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─6─
目覚ましが鳴る前に起きてしまった。早出の時は気が張っていてよく眠れない。
ベッドから出るとそのまま、窓を開けた。少しひんやりとする空気が部屋の中へ入ってくる。トラックの走る音を聞くと、私と同じように早朝から頑張っている人が世の中にはいると実感し、気が楽になる。
いつものようにゆっくりコーヒーを……といきたいところだが、さすがに時間がない。すぐに準備をしよう。
シャワーに入り、寝ぼけている頭を起こし、眠たそうな顔には、少し濃いめのメイクを施し、髪はアップにすっきりと。これでやっと気合が入る。あとは、コンビニでコーヒーを買えば完璧。
薄手のコートを羽織り、急ぎ足でホテルに向かう。
歩いていると、少しずつ空が明るくなってきた。オレンジ色の光が空全体を照らし、心地よく温かい日差しを与えてくれる。
きっと、大丈夫。
もう私は弱さを隠さない。今を見ることが出来る私は、もう、幸せを逃さない。
「おはようごさいます」
夜勤のフロントスタッフに声をかける。
「何も問題なかった?」
「おはようございます。なにも問題ありませんでした」
「わかった。じゃ、私レストラン行ってきます」
更衣室で、エプロンをつけ準備をしていると萌香が出勤してきた。
「おはようございまーす」
「おはよ。眠そうね、大丈夫?」
「はい、眠たいですよー。まだ、世間は寝てる時間ですよ」
「まあ、そうね」
萌香は特に朝が弱い。いつもシフトを考える時、なるべく早出は少なくはしているが……
「さあ、行くわよ」
厨房に挨拶をし、出来上がったものから並べていく。
飲み物のチェックをし、テーブルを拭き、客を迎え入れる準備をしていく。
「ゆりさん!」
厨房から焼き魚を持っていこうといている時だった。萌香の大きな声が聞こえてきた。慌ててホールに出る。
「どうしたの? 大きな声を出して」
「ちょっと来てください」
こちらに向かって、一生懸命手招きをしている。
不思議に思いながら近づいてみると、ロビーに石崎まゆ夫婦が立っていた。
「あの二人がどうかしたの?」
なぜか小声になる。
「さっきから喧嘩してるんですよ」
「喧嘩?」
「それも、結構な感じで……」
結構な感じって……コーヒーマシンの影に隠れながら耳を澄ませた。
「ゆずきって誰よ! スマホ見たんだから!」
「どうしてお前は人のスマホを平気で見るんだよ。俺は一度も見たことないだろ」
まゆがヒートアップしているのに反して、旦那は静かなトーンで話している。いや、冷めていると言った方がいいのかもしれない……
「見られて困るようなことしている方が悪いわよ。もう一年以上前からじゃない! 浮気しているの、ずっと知っているんだから!」
浮気? あんなに幸せそうなだったのに……
「──ゆずきはお前みたいに、人に対して横柄じゃない。誰にでも優しいんだ。人の痛みをわかってあげられるんだよ」
「な、なによ、それ! 浮気を認めたってこと?」
「浮気じゃない、本気だ……」
「え……」
萌香と思わず目を合わす。
「結婚する前は気づかなかった。気づけなかった俺が悪いんだが、こんな人だとは思わなかった。このホテルのフロントの女性にだってひどい態度だったじゃないか。あんな母親の姿、娘に見せたくないんだよ。あのフロントの女性同級生なんだろ? よくあんな態度できるよな」
「同級生? あの子はいじめられていた子なのよ。私とは次元が違うのよ。だから私の態度は間違ってないじゃない」
──かわいそうな人。昨日ゆりさんが言っていた言葉の意味がようやくわかった。
「ゆりさん……」
萌香が気まずそうな顔でこちらを見た。
私は、何も言わず頷いた。
「お前、そういうとこだよ! 人として未熟なんだよ。あの女性、すごく悲しそうな顔していたじゃないか。どうせ、いじめていたのもお前なんだろ。ずっと変わってないんだな。それに比べてあの女性は立派に働いているじゃないか。お前だけだよ、成長してないのは。かわいそうな奴はお前だよ」
「こわ……」思わず、萌香の声が漏れた。
「ひどい、ひどい、ひどい! 浮気をしてる方がよっぽど最低じゃない! 問題をすり替えないでよ!」
「浮気は悪いよ。俺が悪い。どんな嫁だったとしても浮気は悪いと思う。だから離婚してくれよ。もう耐えられない。娘は俺が責任をもって育てていく。お前なんかに育ててほしくない」
「離婚? 訴えてやるから! 娘なんていらないわよ! 勝手に持っていきなさいよ!」
その瞬間、パチッと乾いた音がした。
「えっ!」思わず口に手を当てた。
「痛いっ! 暴力よ! ただじゃ済まないわよ!」
「お前、自分の子どもをどうして物のように言えるんだよ! お前は人間のクズだ!」
これ以上はまずい。他の客が騒ぎ出す前に対処しなければ……
萌香にバイキングの準備を託し、意を決しロビーに出た。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、申し訳ありませんがお部屋に一度戻っていただけませんでしょうか?」
少し上ずる声を誤魔化しながら、丁重にお願いする。
「すみません。お見苦しいところをお見せしました。行くぞ」
「何よ! なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ! 負け組のくせに」
もう、惑わされない。過去に私はもういない。いるのは今、この場所。
「──負け組とか、拘っているのはあなただけよ。幸せかどうかなんて自分にしかわからない。外側だけ取り繕ってもぼろがでるのよ」
「うっ」まゆは言い返したいが、的を得ているだけに言葉に詰まった様子だった。
「私の中では、もうあの頃のことは過去のことなの。あなたがいつまでも拘り、過去に身を置いていたとしても、その過去にはもう私はいない。──しっかり前を向いて生きているから」
震えていた足も、いつの間にか力強く、しっかり立っていた。
もう、何を言われても動揺しない。今を生きている私はあなたを置いて行く……。
これ以上、言い返しては来なかった。そのまま旦那に連れられ、部屋に戻ったが、朝食を食べに来たのは旦那と子どもだけだった。
一連の騒動の後、すぐにフロントに戻り、チェックアウトをこなしていたとき、まゆの旦那が娘と手をつなぎながら近づいてきた。
「広川さん、先程は大変失礼しました。お詫び申し上げます」
「いえいえ、そんな……私のほうこそ生意気な態度をとってしまい失礼しました」
「いえ、妻がしてきたこと、ある程度はわかっております。どれだけあなたを傷つけてきたか、あんな性格ですから想像に難くありません。これから妻がどう生きていくのかわかりませんが、もうあなたの人生の邪魔をさせないようにだけ、しっかりと言い聞かせておきます。本当に申し訳ありませんでした」
──この時、いじめが本当の終わりを告げたように感じた。直接彼女に言えたこと。そして、彼女のしてきたことが悪い事と、他人が認めたこと……
心に絡まり続けてきた糸が、少しづつほどけ、解放された心はようやく本来の動きを取り戻す。時間はかかったが、ようやく私の時計の針も動き出す。
「私なら、もう、大丈夫です」
少し微笑むと一礼し、部屋へ戻っていった。
教室でうずくまり、小さくなっていた私は……もういない。
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