『私』が教えてくれたこと

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─8─ 「ただいま」  玄関で乱雑にヒールを脱ぎ、歩きながら鞄を床に置き、そのまま上着を床に脱ぎ捨て、ドサッとベッドに倒れ込んだ。  心は晴れやかだが、流石に疲れた。ここ数日、人生が大きく変わるような出来事が立て続けに起き、さすがに疲労困憊だ。  何も考える間もなく、倒れ込んだままの姿でいつの間にか、眠りについていた。 「ブーブーブー」  スマホの振動で目が覚めた。 「布団もかけずに、着替えもせずに寝ていたのか……」  寝る前のことが記憶にない。  どれくらい寝ていたのだろう。窓の外を見るとまだ明るい。寝ぼけてはいたが、体の疲れは少しかマシになっているようだった。  振動が鳴り止まず、仕方なくスマホを探す。  枕元にはない……  乱雑に置かれた鞄の中を手探りで漁る。  鞄の奥底に入り込んでいたスマホを取り出し、画面を見るといつもの解読不明の文字。ゆりさんだ。  今日はいつもより早いな…… 「もしもーし」 「あっ、もしもし? 出てくれたのね、よかった」 「はい! 今日は早出だったから終わるのも早いんですよ」 「そうだったのね、ちょうどよかった……」  うん? 少し、声に元気がないような…… 「ゆりさん、何かありました?」 「──ゆりちゃんと電話できるの、今日で最後になりそうなの」  え……唐突に告げられた言葉に思考が止まる。 「あのね、この電話、充電器が無いのよ。だから充電が切れた時点で終わりなの……」 「えっ、あとどれくらい残っているんですか?」 「三十九%」 「あ……それは……確かに、最後になりそうですね」  勝手にゆりさんとの関係は、ずっと続くと思っていた。あまりにも自然に話せるようになってしまったので、まるで姉妹のように感じていたが、実際あり得ないことが起きていて、ゆりさんは、私自身なのだ。姉妹でも友達でもない、『私』。しかも、違う世界線で人生を歩む、『私』。 「昨日、この電話を買った場所へ行ってみたんだけど、跡形もなくなっていて、何も聞けなかったの……」  お互い、なんて声をかけていいのかわからず、黙り込む。 「ゆりさん、今まで私の話を聞いてくれていたので、今日はゆりさんが今までどんな人生を歩んできたのか教えてほしいです」  どこかの分かれ道で違う選択をした自分は、どんな人生を歩んだのか知りたい。 「──そうね、聞いてくれるなら」  そう言うと、少しの沈黙の後、話し出した。 「どこから話そうかしらね。私の学生時代は、平凡だったわね。ゆりちゃんには悪いけど、いじめを受けた記憶もないし、なにか、特別素敵な出会いがあったわけでもないし。ただ勉強をして過ごしたかしらね。私の時代は高校進学は当たり前じゃなかったけど、両親が学問を大切にしていた人だったから進学できたの。高校卒業の後はすぐにホテルに就職。そこはあなたと同じ道に進んだのね。でも私は上京したの。東京に憧れがあって、学生の頃から決めていたわ。両親は反対だったけど、私の熱意に負けたの。それで、四年程東京のホテルで働いた後、突然ラジオパーソナリティーに転職したの」 「えっ! ラジオ?」  目が飛び出しそうなほど驚いたが、確かに私も、声が良いとよく言われる……そして、実は誘われたことがあった。しかし私は勇気が出ずに断っていたのだ…… 「そうなの。実はね、働いていたホテルが結構大きく有名なホテルで、有名人も泊まったりしていたの。そして、ラジオの関係者で神使原 仁、という男性プロデューサーが宿泊したときに、私の声を聞いて、誘ってくれたのよ。大きなラジオ局ではなかったけれど、嬉しかったわ。二つ返事で引き受けたの」  そうか、もう一人の私は、行動力が備わっていたのか…… 「それからしばらくしてホテルを退職し、そのラジオ局で働くことになったの。とても楽しい日々だったわ。充実していたし、やりがいもあった。その分、収入も増えたし、安定した生活を送れていたわね。そして三年程経ったとき、私を誘ってくれたプロデューサーと結婚したの」 「ちょっ……結婚してたんですか?」  驚きの連続で、話が入ってこない。 「あら? 言ってなかったかしら?」 「いやいや、聞いてないですよ……」 「あらそう。一度結婚経験あるのよ、こう見えて。それでね、しばらくはラジオのお仕事も続けていたんだけど、妊娠がわかってきっぱり辞めることに決めたの」 「ちょっと待ってください! 今、妊娠って……」 「ええ、そうよ」  まさか、子どもがいたとは……。  ──まあ、そうか。いたっておかしくないか……  混乱する私をよそに『私』は話を続ける。 「妊娠がわかって、退職して、子育てに専念したわ。女の子だったんだけど、クールな旦那が別人のようになってデレデレだったわね。飲み会にも行かなくなってまっすぐ帰ってくるようになって。とても素敵なお父さんだったわ……」  ──だった? 「──人生ってうまくいっている時ほど、闇が口を開けて待っているものなのね」  電話越しの声が、遠くなったように感じた。  ──あれ、この感じ、以前にもあったような。 「娘が五歳の頃、突然熱を出したの。風邪を引いたのかと思って病院に連れていったわ。やはり診断は風邪で、お薬を貰って帰ってきたの。熱はあったけど元気にしていたから特に心配はしてなかった。食欲も特に落ちていなかったしね。そして、旦那が仕事から帰って来て、旦那が娘を抱っこしたとき突然痙攣を起こして……お父さんを待っていたかのように……帰ってきたと同時だった……」  ゆりさんの声はあきらかに震えていた。 「──ゆりさん、話さなくても……」 「いえ、聞いてほしいの」  ふう、と息を吐いて、ゆりさんは続けた。 「──痙攣を起こして意識を失ったわ。私たちは慌てて救急車を呼んで……その間ずっと旦那は娘を抱きしめ、声を掛け続けていたわ。あの悲痛な声は今でも忘れられない。そして、病院に運ばれたけど、もう……。風邪だったの。ただの風邪。風邪の菌って喉に入ると喉が痛くなったり咳が出たりするでしょ。その菌がたまたま、脳に入ったのよ……今でいうところの、インフルエンザ脳炎。あまりにも突然すぎて実感がないというか、頭が真っ白になるとはこのことを言うんだと今ならわかるわ。ショックが大きすぎて記憶が曖昧なんだけど、小さい体が小さい棺に入れられて、小さな骨になって…」  幸せの絶頂に突如として現れた落とし穴。それは、底などは存在しない、どこまでも落ち続ける、天国にも地獄にも続かない、光が届かないただの闇。  神様は乗り越えられる試練しか与えないというが、試練などいらないのだ。どうして我々は、『生きる』というだけを許されないのだ。 「暗澹たる日々の中で、私たち夫婦は自然と別れを選んだの。それはお互いを思い合った結果なのよ。二人一緒にいることで、どうしても思い出してしまう。今考えれば、別れたところで娘のことを忘れることなどないのだけど。でも、あの頃の私たちは、ありきたりな言葉だけど、とても辛かったの。──逃げたかったのかもしれないわね」  逃げることは最大の防御……  乗り越えられない試練だってあるのだ。逃げなければ自分を滅ぼしてしまう。  逃げることは決して悪い事ではない。逃げることで自分を守り、また前を向き、歩き続けることのできる抜け道を探すのだ。正規のルートがあったとしても、それが辛く苦しい道なら、抜け道を探せばいい。例えそれが遠回りの抜け道だったとしても、その道中、得られることは正規のルートより多いはず。 「それから仕事へ復帰したの。冷たいとか、非道だとか言われたこともあったけど、それしかなかったのよ。仕事をし、一人でいる時間を減らし、考える時間を減らし、忙しく過ごすしか乗り越える方法はなかったの。ただ時が経つのを待つしか私にはできなかった……結局、娘を思い出しても、涙を流さなくなったのは十年くらい経ってからかしら。平気ではないけれど、自然に話せるようにはなったわね。写真もずっと飾っていなかったけど、その頃から飾るようになって……」  そうか。時折、声が遠く感じたのは、写真を見ていたからだったのか…… 「そこからは、六十過ぎまでラジオ局で働いて、自由に過ごしたわ。色んな経験もさせてもらった。そして、今、パートナーになっているのは、神使原 仁、元旦那よ」 「えっ? えっ? 結局戻ったってこと?」 「そうね。一度離れたけど、それはお互いを思い合ってのことだったし、憎しみ合って別れたわけではなかったから。それに、本当に縁がある人とは、例え離れたとしても、また、どんな形にしろ出会えると思うのよ。彼とはずっと同じ職場で働いてきて、戦友として切磋琢磨してきたの。その中でお互い別々に経験を積み、互いのやり方で娘の死を乗り越え、強くなり、そして最終的にお互いを必要と感じたから、今の形に収まったって感じかしらね」 「ゆりさんの強さ、なんとなくわかったような気がします。私なら、そんな辛い経験、乗り越えられなかったかもしれません。ありきたりな言葉ですけど、尊敬します」  色んなことを乗り越え、経験したからこその、今なんだ。 「あなただって、たくさん乗り越えてきたじゃない。私たちって、すごいわね」  ゆりさんは、微笑むような声で笑った。  そして、急に、物悲しい気持ちに襲われた。 「ゆりさん、充電、あとどれくらいですか?」 「──あと、十三%」 「本当に、あと少しなっちゃった……」  もう、二度と話すことがないのだと思うと、胸が締め付けられる。 「ねえ、ゆりちゃんと話せてよかったと思ってるわ」  穏やかな、静かな声で囁いた。 「私もです。私たち、違う人生を歩んできたけど、やっぱり通ずることが多くて、ゆりさんの話なら、息を吸うように心に入ってきたんです。そして……魂が救われました。乾ききっていた魂が潤いを取り戻し、生まれ変わったような気持ちです」 「大げさね。私はただ、自分自身を助けたかっただけ。違う世界で暮らしている自分が悲しんでいると知ったら、助けたくなるでしょ? 交わることのない二人だけど、それでも私には、幸せでいてほしいと思ったの」  大げさではない。この数日間は紛れもなく人生のターニングポイントだった。『私』との出会いがきっかけとなり、目の前に次々と道が現れ、進むべき道を指し示してくれたのだ。 「ゆりさん……」  その時、別れの音が会話を切った。 「ゆりちゃん!」 「ゆりさん!」 「もう切れそうだわ! ありがとう、本当にありがとう!」 「ゆりさんからもらった言葉、大切にします! 私、もう迷いません! 気づけたから! ゆりさんのおかげで気づけたから! 本当にありがとう、ありがとう……」  ツーツーという音だけが耳に残り、私の気持ちは電話の向こう側の世界に置き去りにされた。  この三日間の不思議な体験は、唐突に終わりを迎えた。  違う世界と繋がった刹那が私にもたらしたものは、『救い』だった。  救われたこの魂をどう磨くかは、自分次第。    道標などない人生、足の赴くまま進んでみるのもいいのかもしれない……  
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