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02
色彩は、人間の心理面にも影響を与えるという。
例えば、赤一色で塗られた部屋にいると情熱的な気分になったり、青一色の部屋にいればなんとなく寒さを感じるだろう。
緑は落ち着きを与えるし、黄色は子供っぽい無邪気さを感じさせる。
赤をじっと見ている人間は、興奮しやすくなるという話を聞いたことがある。
彼女がいうには、自分が接している色彩から、知らないうちに影響を受けているということらしい。
それだけの力を持つ色彩を絵で使うとき、相当な表現力を発揮するだろう。
つまり、色彩はそれ自体で何らかの表現力を持っているということだ。
これを理解していたゴッホは、チューブから絞り出したままの原色を使って絵を描いた。
また原色が一番引き立つ組み合わせの色彩で絵を描き、自己の思いを強烈に表現した。
「赤、青、黄、緑、オレンジ、紫――それぞれの色はそれ自体で表現性を持ち、となりに置く色によっては見え方が違ってくるの。汚く見える色も組み合わせによっては美しく調和する。これってある意味じゃ人間と同じよね。そう思わない?」
この話も何度も聞いて知っている。
何度も問われている。
普段は何も答えないが、今日の俺は何か言いたくなった。
「でも、ゴッホは死んだ。絶望したんだ。この世界や人間に……」
「誰でも感情的になってしまうってことがあるでしょう? ゴッホはそれが長かっただけ。どんな人でも同じ色に染まり続けたら、終わり方は似たような結果になるものよ。幸せな家族がどこも同じに見えるようにね」
「……俺はおかしくなってしまったのかもしれない。ずっと君が見えてる……。このままじゃゴッホと同じになっちまう……」
「ほらほら、もうすぐ散歩の時間だよ。気分を変えれば心の色も変わるって。いってらっしゃい」
彼女の姿が消えていくのと同時に、部屋に人が入ってきた。
さっき朝食を持ってきてくれた中年男性だ。
数時間前に会ったときと変わらず笑顔なのだが、やはり疲れた顔をしている。
男は俺に挨拶をすると、部屋の隅にあった折りたたまれた車椅子をひろげ始めた。
この部屋を出るときは、いつもこの車椅子で男が俺を運んでくれる。
「今日はいい天気ですよ。空も青くて、お散歩日和です」
笑顔からさらに深く微笑むと、男は俺を車椅子に乗せた。
何かの間違いで落ちないように、車椅子に手足を固定して部屋を出ていく。
部屋と同じく白い空間が広がっている。
廊下で人とすれ違う。
みんな男と同じく疲れた顔をしている。
中には露骨に不機嫌そうな顔をしている人もいる。
外へ出た。
木々の緑と青い空、白い雲、そして同じように車椅子に人を乗せてそれを押す男たち。
俺と同じように散歩に出ている人たちの姿が見える。
人が多いのに静か、とても静かだ。
部屋の中と変わらない。
誰も言葉を交わさない。
軽く会釈するだけだ。
「少しやることがあるので、ここで待っていてください」
男はそう言うと、俺を置いて車椅子を離れた。
理由はわからない。
正直どうでもいい。
「綺麗な光景だね。自然がいっぱいって感じ」
また彼女が現れた。
俺の目の前ではしゃぎながら周囲を跳ねている。
少し離れているせいか、周りにいる車椅子の連中には、彼女が見えていないようだった。
「俺は君とは違った……。違ったんだ……」
俯きながらつぶやく。
もう勘弁してくれと、今にも泣きそうな声を出す。
「たしかに違ったけど、でもそれは失敗しただけで同じだよ。……別にいいじゃない、私がいなくたって……。どんな世界にも楽しいことはあるよ。あなたは生きてるんだから」
「世界が楽しいなら……どうして君は逝ってしまったんだ……」
俺は抵抗するように言った。
「私が見えているのは、統合失調症のせいかもしれないね」
彼女は足を止めて俺のほうを振り返る。
まるで恋人がやるように、前屈みの姿勢になって上目づかいで見てくる。
「今飲んでいる薬を、もっと強いものに変えてもらえばいいんじゃないかな。そんなに私のことが嫌いならさ……」
「嫌いじゃない……。ただ、たまに恐ろしくなる……。君が消えると、自分が自分じゃなくなるんじゃないかって……」
「面倒なところは変わらないね。あなたって、本当に難儀な性格をしているよ」
彼女は、やれやれといった様子で首を左右に振った。
色の三原色には、一般に赤、青、黄の三つの色をさす。
これらの色は混合すると明度が低くなり、色の三原色を同じ濃さで混合すると黒色に近い色になるらしい。
黄色の彼女と青色の俺。
そこに赤が混じると黒くなる。
今の俺には光がない。
黄色の彼女が赤色を浴びて、青色の俺が混じり合ったせいだ。
ここにある部屋に入ってから、今年で俺は七十歳になるらしい。
鏡を見ないので今の自分の姿はわからないが、現れる彼女はあの頃のまま――美しいままだ。
次の日の朝――。
彼女が語りかけてくる。
「あなたは性格的に青だよね。誠実、冷たい、憂鬱って感じがするし」
今日も色の話だ。
「私は黄色かな? ほら、自分で言うのも変だけど、私って快活で明るい能天気なタイプじゃない」
何度も聞いて……知ってる。
そして色の話の最後は、いつもこの言葉で締めくくられる。
「あなたはもう、私と出会う前のあなたには戻れない」
ああ、その通りだ。
俺はもう、彼女と出会う前の自分には戻れない。
苦しかったはずなのだが、どうしてだかこのところは、悪くないと思うようになった。
了
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