『私』が教えてくれたこと

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─5─  ずぶ濡れの中、やっとアパートに着いた。 「──寒い」  部屋に入るとすぐにストーブのスイッチを押した。  とにかくお風呂にお湯を溜めよう。温まりたい。  その間に着替えを済ませ、しばらくストーブに張り付き体を温める。オレンジ色の炎を見ながら、頭の中では今日の出来事を振り返っていた。  どうしてもっと堂々と対応できなかったのか。  強くなっていたと思っていたのは、勘違いで、実際はあの頃と何も変わってなどいなかったのだ。  ──お湯が溜まったと知らせる音楽が、静かな部屋に響く。  すると、それと同時にスマホが振動した。  ゆりさんだろうか……  どうしよう。今話すと自分の弱さが露呈してしまいそうで怖い。でも、ゆりさんは『私』  自分に弱音を吐いたっていいじゃないか…… 「──もしもし」 「ゆりちゃん?」 「はい。今日も連絡くれたんですね」 「もちろんよ。それより、なんか元気ないわね。どうしたの? なにかあったの?」  当たり前のように気づかれる。いや、気づかれたかったのかもしれない…… 「──はい、ありました」  あっさり認めた自分に少し驚いた。 「あら、どうしたの? 昨日とは違うことかしら?」 「はい……その前に聞きたいことがあるですけど……ゆりさんは、いじめられたことありますか?」 「いじめ? 幸い、ないわね」  ない……か。そこからもう、道が違うんだ。今まで共通点が多かった分、勝手にいじめの経験があると思っていた。 「どうして、そんなこと聞くの?」 「私がいじめられていたから……」 「あら……そうだったの。それは──」 「それ以上は言わないでください。いじめられてない人からしたら、どれだけ辛いかなんてわかりませんから」  あ……どうしてこんな冷たい言い方を…… 「ごめんなさい。言い方、ひどいですよね……」 「いいのよ。よっぽどなことがあったのね。それに、辛いとか、痛いとかなんて人それぞれ感じ方が違うんだから、私もあなたの気持ちを完全にわかるなんて思っていないわ。たとえ私たち、同一人物だとしてもね」  確かに、人の気持ちを理解しようなんてそもそも無理な話だ。 「そうですね、本人しかわかりようないですよね」 「でも……わかろうとすることは大切だと思うわ。もし、相手がわかってほしいと願うのならね」  私はどうなんだろう……わかってほしいの、かな。 「ねえ、少し聞かせてくれないかしら。今日、何があったのか」  昨日で気づいているはず。人に話すことは心を解き放ち、心地よいということを。  今朝はあんなにも晴れやかだったはずだったのに…… 「長くなるから、簡単に……」  いじめのことを軽く前置きとして話したあと、今日の出来事を説明した。 「かわいそうな人ね」  意外な言葉が返ってきた。 「かわいそうな……人?」 「ええ、かわいそうな人よ。だって何十年も時が経っているのに彼女は成長していなければ、時も止まったまま。哀れだわ」 「でも、私も同じ。いじめのことを未だに引きずっていて克服できてないし、今日のことだって名前を見ただけで心拍数が上がって動揺し、頭が真っ白になったんだよ。それに、結局彼女に負けてるし……」 「負けてるって何が?」 「だって、旦那は大手スーパーの跡取り息子でお金持ちだし、別荘も持ってるし、かわいい娘もいて、幸せそうだったし……」 「それって、本当に幸せなのかしら?」 「へっ?」思いもよらない返答に情けない声が出た。 「だって、幸せかどうかなんて蓋を開けてみないとわからないわよ。外から見える幸せなんてあてにならないわ。お金持ちとか、高級車に乗ってるとか、旦那がかっこいいとか……」 「そうかもしれないけど、それだけでも十分幸せなんじゃ……」 「じゃ、どうして見た目も綺麗で華やかで、お金も地位も手に入れているような有名人が突然自殺したりするのかしら? それって、私たちが見ているのは所詮外側だけで、内側の部分は見えていないってこと……というより、見えるはずもないわ、本人しかね」  周りに幸せそうに見えていたとしても、本人が抱えていることまでは見えない……か。 「でも、悔しいの。私は幸せを手に入れていないのに彼女たちは幸せそうにしているのが……」 「──そうよね、結局見えてくるのは外側だけだから。勝ち負けで考えてしまうのはわからなくはないけれど、ゆりちゃんの場合はどうなれば勝ちなの?」  ゆりさんは、必ず私の話を一度自分に落としこんで話してくれる。 「言い方悪いかもしれないけど、私が幸せになって彼女たちが不幸になれば……」 「うーん。きっと、ゆりちゃんが幸せだと思えたら、彼女たちが不幸にならずともどうでもよくなるんじゃないかしら」 「どうでもよくなる……」 「ええ。だって、自分が幸せだったら彼女たちがどうなっていても関係ないじゃない? というより、気にならなくなると思う」 「今まで、過去のことや現実の辛さから逃れる為に、自ら忙しくしていたの。忙しく過ごすことで、目を逸らしていたの……余計なことを考える隙間をなくしていたのよ……」 「うん……すごくわかるわ……」  一瞬、ゆりさんの声が離れたような気がした。そして、少し黙った後、咳払いをし、続けた。 「──もちろん、時が解決してくれるって言葉もあるように、せわしなく日々を過ごしていればいつの間にか……ってことはあるし、私もそういう経験はあるわ。けれど、自分が幸せだと感じることができて、尚且つ、過去の辛さから解放されるなら、それって最高の克服じゃないかしら」  それができたら、どんなにいいか。でも現実はそんなに甘くない…… 「もし、幸せになれないひとつの理由が過去のいじめなら……過去にはあなたはもういないのよ。もちろん未来にも。だって戻れないし、先のことも見えないでしょ? 今、目の前にあることだけが現実なの。照準を今に合わせるのよ。今までのゆりちゃんは、過去に照準が合っていたけれど、これからは今だけを見てほしい。あなたのまわりにはもう、幸せがたくさんあるのよ。あとはあなたが幸せを感じる心を持つだけ。気づいていないだけなの。だって、過去に照準が合っていたから。よく見て、幸せは目の前にあって、少し手を伸ばし掴むだけ。それは小さな幸せかもしれない。けれど、この小さな幸せを感じられる練習をしなければ、大きな幸せを掴むことなんてできないわ。ほら、思い出してみて。今まであなたを助けてくれた人、声を掛けてくれた人、いなかったかしら?」  幸せが来なかったのではなく、目の前に幸せはあったのに、過去に囚われ過ぎていて見えていなかっただけ……本当は、ずっと幸せは目の前に……  今日、萌香は私の小さな変化に気づき、戻るまで待っていてくれた。それに、支配人だって今日は気遣ってくれた……いつも心に余裕がなく、嫌なところしか見ていなかったが、気づけなかっただけで、みんな私のことをちゃんと見ていてくれていた…だから小さな変化に気づき、心配してくれたんだ。  もしかして、今までの職場でも……  私は、私は……何をしていたんだ。きちんと目の前のことに照準を合わせてさえいれば、みんなの気遣いや優しさに気づいていたのかもしれない。それを私は無下に…… 「ゆりさん、私、みんなの優しさを無下にしていたのかもしれない……」 「大丈夫よ。これからきちんと気づけるようになれば、なんにも問題ないわ。幸せになるのに、遅いも早いもないのよ。それに、今気づけたじゃない! もう大丈夫よ」 「でも私、うまく心を開けないし、開くのが恐いんです。傷つかないように、心を守る為、常に最悪の状況を考え生きてきたし、期待してくれた人の気持ちに応えられず裏切ってしまうのが恐いんです。自分を守るためには、心を閉ざし、人と関わらない、その他に自分を守る手段を知らないんです」 「ゆりちゃん……」  私はいつの間にか声を上げ泣いていた。  気づいていた……本当はみんなが優しいってことに。ただそれを認めてしまうと、弱い自分が出てきてしまって、心を開いていまう。そうすると、自分で守ることができなくなってしまうと思っていた。  いじめられていたときだって、本当は優しくしてくれた人はいた。だけど、自分のことで精一杯で……もし、あの時その優しさに目を向けていればもっと違った人生になっていたのかもしれない…… 「どうしたら、どうしたらいいの……」  もう、わからなくなっていた。 「この涙はゆりちゃんが本気で生きてきた証明よ。強く生きてきた証」  泣くことは負けじゃない……証明…… 「そろそろ、心の荷物、下してもいいんじゃない?」  その言葉に、ふわっと体が軽くなるのを感じた。  本当はたいして使わないようなものを鞄に詰め込み、次々とサイズを大きくし、無駄に重くし、動きにくくしていただけのことなのかもしれない。 「ゆりさん、ありがとう……」 「何もしてないわよ。少しあなたより長く生きてるから色んなことを知ってるだけ」 「同じ私でも、幸せそうに過ごしているゆりさんを知れてよかった」 「私もよ。一生懸命生きている私を知れてよかった」  なんだか、ほっとしたら眠たくなってきた。明日早出だし、そろそろ…… 「ゆりさん、明日早出なのでこの辺で」 「あら、大変ね。明日はきっといい日になるわ。おやすみなさい」 「ゆりさんも、素敵な一日を。おやすみなさい」  欠けていた心の欠片が、日に日に集まっているのがわかる。  穏やかな気持ちで、今日はこのままベッドに入ろう。お風呂は明日……  
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