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ある日から、俺は彼女の幻覚をよく見るようになった。 人が多い場所ではあまり見ないが、静かな場所にいればほぼ確実に現れて話しかけてくる。 つまりこれが呪われるということなんだろう。 もう彼女は死んでいるのだ。 けして天に召されることのない、自分の中にある記憶の形。 彼女が語りかけてくる。 「あなたは性格的に青だよね。誠実、冷たい、憂鬱って感じがするし」 今日も色の話か。 「私は黄色かな? ほら、自分で言うのも変だけど、私って快活で明るい能天気なタイプじゃない」 彼女は生前に建築会社で働いていた。 カラーコーディネーターの資格を持ち、何かと色の持つイメージや組み合わせを考えては、楽しそうにしていた。 「あー、また色の話だとか思っているんでしょ。顔でわかるよ。やれやれって頬に書いてあるもん」 当然、思っている。 「別にいいもん。聞いてくれなくても勝手に話すから。色ってのはね。混ぜることで新しい色と意味を持つんだよ」 何度も聞いて知ってる。 「赤と青を混ぜると紫。これは上品、女性的、厳粛、神秘、妖艶のイメージ。赤と黄色は混ぜたらオレンジだよね。これは朗らか、カジュアル、あたたかいとかだったかな」 まるで何もない空間にパレットでもあるかのように、彼女は手を動かしながら話を続ける。 幻覚は幻覚でも、さすがにパレットや絵の具は具現化されない。 「さて、ここで問題です」 いつもの問いだ。 このパターンで一体何を言うのかも、その答えも知っている。 「あなたのイメージ色である青と、私のイメージ色である黄色。この二つの色を混ぜる何色になるでしょうか?」 俺は答えない。 わかっていても口には出さない。 「ブブー。時間切れです。答えは緑! イメージは調和、さわやかな、平穏とかの意味を持つ色だよ」 自ら黄色がイメージ色というだけあって、彼女はいつも快活だ。 元気いっぱいに声を出し、動作もいちいち大袈裟で、まるで幻覚とは思えないほど。 「じゃあ、この緑色をそれぞれ元の色に戻したいとして、それがとっても難しいということはわかる? わかるよね? だって、できなかったからここにいるんだもの」 色の話の最後は、いつもこの言葉で締めくくられる。 「あなたはもう、私と出会う前のあなたには戻れない」 ああ、その通りだ。 俺はもう、彼女と出会う前の自分には戻れない。 「おはようございます」 部屋に人が入ってきた。 白衣姿の中年男性。 俺の世話をしている人間だ。 笑顔は多いが、(しわ)も多い。 声の張りや動作から察するに実は若い感じがするが、気苦労が絶えないのだろう。 目の下にもクマがあり、会うたびに漂わせている疲労感が増えていってる気がする。 今日もいつも通りの時間に食事を運んできた。 「体調はどうですか?」 どうということもない。 俺は健康で、すぐにでも働ける。 あんたのほうが余程体調が悪そうだ。 しかし、わかってはもらえず、もうしばらくは安静にしているように言われている。 この部屋に来て数日、いや数ヶ月だったか? 考えているともっと――数年間ずっとこの部屋にいる気がしてくる。 「彼女は今、傍にいますか?」 男が訊いてきたが、気がつけば彼女の姿は消えていた。 いつものことだ。 誰か他の人がいる時に彼女が喋りかけてくることは、これまで数えるくらいしかない。 俺は首を振り、今はいないと態度で教えた。 男はうんうんと頷くと、笑みを浮かべたまま部屋を出ていった。 去り際に、食後は薬を飲むことと、午後に散歩があるのでまた来ると言っていた。 今日の朝食は、サンドイッチと200mlの紙パック牛乳だ。 食べ終えた後、トレーはそのままでいい。 大体は次の食事の時に回収されていく。 サンドイッチには野菜や肉が入っている。 日によっては魚の時もあり、俺の舌がおかしいのかあまり味がしない。 しょうがないので食べるのだが、本当にただ栄養を取っているだけ、もっと言えば空腹を満たすだけの食事はわびしい。 朝食を食べ終え、ベットから体を起こして棚へと手を伸ばす。 ベットサイドの棚にはキャスターやタオル掛けが付いており、水と薬が中に入っている。 ここへ俺が来たばかりの頃には、テレビや冷蔵庫もこの棚に設置されていたが、使わないとわかると外された。 棚を開けて水と薬を手に取って飲み込む。 それから再び横になると、急に目の前に彼女が現れて変な声が出そうになった。 「“色彩は、それ自体が、何かを表現している”」 彼女がつぶやいた。 微笑みながら、驚く俺を見て嬉しそうに。 「フィンセント·ファン·ゴッホだよ。名前くらいは知ってるでしょ?」 自分の耳たぶを切り落とすという事件を起こし、病院に入れられた画家だ。 しかもその耳たぶを女に渡したとか。 いや、それよりも生前に評価されなかった画家。 または弟に経済的負担をかけ続けたことを苦にして自殺した人物と言ったほうが有名か。 「このゴッホの言葉の意味が、あなたには理解できるかな?」 俺は返事をしない。 それでも彼女は、気にせずに言葉を続けた。
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