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④
「産地直送のお肉が届いたから、今夜はすき焼きにしようね」
母は離れの私の部屋へ来て嬉しげにそう話した。
「芳樹さんからかしら」
婚約を破棄され、都内から実家に戻って来た私に対し、母は気遣いのない言葉を平気で呟いた。
「そんな訳ないじゃん。私達はとっくに別れたんだから」
「そうよねぇ。出なきゃあんたがここにいる訳ないものね」
母はその言葉がどれだけ傷ついた私の心を、更に傷つけているという事実に全く気がついていない。自分の娘だからと言って許される言葉じゃないし、少し天然だからじゃ済まされない話だ。私は苛立ちを堪えながら、そうだよと答えた。
「なら、一体誰かしらねぇ」
私にはそれが誰の肉なのかわかっていた。
だが、母の言葉に頭に来ていた私は、食べたらダメという言葉を伝える事はしなかった。
「お母さん、今から夕飯の支度するから、着替えて母屋に来なさいよ」
私はうん、とだけ答えた。
あの肉は例の男の身体の一部だ。そうに決まっている。なんとしてもその肉を捨てなきゃならない。
私が都内でストーカー被害に遭った事を、両親はさほど気にかけていなかった。
「モテるのねぇ」なんて言葉も平気に口に出すくらいだから、今更、そのストーカーが実家にまで現れたと話しても信じるとは思えなかった。だから私はほんの数時間前にみた牛の着ぐるみを着たストーカーの事を両親には黙っていた。心配かけたくないといった子心からではない。単にストーカー被害という事件に警察同様、捉えている節があるからだ。
実際、世の中ではその被害で殺された人も少なくないというのに。どちらかといえばまだ父の方が気にはかけているようだった。けれど母があのように呑気で天然ぽい人だから、父も母のそんな所に引っ張られ、最近は娘の私に、いい加減働きなさいと急かすばかりだった。
そんな単純な事でこのストーカー行為というものが片付けられる訳ではないのに…
母は早く来なさいよと言い放ち、母屋へと戻っていった。
「このお肉、鮮度が悪いわね」
キッチンで夕飯の支度をしながら母がポツリとそう言った。
「ねぇ。お母さん、送り主が誰かもわからないお肉は食べるのやめようよ。おまけに鮮度も悪いし、ほら?こんなに黒ずんでいるじゃない?」
私は震える手で割り箸を掴み、肉を持ち上げた。
「あら?酷いわね」
「でしょ?わけわからない肉を食べるのはやっぱ怖いよ」
「そうねぇ」
母はいい、送られて来た肉を全てゴミ箱に捨て、スマホを掴み父へお肉を買って帰ってくれるようLINEした。
私は母の行動に心底胸を撫で下ろした。
ゴミ箱にある捨てられた肉を眺めると、
ビーフシチューの一件を思い出し、膝がガタガタと震え、今にも大声で叫びだしそうになった。
私は思わず口に手をやり込み上げる吐き気を堪え、肉が見えないよう、届けられた段ボールを引きちぎり、肉を隠すようにその上へと捨てた。
父は母からのLINEに返信を寄越して来た。
高級和牛にするからねと言った返信があったらしく、母は構わないけど、その分お小遣いから引きますからねと返した。既読はついたようだが、父から返信はなかった。
「これで安い牛肉買ってきたら、お父さん、器の小さい男になっちゃうわね」
母はいいクスクスと笑った。
私は支度を手伝った後で、お風呂に入った。
入るつもりはなかったのだけど、母は、父がお肉を選ぶのに時間かけるだろうから、きっと帰宅は遅くなるからと、先にお風呂を勧めたのだった。
確かに父は買い物をする時は優柔不断な所はあった。だかは私は素直に母の言うことを聞く事にしたのだ。
「その間、お母さんはゴミを外に出しておくから」
私は頷き着替えを持って風呂場へと向かった。
お風呂のガラス戸を開けると前が見えない暗いの湯気が立ち昇っていた。
湯船に指をつけてみると思った通り、熱湯だった。
これは昔からの母の癖だ。母はいつも最後に入るからと、無茶苦茶な温度に設定するのだ。
「入る時に足せば良いじゃない」と何度文句を言ったかわからない。
私は仕方なく、水を足しながら、風呂場の窓に手をかけた。鍵を下ろし、窓を半分開ける。
充満していた湯気が、アルミで作られた窓の外側の柵から逃げ出していく。
その動きが綺麗で何となく眺めていた。
湯船の中をかき混ぜながら再び、窓の方を見上げた時だった。何かが動いた気配があった。
私はビクッとし身体が強張った。慌てて胸を手で隠した。そして窓を閉めようと手を伸ばした時、柵の隙間からヌルッとした動きの黒ずんだ手が伸びて来て、湯船へ何かを落とした。
「ヒッ!」
私は伸ばした手を引っ込め、膝から床へと崩れ落ちた。
その手は何度か同じ行為を繰り返した後、ゆるりとその手を引っ込めた。
私は恐る恐る、身体を起こし、直ぐに窓ガラスを閉めた。鍵をかけ、ホッと息をついた私の目に映ったのは湯船の中に浮かぶ、数枚もの肉片だった。
私は悲鳴をあげ、腰を抜かした。
「お、お、お母さん!おか、お母さん!」
私の悲鳴を聞きつけた母が、風呂場へと駆け込んで来た。
私は声にならない声をだしながら、湯船を指差した。
「何よ?びっくりさせないでくれる?」
私は尚も、震える手を湯船へと向けていた。
「な、中を、みて、みてよ、お、お母さん」
「風呂の中?」
私は何度も頷いた。
「暑すぎたかしらねぇ」
そんな風に呑気に言った母も湯船に浮かんでいる肉を見て、言葉を失った。
「これって…」
「お母さんが外に捨てた、ゴミ箱に入っていたに、肉だ、と思う…」
母は、バケツで肉を掬った後、一旦、風呂場から出て行った。ゴミ袋を持って戻ってくると、イライラしながらその肉をゴミ袋へ入れた。
「アイツだよ」
「アイツ?」
「うん、私をストーカーしてた奴」
「まさか…」
「黙っていたけど、昼間、この肉を届けに来た奴が、私をストーカーしてた奴なの」
「どうしてそれを早く言わなかったの!」
「怖くなって言えなかった…それに言ったってお母さん信じてくれないじゃない…」
「娘のいう事を信じないわけないでしょ!」
何よ、今更…と思ったが口には出さなかった。
それなら最初から信じてくれたら良かったじゃない。
「ごめんなさい」
「とりあえず、お母さん、警察に連絡するから。だからあんたはお湯を捨てて服に着替えなさい」
母がそう言うと、ゴミ袋を持って風呂場から出ようとした。
その時、インターホンが鳴った。
「〇〇さん、宅配便です」
終わり。
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