届を出していただきたいのです。その時に案件番号を教えてもらってください。次回のお電話で調査結果をご報告致しますので、その時に被害届を出した警察署名と担当者名、そして案件番号を教えてください。」 調査に最短でも1か月位かかるので、その間に警察に届けてくれればいい、というセリフを最後にようやく電話が終わった。1時間弱かかったが、もっとずっと長く感じられた。 その派出所には数年前に携帯電話の紛失届を出す為に一度訪れたことがある。当時は派出所の中に通され、中央テーブルに椅子が置いてあったものだが、今は撤去されているらしい。私の学生時代に一人暮らしをしていた安アパートの玄関よりも狭い、入り口を開けてすぐの所が実質的な受付場所になっているようだ。一人しか入れないスペースである。 物を置くスペースもなく、私は荷物を持ったまま、立ったままで、携帯電話会社の担当者に話した出来事を、ほぼそっくりそのまま話し始める。そして担当の警察官はA4の白紙の用紙にメモを取る。 携帯電話会社と同じような問答を繰り返すこと約20分、管轄の警察署に連絡を入れる。派出所で処理出来る案件かの確認らしい。そして私の現状を説明し終わると、こう言ってきた。 「これから本署に行っていただけますでしょうか。どうやら派出所で被害届は出せないようでして・・・」 「では日を改めて伺います。」 「いつになりそうですか。」 「・・・。いや、やはりこれから伺います。」 「承知しました。」 私は次の休みの日に行こうと思ったが、これからすぐに出頭しなければならないような雰囲気があったので、警察署に直行することにした。地図を使って行き方を説明される。地下鉄で2駅半位の所だった。通過したことはある場所である。地下鉄に乗って行く気はさらさらなく、早歩きで行くことにした。 緊急事態宣言が出ていた頃には、少なかった人通りも随分と賑わってきた。商店街も活気を取り戻してきたかに見える。そんな中30分位歩いてようやく目的地に辿り着く。 怪訝そうな顔をした署の警察官に 「何かご用ですか。」 と尋ねられたので、長旅で疲れた私は仏頂面で派出所から依頼されたから来署したのだ、というような言葉を吐き捨てた。ようやく事態を呑み込んだ受付の警察官が 「今刑事が来ますからお待ちください。」 どうせ来るまで時間がかかるだろうと思い、トイレを済ませて戻ろうとすると、受付の前に刑事らしき若い男が立っていた。簡単な自己紹介を済ませ、事情聴取が始まる。連携していないのか、と突っ込みたくなるところを我慢し、またしても状況の説明を始める。先程の交番の再現か、と思いほど見事に同じようなA4白紙に同じようなメモを仕上げる。素晴らしい手作業である。一通り話し終えると、別の生活安全課という課に連携した方がいい、という結論になり、私の近くで刑事が今しがた私が話したことを生活安全課の警察官らしき女性に説明する。数分後、その女性が私の目の前に現れて簡単な自己紹介、そして 「携帯会社の方からクレジットカードの解約、といった話はされましたか。」 とその婦人警官に言われた。 「いいえ、特には。」 「不正取引がこのまま続く可能性があります。クレジットカードの解約、もしくは再発行を考えた方がいいと思います。あと、メールアドレスの変更も。」 「絶対に考えた方がいいと思います。」 別の年配の男性警察官も同調する。 更に婦人警官は続けた。 「今回の件ですが、今後どうされたいですか。」 面倒なことにはなりたくない。不正取引が分かっているのはその時点で5件ほど、金額にして30万円余りである。この金額が返ってくれば良い、と答えた。 「案件番号を発行するように言われたと思います。発行しますので、別室にご案内します。」 そういって上の階に案内された。広い室内の奥に四畳半程度の狭い部屋があり、そこに案内された。取調べ室らしい。その婦人警官は、先程階下で刑事が書き残したA4のメモ用紙を持っていた。そこで三度説明を繰り返す。婦人警官は、メモ用紙を確認しながら私の説明を聞き、メモをしていない情報を書き足す。そして免許証とクレジットカードの現物を見せる。クレジットカードをいつ使ったか聞かれ、最近ではクレジットカードを出した覚えがないことを話す。ただパスワードは番号によっては盗まれやすい為、気をつけるように言われた。 そして 「これから案件番号を発行します。少々お時間をいただくので、その間携帯電話会社やクレジットカード会社に連絡して解約又は再発行の手続をして下さい。」 部屋に一人になると私は携帯会社に連絡を入れた。が、混んでるようで繋がらない。そのうちに婦人警官が戻ってきて案件番号を書いた付箋を私に差し出した。ようやく解放された私は表に出た。外はすっかり暗くなっていた。長い半日だった。 ③ 警察署を出て、定期券の範囲の最寄りの駅まで歩くことにした。約30分程度の道のりである。久しぶりの警察署であった。 私は学生時代に財布の入ったセカンドバッグを盗られたことがある。場所はボーリング場であった。私は友人と来ており、セカンドバッグをすぐ脇に置いておいた。その日はけっこうボーリングの調子が良かったのを覚えている。調子に乗った私は財布の入ったセカンドバッグを気にすることもなく、ボーリングに熱中していた。帰り際に振り返るとバッグはなくなっていた。ボーリング場の受付に行って確認するも無駄だった。その後警察に届け出たのかは覚えていないが、最終的に財布の中身以外は発見されたことを記憶している。 その次は友人の別荘に行った時のことである。駅前の公衆電話から誰かに電話をかけて、その公衆電話に財布を忘れたのだ。5千円札一枚を入れた記憶があるが、それは結局出てこなかった。交番の警察官だかに 「5千円なら安いもんだよ。」 とか変な慰められ方をされたのを覚えている。 その次は、四国に一人旅に行った時である。私はバッグを2個持っており、その時は奇しくもその日に宿に着いたら洗濯をしようと入れた洗濯物が入ったバッグをそのまま盗まれた。犯人もガッカリしただろうな、と苦笑したものである。 最後に経験したのが異国の地・オーストラリアのことであった。大学に入りたての頃の最初の夏だったように思う。当時オーストラリアやニュージーランドに憧れていた私にとってユースホステル主催のオーストラリア語学研修の旅は実に魅力的なものであった。ユースホステルとは学生向けの安い宿泊施設であり、私は一人旅において愛用していた。私はオーストラリア旅行を励みにアルバイトに勤しんだ。 出発当日、空港には私の同士ともいえる人間が10名ほどいた。その人達と共に一路南国へ向かった。そしてシドニーのユースホステルに宿泊することになった。翌日から語学学校の授業が早速開始される。その学校の掲示板に面白い情報が掲載されていた。私達のような短期留学生に為にホームステイ制度があるという。金額は日本円にして1週間1万円で食事付だったと思う。その時私はユースホステルの2人部屋に同じツアーに参加した日本人男性と宿泊していた。私自身ホームステイに憧れていたし、同室の男性も1人部屋になる方が良かろう、と考え私は即座に申し込み、ユースホステルを後にした。 ホームステイ先は夫婦と子供2人の4人家族であった。ホームステイ初日は子供の友達が数名ホームステイ先の家に遊びに来ていた。外国人である私を物珍しそうに見物しに来たのであろう。私はおあつらえ向きの遊び道具を持っていた。電子辞典である。英和辞典も和英辞典も使えるこのおもちゃは1時間ほどの話題作りには十分だった。 学校の休みの日には家族全員で海岸にドライブに行った。良い家族だったと思う。30年ほど経った今もたまに思い出す。あの子供達も今はもう中年だと思うと、光陰矢の如しがピタリと当てはまると感じる。 次の休みの日だったと思う。その日もホームステイのお母さんが弁当を持たせてくれた。私は一人で海に行きたくなった。電子辞典やら本の辞典やら色々とバッグに入れ込んだ為、砂浜で勉強してみたいというような思いがあったのかもしれぬ。砂浜に座り込んで弁当を食べているとハトが50羽くらい集団で寄ってきた為、恐怖のあまり逃げた。 そろそろ帰ろうと思い、帰る前に用を足したくなり、トイレの個室に入ったところ水浸しであり、お世辞にも綺麗とはいえない。更には、コートや荷物を引っかけておくでっぱり等もない。その時私のバッグは色々と詰め込んでいた為重かった筈だが、背中に背負ったまま用を足すべきだった。が、迷った挙句トイレの前の廊下に荷物を置くことにした。危険を承知しているつもりであった為、1分足らずで用を済ませて出て来たのであるが、荷物は忽然と消えていた。 そこの建物の受付らしき所に行って落とし物について尋ねても意味不明のような表情をされる。わたしは居ても立っても居られないようになり、交番に向かった。私が片言の英語で話すと理解はしてもらえたようで、別の警察署に行くように指示された。被害届が必要なので、交番レベルでは対応出来ないのであろう。道中、人に尋ねながら警察署に到着したのは夕方であった。簡単に被害状況を聴取された。我ながら異国の地でよく行動出来たと思う。保険に入っており帰国後振込があった。電子辞典と分厚い辞書2冊とウォークマンとディスクマンの分である。その他にもあったかもしれぬ。若かりし日の苦い思い出である。 コロナ禍といい、今回の事件といい、50代を目前に控え、関わりたくないことが襲ってくる。巻き込またくないものに巻き込まれる。私の人生、まだまだ紆余曲折が続きそうである。だが一方でそれも経験値のあることも理解している。今後の人生、紆余曲折ばかりであろうが、精一杯楽しみたいと考えている。 ある日の出来事 派遣元会社の入っているビルに到着したときは13時を過ぎていた。おかしいとは思った。違和感は感じていた。 派遣元会社から年末調整の案内メールを受信したのは、11月上旬のことだった。ちょうど年末調整の件が気になり始めていた頃で、正におあつらえ向きの連絡であった。 全てインターネットで完結させてほしい、というようなことが記されていた。生命保険料控除証明書もインターネットを通じて提出してほしい、ということだったので、遂に原本提出も不要な時代になったのか、と感心したばかりであった。そういえば以前父に3月の確定申告の手伝いをさせられたことがあったが、そのときも同様に原本提出など不要と父から聞かされていた。スマホやパソコンで完結出来る、便利な世の中になったものだ。そう思いこんでいた。 11月末が締切日であったにも関わらず、失念を恐れた私は、契約している3社の保険会社から控除証明書を受け取るや否や、早速年末調整の手続きをした。 師走に入りすぐの金曜日、派遣元会社から1通のメールが飛び込んできた。保険会社の控除証明書の添付資料を確認したが、保険料の支払はゼロということで良いか、という内容であった。確かに国民年金や国民健康保険を支払った場合、それらも年末調整の対象になるようなことが記されていた。ただ自治体に問い合わせる煩わしさがあってか、それに関する申告は放棄していた為、そのメール内容に関する同意の旨の通知を派遣元会社にした。が、その後正しく処理されているのか気になり、確認のメールを再度送信する。 すると「PDFの資料のみで原本が未着である為、生命保険料の年末調整は認められず、ご自身にて確定申告を行っていただく他ない。」 という連絡が届く。 こうして2022年最後の月の最初の月曜日は最悪な始まり方をすることになる。皆が仕事開始であろう週明けの月曜日に公休を取得したことに優越感を感じている場合ではなくなった。 私の週明けの最初の仕事は、派遣元会社に電話連絡をすることから始まった。我が家は都心部にあるのだが、電波の状況が悪いらしく携帯電話では話しづらい。かといって固定電話も半分壊れかけており、変な雑音が混じる。究極の選択だが、結局固定電話からかけて折り返しの電話をもらうことにする。 「はい、○○会社でございます。」 「○○ですが、年末調整のメールの件でお話があります。」 「・・・。私の声が届いてますか。」 電話口の女性にはどうやら私の声が届いていないらしい。電話の角度を変えたり、受話器の角度を変えたり、無駄な抵抗をしながらようやく会話を成立させる。 「控除証明書をインターネットにアップしたのですが、それだけでは提出したことにならないのですか?」 「はい、原本の提出が必要になります。」 そんなことどこに書いてあったんだ、と言いたくなる気持ちを抑え、 「では本日休みなのでこれから原本を持参します。」 私が言うと、担当者に確認し営業担当者から折り返し連絡するという。自宅の電波状況も考え、せっかくの休みを自宅でのんびりしていようと考えていたことも忘れ、外で電話を受ける為に外出の準備を始めた。電話がかかってきた際、今すぐ原本を持参せよ、と依頼される可能性も考え、原本を持参し行き先を派遣元会社に決める。 派遣元会社は新宿駅から徒歩10分程度のところにあり、私の定期券は新宿駅の一つ手前の駅まで利用可能である為、2駅分くらい歩くことになる。しかしながらスマホの動画を聞き流しながら歩いた為、さほどの距離感は感じなかった。その代わりに、自宅を出た際100%充電だったのが現地到達時には残り31%になっていて驚いた。古いスマホを利用している為、充電の消耗が激しいのだ。営業担当者からの連絡はまだない。 派遣元会社は、ビルの8階にオフィスを構えている。緊張の面持ちで入り口に向かうと、新入社員のような若い男性が一人立っていた。 「こんにちは。本日はいかがなさいましたか。」 「年末調整の件で参りました。」 私は先ほどの連絡内容を伝えると、入り口脇の簡易なベンチで待機するように命じられた。しばらくすると、別の若い女性が現れた。 どうやら先ほど電話で会話した女性らしい。 「原本の締切りが11月の末までだったんですよね。そのようにお伝えしておりますし、ホームページにあるマイページでもそのように書いてあるかと・・・。それに連絡もしてますし・・・。」 皆さんに何回か連絡している、というその女性に対し私は、メールも電話連絡も受けていない、と突っぱねた。 女性は、担当に確認してくる、と言い残しその場を離れた。再度一人取り残された私は、もう一度メールを確認してみようと思い立ち、スマホを手にする。すると再起動状態になり、出てきた充電の残量は1%となっていた。このビルに到着したときは31%であったのに。愕然としていたところに、先程の女性が戻ってきた。 「担当が二人とも会議中のようで、離席しています。チャットを使って事情は説明しました。私もどのような連絡を差し上げたのか確認しますので、もう少々お待ちください。では、お持ちいただいた原本を拝見します。」 原本を一通り確認すると 「では、私がこれを頂くわけにはいきませんので。」 と私に返却し、またどこかへ行ってしまった。去り際に、スマホの充電をしてくれないか、と頼んだが、あっさりと断られてしまった。 結局自分自身で確定申告するしかないのであろうか。面倒といえば確かに面倒だが、勉強にはなるか、と半ば諦めかけていた頃女性担当者が戻ってきた。 「お待たせ致しました。前例のないことなんですが・・」 女性が勿体をつける。 「今回に限り例外的に特別措置として、控除証明書原本を受け取らせていただくことになりました。」 「ありがとうございます。」 「ただし、今回限りということで、来年以降はPDFのみならず、必ず原本提出も必要になりますので、よろしくお願いします。」 私も負けじとここぞとばかりに日頃の鬱憤を伝える。有給休暇に関する連絡の不備、何も伝えてこない担当者、数えあげれば枚挙にいとまがない。自己責任と言われてしまえばそれまでだが、釈然としないものを感じる。が、一仕事終えた気分になるには十分であった。 ホッとしたのも束の間、次の仕事が待っている。どうせやるべき仕事が出来てしまったからにはついでに片付けようと思っていた次の仕事、国民健康保険の喪失手続である。区のホームページを見ると郵送で完結できるとのこと、コロナ蔓延による特別措置らしい。逆に言えば郵送による現物提出は必要ということであり、ペーパーレス化を推し進めようとしている我が国の矛盾を痛感してしまう。もっとも私はペーパーレス化を進め、IT先進国を目指そうと目論む日本の在り方には危険性を感じている。現金を持たずスマホ1本で商品売買が成立してしまうのはあまりにも簡単であり、あまりにも危険である。そこは犯罪の温床になりやすく、犯罪大国となりかねない。手続が面倒でも逐一書類や現金を必要とする昭和の方法が健全なものと感じるのは私だけではない筈である。 そんなことを考えながら新宿の郵便局を目指す。書類作成が必要であり、最低10分間は郵便局での作業が必要である。私はスマホの実情を思い出し、郵便局にいる短時間だけでも充電をしたいと思い、携帯ショップに突入した。思い出したかのように雨も降り出し、私の服はびしょ濡れになった。そのびしょ濡れになった服が負のスパイラルを醸し出しているかのようにまたしても充電を断られることになる。私の所持するスマホの携帯電話会社では、充電コーナーを撤去している携帯ショップが多いらしく、その店では充電器を持ち込まなければ充電も出来ないらしい。スマホは今や生活インフラであるにも関わらず、高価なものであり、携帯ショップで充電も出来ない。IT国家を謳っておきながらスマホで作業を完結も出来ない。こういった矛盾にイライラしながら携帯ショップの出口を開けると、天候もイライラしているらしく、外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。傘は持っていない。だが徒歩3分の距離にあるビルは新宿駅と直結になっていた筈である。 その距離をダッシュし、1分弱でビルに飛び込んだ。その1分弱の間に服はますます濡れそぼった。 もう既に新宿の郵便局に行く気は失せていた。優先順位はスマホの充電が上位に来た。そしてその時の私には、気軽に充電出来る場所として比較的頻繁に行く池袋のネットカフェしか思いつかなかった。スマホを確認してみると充電は未だ残り1%のままだった。誤表示かと思わせる位長い1%表示だ。池袋のネットカフェでは私はスマホ会員登録をしており、受付でスマホによる会員証を提示しなければならない。無論提示をしなくても利用は出来るのであろうが、円滑に済ませる為にも1%のまま保っていてほしい、と願った。 地下道を通ってきた私の足が新宿駅の改札口を通過した。目指すは一度地上に上がり隣の駅の新大久保駅へ。1%になろうが、外は土砂降りであろうが、新宿駅から乗ることは許されなかった。地上に出てみたら雨が止んでいるかもしれない。だがそんな目論見も虚しく、雨足は更に強くなった。 私はたまらずビニール傘を購入することにした。定期券の圏外である新宿駅から乗ろうが、定期券の圏内である新大久保駅から乗ろうが、傘は必要であろう。だが傘を購入した私を嘲笑うかのように直後、雨は止んだ。歩行者が次々に傘を閉じていく。そんな中私は一人傘を差しっぱなしにして新大久保駅へと急いだ。目的地の池袋駅に到着した時には既に雨は完全に止んでおり、晴れ間が見えるほどで傘を開く気にはなれなかった。充電はまだ1%残っていた。乗車した山手線の中で見た時も1%だった。時間との勝負である。目的地のネットカフェに着く。まだ1%。無事受付は済ませられた。ある意味奇跡である。私はそのままブースへと向かう。充電を開始し、インターネットの動画を見ようと試みる。が、見られない。動画サイトのページまで到達不可という表示が出る。そして受付まで戻りブースを変えてもらうことにし、別のブースへと移る。何と別のブースでも同様に動画が見られぬ。私はそのネットカフェにたまに通っているがこんなことは初めてである。再度受付に行こうかと迷ったが、その日はあまりネットカフェに長居をするつもりはなかったので諦めた。今日はそういう日なのだ、と割り切ることにした。締切りに間に合わなかった控除証明書の原本が受け付けてもらえたのが奇跡だったのかもしれぬ。今日は早目に帰って寝ることにしよう。私の心とは裏腹に、帰りの池袋駅は晴れ渡っていた。きれいな夕焼けまで見えた。少し心が癒されたまま帰路に着くとしよう。 帰りの山手線は空いていた。人身事故で止まっているという。私は適当に座席に座り、50%位まで充電が回復したスマホにイヤホンを装着して、ネットカフェの憂さを晴らすかのように、動画を見始めた。 何分経過したかはよく分からぬ。寝入ってしまったようだ。気付くと私の最寄りである巣鴨駅に到着していた。慌てて飛び起き間一髪のところで電車から飛び降りた。改札から出てみると外は嵐になっていた。先ほど池袋で見た夕焼けは何だったのか、と問いたくなるほどの変わりように驚く。そして先ほどまで無意味に持ち歩いていた傘がないことに気付いたのもこの時であった。発狂しそうな気持ちを抑え、どうしたものか悩む。悩んだ末に妻に連絡しようと思い立つ。と、先ほどまで勝手に流れていた動画の音が聞こえなくなっていることに気付く。見ればスマホの画面が消えている。充電切れである。どうやら1%の奇跡は2度は起こらなかったようだ。 途方に暮れる私の目に、駅からそれほど遠くないところにある公衆電話ボックスが飛び込んできた。まずうろ覚えである妻の番号にかけてみる。留守電に繋がる。次に自宅の固定電話にかけてみるが、これも呼び出し音が虚しく鳴り響くのみだった。この電話ボックスに雨宿りの為ずっと閉じこもっていようか、他の場所に移動するかを考えるが、とにかく一刻も早く帰宅して休みたい願望が優先した。私は電話ボックスを出るとダッシュして家へ向かう。 家に到着した頃にはびしょ濡れであった。おそらく鞄の中身も惨憺たるものであろう。とにかく家で入浴して疲れを取りたい。そんな私に更なる事態が追い打ちをかける。家の鍵がないのだ。おそらく出かけるときに家の中に置き忘れたのであろう。妻に見送られて自宅を出た為自分で施錠した訳ではない。あいにく自宅は真っ暗であり誰かいる気配はない。しばらく真っ暗な玄関の前で雨宿りをする。いや、正確に言えばいつ帰ってくるか分からない家族を待って茫然と立ちすくんでいた。 雨は一向に止む気配はなかった。どこか閉め忘れている窓はないか。侵入出来そうな場所はないか。無駄な抵抗はやはり無駄な抵抗に終わった。時刻は19時を過ぎたところであった。その時ふと郵便局に立ち寄るのを忘れていたことに気付く。こんなことになるのであれば、新宿の郵便局に立ち寄り、仕事を一つ片付けておいた方がよかった、と今更ながら思う。だがその仕事とは、国民健康保険の喪失手続である。別に本日無理に行う必要はない。今日出来ることだが明日以降に延ばそう。そう思った。が、そのまま鞄の中に入れたきり・・ということになりかねない。なるべく早く片付けるに越したことはない。しかも必ずしも郵便局での作業が必須というものではない。作業に必要なハサミとノリとボールペンが郵便局なら借りやすい、ということだけだ。作業自体なら近所のコンビニでも可能だ。雨も小降りになってきたように思える。私は自宅から徒歩1分のコンビニまで再びダッシュした。 コンビニには数人の客がおり、けっこうな視線を感じる。それもそうだ。全身ずぶ濡れで水滴が落ちている中年のオッさんの入店なのだから。あいにくハサミとノリは郵便局で借りるつもりであったので持ち合わせてはいない。 しかし筆記用具位あるだろう。鞄を探ったらそれらしいものは全く入っていなかった。店員に借りようとも考えた。が、こんなびしょ濡れの姿で話しかける気にもなれず、家に必ずある3つの文房具をあえて購入することにした。 幸い受取人払であり切手は不要である。鞄から書類を出してみると、案の定提出が憚られる位びしょ濡れの状態であった。今買ったばかりのペンで記入すると穴があく。何とかそれでも記入を続ける。郵便局で進める予定であった作業をコンビニで実施する。ようやく作業を終え、文房具と書類を鞄の中にしまおうとした時 「いらっしゃいませ。」 という声が聞こえた。と同時に 「パパだ。やっぱりパパだよ。」 妻と娘が私の側に立っていた。いつもの聞き覚えのある声だが、その時の私には天使の声のように思われた。 「どうしたの?こんなに濡れて。」 尋ねる娘に 「今日は色々とあったんだよ。まぁ、帰ってから話すよ。」 コンビニから出ると雨はすっかり止んでいた。水たまりにはしゃぐ娘をただ茫然と眺めていた。帰宅し入浴後本日の出来事を話すと妻と娘は笑い転げていた。 「でもよかったじゃない。原本受け取ってもらえて。」 妻が笑いながら言った。 「あれ、国民健康保険の喪失届は?」 「?」 鞄の中には3つの文房具とびしょ濡れの書類がそのままあった。 近日中に忘れずに投函するとしよう。 海外でのある日の出来事 「充電器貸してあげようか。」 この姪の神のような一声から全てが始まった。 ベトナムにやって来たのはこの時が初めてだった。当時姉が仕事の関係でベトナムに住んでおり、いつか遊びに来るように誘われていた。そのうち行く、と言ってはぐらかしてきたが、遂に姉がベトナムを離れ日本に帰国することになった為、急遽1泊2日で弾丸ツアーを決行することにしたのであった。実にコロナ禍の始まる直前だった為、良いタイミングということになる。 南国だけあって暑かった。Tシャツで過ごすことが出来る陽気だ。 到着した晩は日本でいう縁日のようなものに参加して、その後遅めの夕食を取りにレストランに入ったところで、私のスマホの充電が切れそうなことに気づいた。姪から携帯用充電器を貸してもらい充電を開始する。 その後我々の宿泊先ホテルに戻りスマホの充電を見ると1%の表示となってしまい、その後充電が入らなくなってしまったのである。充電しても動かないスマホ。まるで寿命を迎えたかのようだった。翌朝になってもじっとしたままの、その小型のマシンに痺れを切らし私は姉と姪に相談した。 「昨夜充電してから電源が入らなくなっちゃったんだよね。」 「分かった。じゃあ今日携帯ショップに行ってみよう。」 と姪が言ってくれた。ベトナムにも携帯ショップがあるんだな、とその時ふと思った。 「ベトナムの国民って意外と手先が器用なのよ。それに日本よりも廉価で修理出来るわよ。」 と姉が教えてくれた。 2日目は船上でランチを取った。予約制だったと思うが、今思うと姉達はけっこう良い旅行プランを提供してくれた。船上での食事なんて日本では豪華すぎる。ベトナムでは日本より安いのだろう。白米が美味しかったのが意外であった。 その後バスに乗りホーチミンに戻る。その間バスの車窓からベトナムの田舎町をぼんやりと眺めていた。いつかこういう街に移住してくるのも悪くない、と思った。 街に到着すると携帯ショップ探しとなった。ランク付けがあるらしく、1位の店は本日休業日であった。よって我々は人気ランキング第2位の店に向かう。姪がショップ店員と流暢に会話する。一旦スマホを預かってもらったが、予想外に重症のようでスマホの入院が必要らしい。 「どうする?預かってもらう?」 姉と姪が私に聞いてくる。ちなみに人気ランキング第1位の店は翌日は営業しているらしい。結局翌日姪に1位の店に行ってもらい、そこで廉価にて承ってもらえれば1位の店に任せたい旨伝えた。姪はあと1週間ほど滞在し、カンボジア経由で日本に帰国するらしい。姪の貴重な一日を奪ってしまうようで申し訳ないと思ったがやむを得ない。帰り際、私は姪に沈黙したままのスマホを渡し、空港の出発ロビーへと向かった。日本から出国した際はスマホに登録済の搭乗券を見せて飛行機に搭乗したと思ったが、帰国時はスマホを異国の地に預けたまま搭乗したことになる。よく搭乗手続がスムーズに運んだ、と今更ながら思うが、滞りなく進んだのは確かだ。そのまま23時半に飛び立つ飛行機の離陸時間を待つことにした。 格安航空券ならではの時間帯らしい。行きは姪と甥と3人で乗ったが、帰国時は甥との2人旅になった。これが最初で最後の甥との2人旅になるかもしれない。 ベトナムの空港ではアナウンスが一切かからない。離陸時間を過ぎても、0時を回っても何もない。最初で最後であろうが甥と一緒で良かったと思えた。空港で仮眠を取ろうにもいつのまにか飛行機が離陸していた、という事態になりかねない。結局飛行機に乗り込んだ午前2時までの約2時間半は恐ろしく長く感じられた。甥の表情にも疲労感が漂う。 日本に辿り着いたのは、午前10時頃だった。特に着陸時にトラブルになった記憶もなければ、甥と成田空港から一緒に帰った記憶もない。おそらくお互いに何事もなく無事に家路に辿り着いたのだ。 スマホは後日無事に私のもとに辿り着いた。表面の割れていたガラスが新品同様になっていたのは嬉しい誤算だった。その代わり、電話の着信履歴が溢れかえっていたのは悲しい誤算だった。 いつもは鳴らないスマホがこんなときに限って、という思いに駆られた。 若かりしある日の出来事 「それでは皆さん、身体に気をつけて。行ってきます。」 私が言うと母が苦笑しながら 「それはこちらの言うセリフよ。元気でね。いってらっしゃい。」 と言った。実家を出て、真夏の夜道をてくてく駅へ向かう。とある日曜日の夜、道は空いていた。当時私は東北地方の福島県の大学に通っており、その晩帰る予定になっていた。正確に言えば、実家の家族にはその夜帰る旨を告げていた。その翌日の午後にどうしても休めない講義がある為である。昼過ぎから開始される講義である。しかし私は本来の方角と真逆の方向へ進む電車に乗った。勿論乗り間違いなどではない。私の足は某麻雀屋に向かっていた。その店は街の外れの方にあり、辺りは暗く静まり返っているが、店内は相当混み合っていた。既にメンツは皆揃っており、挨拶もそこそこに闘牌が開始された。その時の勝負についてはよく覚えていない。歴史的大勝を果たした、という記憶もなければ、歴史的大敗を喫したという屈辱感もない。ただ真夏であるにも関わらず、クーラーが壊れた暑い店内で友人との久しぶりの勝負に熱中していただけだ。 翌朝早く友人達と別れた私は、早朝の東北新幹線に乗り込んだ。まだ時間的には余裕がある為、普通電車でのろのろと帰る予定であったが、あまりに身体がだるかったので、大学に出向く前に福島県の自宅で一休みしたかった。その新幹線に乗る余裕があったということは、勝負には勝てたのかもしれなかった。上野駅から乗る山形新幹線の車窓から見える朝陽は綺麗で吉日を思わせた。乗って良かったと思えた瞬間であった。だが次の瞬間、誰かに肩を叩かれた。 「お客さん、終点ですよ。」 「シュウテン?」 見れば山形駅に到着している。私が下車すべき福島駅を通り過ぎてしまったようだ。 「あの、すみません。」 私は車掌に声をかけた。 「福島駅で下車するつもりが・・寝すごしてしまったんですが。」 「切符を拝見します。」 車掌は事務的に言うと誤乗、というスタンプを切符に押し私に返してきた。 「山形駅なんて初めて来たな。まぁ、こういう機会でもないと来ないしな。本当は改札の外に出たいけど、切符が福島までだからな。」 そんなことを思いながら上りの上野行きの新幹線の発車を待つ。まだ講義まで時間はあるし、新幹線に2回も乗れるとはラッキーである。次の瞬間目を開けると車窓には都会の景色が広がる。熟睡した感じに嫌な予感が脳を掠める。終点の上野駅到着を告げるアナウンスが軽やかな音楽と共に車内に鳴り響く。 上野駅に舞い戻ってきた私は、その十分後盛岡駅行きの東北新幹線の乗り場にいた。山形新幹線だからダメなんだ、今日の山形新幹線には運がないのだ。そう自分に言い聞かせた。やや緊張しながら新幹線に三度乗り込む。ただそんな緊張を解きほぐしてくれるかのように車内は快適であった。 少し時間が経ったようだ。気が付くと車内には誰もいない。電車が発車する様子もない。外を見るとそこは盛岡駅だった。いつになったら帰れるのだ。狸に化かされているような気すらする。私はまたもや上りの今度は東北新幹線に乗り込む。無事に福島駅に辿り着けますように、という願いも空しく、気付けばまた上野駅であった。 それからまた私は一番早く発車する山形新幹線に乗る。本日3回目の山形新幹線であり、5回目の新幹線だ。後々振り返ってみても、これだけ新幹線に乗ったのは最初で最後である。運がいいのか悪いのか分からぬ。しかもいずれの回も途中経過は夢の中である。この3回目の山形新幹線は、あの美しい朝陽以外は1回目のデジャブであった。発車した次の瞬間同じ車掌に起こされる。 「また・・・寝すごしですか。」 「はい、すみません。」 「今度こそ、しっかり福島駅に辿り着いて下さいね。」 車掌とのこのようなやり取り以外には記憶がない、ということはおそらく特別料金が発生したり、駅員室などで注意を受けたり、といったことはなかったのであろう。その車掌の呆れたような表情だけは今でも鮮明に記憶に残っている。その後、本日4回目の上野行きの山形新幹線に乗る。次の瞬間目を覚ますと、奇跡的に福島駅に停車している最中であった。 ようやく帰ってきた。安堵のため息をつく。その頃には既に大学の講義のことは頭から抜けていた。既に講義は終了している時間である。ただ私には講義に出席出来なかったショックよりも無事に帰郷出来た喜びの方が上回った。あとは自宅に戻ってから布団の中でゆっくり寝ることにしよう。ちなみに当時私の自宅の最寄りは福島駅から一駅の南福島駅であった。まだ発車まで15分程あったが座りたい一心で地方のローカル線に乗る。ここで私は再び睡魔に襲われる。次の瞬間気が付くと栃木県の黒磯駅まで運ばれていた。私の心の中は絶望感でいっぱいになった。今朝見たあの綺麗な朝陽は何だったのだろう。 悪夢の前兆か。福島方面の電車に乗り換えながらそんなことを考えた。覚悟は出来ていた。嫌な予感はしていたのだった。その電車の行き先を確認したときに。次の瞬間、私はその電車の終着駅である杜の都・仙台にいた。その頃には、今日中に自宅に無事に辿り着くことが出来るのか、些か不安になる私がいた。 福島方面の電車の乗り場に急ぐ。次に発車予定の電車はちょうど福島行きだった。おあつらえ向きだ。これで寝すごすことはない。福島駅に到着した際、まだ不安があれば駅から歩いて帰ろう。やや遠いが30分もかからないだろう。 比較的安心感をもって乗車出来た私に新たな苦痛が待ち受けていた。全身の痒みである。かゆくて仕方がない状況が続く。今度はとても寝られそうになかった。既に窓の外は真っ暗な状況で、福島駅到着までの1時間半ひたすら痒みとの闘いである。福島に到着した時にも痒みは治まらない。ようやく自宅に帰還した喜びも痒みにかき消されてしまった。待望の自宅に戻り入浴の準備をする。気になったので衣服を脱いだ裸の身体を鏡で見て驚愕した。ほぼ全身に渡って湿疹ができていたのであった。その夜は痒みのせいであまり寝付けずにいた。車内で寝過ぎたというのもあるかもしれない。いずれにしても綺麗な朝陽から始まった一日は、目的地に辿り着けず、大学の講義にも出られず、挙げ句の果てに体調不良にまでなるという最悪な状況で幕を閉じた。 翌日の最初の仕事は病院に行くことであった。医師に言われる。 「ダニに刺されましたね。いや、しかしたくさん刺されましたね。何か覚えはあります?」 さすがに、クーラーの壊れた雀荘で友人と徹夜麻雀をしていた、とは言えず知人宅で夜通し勉強に明け暮れていたことにしたのだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加