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三島由紀夫
その少年は大正十四年(昭和元年)、東京都四谷区に生まれた。
少年は体が弱かった。名前を平岩公示と言った。少年の父親は農林省の官僚で、母親は漢学者で進学校の開成中学の校長の娘だった。父親は、第一高等学校を卒業し、東大法学部を卒業し、高等文官試験に優秀な成績で通り、農林省に入ったエリート官僚だった。少年は2440gと平均よりかなりの低体重で生まれた。五歳の時に少年は、自家中毒症(アセトン血性嘔吐症)で危篤状態になった。医者が呼ばれ、急いでブドウ糖の注射が行われ、少年は一命をとりとめた。しかし自家中毒症は、少年の個疾となった。
弱い体なので外で遊んでは危ないという理由で、少年は、坐骨神経痛で寝たきりの祖母の暗い部屋で一日中、祖母の足を揉んで過ごすこととなった。祖母は泉鏡花の愛読者で、部屋には泉鏡花の全集などがあり、少年は文字を覚えるのと同時に、本を読み出すようになった。小説の物語の中の世界が少年の心の世界となっていった。そしてまた、自分でも俳句や短歌などを書き出した。ちょうど元気な子が、積み木を組んで何かの物を作って遊ぶように、少年は、言葉を色々と組み立てて、遊ぶようになっていった。こうして少年は言葉の能力が、普通の子とは比べものにならないほど、めきめきと発達していった。
少年には女の友達があてがわれた。少年が同年齢の粗雑な男の子と遊んで、粗雑になることを祖母が畏れたからである。名前を杉子と言った。だが少年は、いつも本ばかり読んでいた。そして早熟にも、大人でも書けないほどの擬古的、耽美調の小説を書いていた。杉子は公示を見るとあきれた顔をした。
「公ちゃん。そんな暗いところで本ばっかり読んでて女の子みたいよ」
相撲をとろう、と杉子は言った。女の方から、相撲などという男っぽい遊びを提案させるのは、弱い男の子を少しは強くしてやろうという母性愛と、男を捻じ伏せる楽しみのためである。杉子が近づいてくると少年はたじたじと後ずさりした。勝負は分っているのである。バッと少年が逃げると、杉子はじりじりと部屋の隅へ、少年を追いつめて、取り押さえ、馬乗りにしてしまった。バタバタもがく少年を、杉子は得意顔で、
「どうだ。まいったか」
と言って尻を抓ったり口を塞いだりした。杉子は少年が持っている読みかけの本を奪い取った。
「なになに。ドルジェル伯の舞踏会?へー。小難しい本読んでるんだ。分るのかしら」
と言って、本を少年の目の前で、
「ほーら。ほーら」
と言って本をヒラつかせた。
「か、かえせ」
と言って少年は本をひったくると、お守りのようにギュッと胸の中に抱いた。目をつぶって身動きしないので杉子は立ちあがったが、少年は海老のようにちぢこまって、本を握りしめている。目から少し涙が出ている。
「ふん。むつかしい本が読めるからって女に負けるようじゃ自慢にはならないわよ」
と杉子が言った。
杉子はだんだん調子にのってきて、この相撲ごっこを楽しむようになった。杉子は少年をねじ伏せて、馬乗りになると、糸に結びつけた蟹を垂らして、そーと少年の顔に近づけた。
「ほーら。ほら。公ちゃんの嫌いな蟹」
蟹は挟みをチョキチョキ開閉させながら、少年の顔の上で気味悪くモゾモゾ動いている。
「や、やめてー」
少年は驚天動地の悲鳴を上げた。
杉子は図にのってきて、次にはタクシーのミニカーを垂らした。
「ほーら。ほら。公ちゃんの嫌いなタクシー」
次にはミニチュアの家の模型を垂らして、
「ほーら。ほら。公ちゃんの嫌いな別荘」
と、イタズラはどんどん悪ノリしていった。
少年は、華族、皇族の子弟の学校である学習院に入った。少年は華族の家庭ではなかったが、祖母が大名の家系であることから入学できたのである。
ある国語の時間である。何でもいいから一週間後までに自由作文を書いてきなさい、という宿題が出された。公示は、全身全霊を込めて、幼少の頃の生活をリルケ風の耽美的な文章で書いた。書き上げた時は、我ながらいい出来に仕上がったと嬉しくなった。題は、「花ばかりの森」とした。
一週間後の国語の時間に公示はそれを、いささか気恥ずかしい思いで提出した。
国語教師は、教員室にもどると、みなの作文をパラパラッとめくった。国語教師は、公示の「花ばかりの森」に度肝をぬかれた。
「ば、ばかな。こんな歳でこんな雅文調の小説を書けるはずがない」
と国語教師は思った。
翌日、国語教師は、公示を教員室に呼び出して、公示の書いた作文を前にして質問した。
「はは。君。これは誰か大人の小説を写したんだね」
作者が誰かを知りたいという気持ちと、また、盗作を見破られて叱られるのを慮って和やかに笑った。
「はは。いいんだよ。怒ってなんかいないから。良い文章を筆写することは文章の上達にとてもいいことなんだ。これからも大いに続けたまえ。ただし、それをそのまま宿題の答案として出してはいけないよ。作文はあくまで自分の言葉で書かなくてはだめだよ。ところで、この小説の作者はいったい誰だね」
少年は俯いて恥じらいがちに、
「あ、あの。ぼ、僕です」
と言った。
「んー。ウソはいけないな。じゃあ聞くけど君の好きな作家は?」
「はい。今はレーモン・ラディゲ。リルケ。堀辰雄。谷崎潤一郎などです」
質問する教師の目に少し真剣さが加わってきた。
「子供の頃はどんな本を読んでたの」
「はい。祖母が泉鏡花のファンで僕も惹かれて面白く読んでいました。あと祖母が歌舞伎が好きでよく連れてってもらい、家にあった謡曲全集が好きになってしまって、片っ端から読んでいました」
「んー。するとこれは本物か」
教師は眉を寄せながら原稿を読みながら、
(これはどえらい天才が現れたもんだ)
と仰天した。
「君。部活は?」
「はい。バスケットボール部です。担任の先生に、『お前は体育が全然だめだからバスケットボール部へ入って体を鍛えろ』と言われて入りました」
「それでバスケットボールは面白いか」
「いえ。下手でみんなに迷惑をかけるので一人でドリブルの練習をしています」
「そうか。じゃあ、バスケットボール部はやめて、文芸部に入りなさい。私が顧問をしている」
「でも担任の先生に叱られます。『休み時間、本ばかり読んでいないでみんなと外で遊べ』と、いつも注意されていますので」
教師は、怒気のこもった声で、
「いや。担任には、私が話しておく。バスケットボールなんて、そんなくだらないものは、止めなさい」
とつい、いきりたって言った。
教師は咄嗟に、自分の学生時代を思い出した。dejavuが起こったのである。教師は自分が注意されているような気がした。この国語教師も、学生時代には、休み時間は、本ばかり読んでいて、運動するよう担任教師に注意されたのである。
じゃあ、文芸部に案内してあげよう、といって、公示は言われるままヒョコヒョコついていった。薄暗い部屋の電灯をつけると部屋いっぱいに書棚に本がいっぱい詰っている。
「うわあ」
公示は思わず喜びの声をあげた。
少年は書棚に並んである無数の本の背表紙を食い入るように眺めていった。その目は感動で輝いていた。
「あ、あの。ここにある本、読んでもいいんですか」
「もちろんだ。好きなものは何でも読んでいいし、家に持ってって読んでもいいからね」
少年はまた「うわあ」と、喜びの声を上げた。少年はしばし、どの本を読もうかと迷っていたが、フランス文学の全集の中のラファイアット夫人の「クレーヴの奥方」を取り出し、一心に読み出した。グラウンドでは野球部の威勢のいい掛け声や、ノックの音やが聞こえ、音楽部の部室からは、ピアノの音が聞こえてくる。が、少年は本の世界に入り込んでしまったかの如くに、一心に文字に目を走らせながら項をめくりつづけている。
このままだと、いついつまでも読みつづけそうな様子である。
教師は、「オホン」と、とびきり大きな咳払いをしてポンと少年の肩に手をかけた。
「平岩君」
「は、はい」
少年はやっと我に返って、あわてて教師の方に顔を向けた。
教師は再び、「オホン」と咳払いした。
「平岩君。君は外国文学に凝っているようだが、なかなか、日本文学も捨てたものではないのだぞ」
「はい。日本の文学でも好きな作家はいます」
「そうか。それはとてもいい事だ。しかし君が読むのは近代以降の文学だろう」
「はい。そうです」
少年はキョトンとしている。
「日本の古典には、一番、日本人の心が脈打っているんだ」
教師の言葉は熱っぽさをおびだした。教師はさりげなく和泉式部日記を差し出した。
「うわー。先生が校訂した本なんですね。すごいや」
「い、いや。全然それほどたいしたものじゃないから、気がのらなかったら他のものから入った方が本当はいいのかもしれないが。でも源氏物語はちょっと長すぎるからね・・・それは君の自由だよ」
「いえ。先生の校訂なさった和泉式部日記から日本の古典を学ぼうと思います。借りてもろしいでしょうか」
「あ、ああ。勿論いいとも。君も勉強に創作に忙しいだろうから、返却はいつでもかまわないからね」
こんな具合で少年は、バスケットボール部をやめて、文芸部に入部した。
ある日の夕方、公示が部屋で小説を書いていると、いきなり父親が入ってきて、五十枚は積み重なっている、苦労して書き上げた原稿を、いきなり取り上げると、無言でびりびりと引き裂いた。怒りや、悲しみの感情の前に、ともかく、まずわけのわからない驚きによって呆然と萎縮してしまった。
「この不良め。二度と小説なんか書くな」
そう言い捨てて父親は去って行った。
公示の父親は、息子の文才は認めつつも、文学などというものは、何の実用の役にも立たない無益なものと思っていたのである。
その日の夕食は、お通夜のように無言で誰も喋ろうとはしなかった。いつもは、公示が、ラディゲのドルジェル伯の舞踏会、のことを楽しそうに語り、家族は、またその小説の話か、と、うんざりされるのだが、さきほど、文学嫌いの父親に、怒りを込めて小説を破かれてしまったので、文学の話は出来なかった。そして、父親が夕食の時、何も喋らない日は、決まって、その日、仕事で何か不快なことがあったことの証明であった。
「ああー。ひいー」
その夜中、厠へ行く時、両親の寝室の方から何かの音がかすかに聞こえてきた。公示は、その音に興味を持って音のする方に向かった。音は父母の寝室だった。近づくにつれ、それが悲鳴であることがわかってきた。公示は、そっと穴から寝室の中を覗いた。息が詰まるかと思うほど吃驚した。美しい母親が丸裸にされて手首を縛られて吊るされ、父親が母親を鞭打っているのである。母は父に鞭打たれる度に悲鳴を上げ、海藻のように身をくねらせた。
「お前は、公示の小説に、至れり尽くせりの協力をしていたな」
母親は、夫が寝た後に、夫に見つからないように、抜き足差し足で息子の部屋に入り、十分な原稿用紙を、菓子や茶と一緒に、文学好きの息子のために届けていたのだが、それが見つかってしまったのである。
「あいつは頭が良くて勉強も出来るし、司法試験を受けさせて、大蔵省の役人にするんだ。小説家なんて、何の生活の保証もない」
「俺は顔が気に食わないという理不尽な理由で、農林省にさせられたんた。今日も、大蔵省の主計局長に呼び出されて、屈辱的な思いをしたんだ。だから、あいつは何としても大蔵省に入れるんだ。俺の思いがわからんのか」
「そ、それはあなたの身勝手ですわ。あなたは、大蔵省に復讐するために、公示を利用しようとしているんですわ」
「うるさい。ともかく小説家なんて、綱渡りのような人生を送らせたくないという親の思いがわからんのか。あいつは法律の坩堝にぶち込んで、文学などとは縁を切らす」
そう言って父は母の尻をピシーンと鞭打った。
「ああー」
夫人の尻は鞭打たれた跡が赤く一条の線になって残った。
「お前は大蔵省と農水省の違いがわからんだろう。大蔵省と農水省は、殿様と乞食ほどの違いがあるんだ」
「あなたは、仕事のストレスを家庭で、家族に八つ当たりで発散しているんですわ」
「うるさい。妻は夫の言う事を聞いてりゃいいんだ」
この光景を少年は息を呑んで見つめた。
それ以来、少年は、父親に見つからないよう小説を書かなくてはならなくなった。書いた原稿も、見つからない所に隠さなくてはならなくなった。
聖セバスチャン。
ある日、それは風邪で学校を休んだ日だが、少年は、こっそり父親の書斎に入ってみた。早熟なこの少年は、父親が外国土産に買ってきた画集をどうしても見たかったのである。少年は戸棚の奥に一冊の画集を見つけた。少年は、本のカバーから画集を抜き取り、カバーの背表紙を元の位置に置いておいた。こうしておけば、まずわからない。さらに父親は、役所の仕事で、いつも帰りが遅い。もし万一、見つかったら、どんなに叱られるだろうと思うと、かえってそれがスリルになった。少年は、自室に画集をこっそり持ち込んで、心臓をドキドキさせながらページをめくっていった。絵は、ルネッサンスの裸婦の沐浴図などが多かった。それらは、ヨーロッパ中世のキリスト教の呪縛から逃れた人間の精神の自由の光を放っていたが、どれもみな今一つ少年を満足させるものはなかった。少年は退屈になって欠伸をした。つまらない画集だな、と思いつつ、少年は、一応全部見ておこうとページをめくった。すると、終わりにさしかかった、あるページをめくった時、激甚の感慨をもたらすほどの、刺激的な絵画が現われたのである。
それはキリスト教徒の聖セバスチャンの殉教図だった。若く逞しい体は裸にされ、腰に一枚の粗布をまとっただけで、両手は頭上で交差されて縛められ、背にしている木の枝に縛められていた。左の腋窩、と右の脇腹に矢が刺さっていたが、不思議なことに血は流れていない。青年は空を仰ぎ見ていたが、死んでいく者にしては、憂鬱や苦悩の翳りもない。天を仰ぐその顔には栄光と誇りがあった。それを描いた画家がサディストであろうことは容易に推測された。
二つの感情が同時に少年を襲った。それは、「彼を処刑したい」という、サディスティックな感情と、そして、それと同時に、「処刑されている彼になりたい」という狂おしいほど激しいマゾヒズムの感情の嵐だった。少年のペニスは、激しく勃起し出した。少年はズボンを脱ぎ、パンツも脱いだ。そして、どうしようもなくいきり立っているペニスを、なだめるように、そして興奮をさらに高めるように、ゆっくりと扱き出した。少年の興奮はだんだん激しくなっていった。おしっことは違う何か違う何ものが、体内から出ようとしているのを少年は感じた。それは今まで一度も経験したことのない甘美な何物かだった。少年は、さらに扱く度合いを強めていった。
「ああー。で、出るー」
少年は野獣のように叫んだ。ペニスから白濁液が激しく飛び出した。これが少年にとっての初めての自涜であり、それはその後、少年にとっての悪習となった。
ある日のことである。少年は、いつものように父の書斎の書棚からそっとセバスチャンの画集を取り出して部屋に持って行き、じっとセバスチャンの絵を見つめていた。だんだん少年の呼吸が荒くなっていった。少年は服の上から、勃起したペニスをさすり出した。
「公ちゃん」
少年はいきなり後ろからポンと肩を叩かれてあわてて振り返った。杉子がニヤリと笑いながら立っている。
「ああっ」
少年の顔は血の気が引いて真っ青になった。
「へへ。みーちゃった。公ちゃんてそういう趣味があったんだ」
少年は現行犯を見つけられた犯罪者のように、俯いて押し黙っていた。
「SなのかしらMなのかしら・・・。公ちゃんは大人しいからきっとMね。この絵のようにされたいんでしょう」
少年は黙ってうつむいている。
「じゃあ、いじめてあげるわ」
杉子は階下に下りて、物置から縄を持ってきた。
「さあ、着ているものを脱いで」
うつむいて震えている少年を杉子は勝ち誇ったように眺めていた。
「ふふふ。公ちゃんがお父さんの大切な画集をこっそり見てたって言っちゃおう。公ちゃんのお父さん、恐いからきっと怒るよー」
「ああっ。それだけはやめて!!」
黙っていた少年は叫び声を上げた。
地震、雷、火事、親父の中で少年にとって一番恐いものは親父だった。
「さあ。着ている物を脱いで」
杉子が命じたが、少年はうつむいたまま体を震わせながら黙っている。
「やれやれ。仕方ないわね」
そう言って杉子は少年は着ていた服を脱がしていった。シャツのボタンを上から外していった。シャツを脱がすと、Tシャツもすっぽりと頭から抜きとった。次に杉子は、ズボンのベルトを緩め、ズボンも抜きとった。そしてバスタオルを腰に巻いて、その中に手を入れてパンツも抜き取った。杉子は少年を座らせ、少年の手首を頭の上で交差させて縛って、その縄尻を鴨居に固定した。それはまさに殉教者セバスチャンの図だった。少年はうつむいて黙ってほんのり頬を紅潮させている。
「ふふ。やっぱり公ちゃんはMなんだ。あの絵の人のようにされたいんでしょ」
杉子はうつむいて黙っている少年の前で尖った鉛筆を二本とり出すと、
「ふふ。これは矢よ」
と言って左右から脇腹や腋窩や首筋をツンツンとつついた。
「ああっ」
少年は眉を寄せ、全身をプルプル震わせた。同時に腰を覆っている粗布の一部がムクムクと屹立しだした。それに気づいた杉子は、そっと粗布の上から固く屹立したそれを掴むと、ゆっくりしごき出した。少年は眉を寄せ、全身をガクガク震わせている。杉子は意地悪な目で少年の反応を観察しながら、粗布の上から隆起した物を扱きながら、片手で腋窩や脇腹を鉛筆でつついた。ついに少年は、
「ああー」
と、ひときわ大きな声を上げ大量の白濁液をほとばしらせた。
遊動円木。
学校のグラウンドの隅には、遊動円木があった。それは一メートルの間隔で打ち込まれた木の杭の列の上に、板が載せられているものだった。それは生徒達にとって、それは、おあつらえの遊びとして使われていた。二人の生徒が、双方から板の上に乗って近づき、手と手を合わせて相手を押し合って、相手を落とすのである。揺れる板の上でバランスをとりながら、相手を落とすには、バランス感覚と、相手を落とす腕力が要求されたが、腕力だけで押してくる相手を拍子抜けさせて、相手のバランスを崩させて落とすことも出来るので、必ずしも腕力の強い者が勝つとは限らなかった。だが、やはり力の強い者が圧倒的に強かった。遊びは、勝ち残りとして行われ、勝った生徒は、そのまま、遊動円木の上に立ったまま、次の挑戦者が来るのを待った。
ある昼休みのことである。
遊動円木の上では、Oが五人勝ちぬ抜いて、勇ましそうに腰に手を当て、周りを見回していた。Oはクラスでも一番力が強かった。
「ふん。弱虫ばっかりだな。もうかかってくるヤツはいないのか?」
Oは強がって言った。まだOと戦っていない周りの生徒は、そう言われても、やっても勝ち目がなさそうなので挑戦しようとはせず、遊動円木の上のОを仰ぎ見ていた。
その光景を見ているうちに、少年の中で理性が消え、ある激しい衝動が生まれていた。ぶざまに落ちて皆に最悪の言葉でののしられる光景である。それは、「死」の衝動に近かった。観客として見ていた少年の視線とОの視線が合った。
それをどうしても確かめずにはいられない認識を求める欲求が少年を行動へと突き動かしていた。知らず知らずのうちに少年は帽子をとり、夢遊病者のように宿命に向かって歩き出していた。少年は遊動円木にあぶなっかしげに乗り、ゆっくりと一歩ずつОに向かって歩き出した、この勝負は、もうほとんど結果が見えていた。少年は、幼少期を暗い祖母の部屋の中で正座したまま過ごし、外で走り回るということをしなかっため、歩き方に変なクセがついてしまった。内翻足とまではいかないが、足首の関節が不安定なため、踵から着地して、拇指球に体重を移すという、普通の歩き方と少し違っていた。足を交互にペタペタと地面につけた奇妙な歩き方だった。それはまるで、アヒルのような歩き方に見えた。
歩き方がおぼつかないため、生徒達は、彼のおかしな歩き方から、少年を、ばあさんアヒル、と呼んでいた。駆けっこも駄目、体格が貧弱で体力もなく、運動は全く駄目だった。
「やめとけ。やめとけ」
「お母様―」
「青ビョウタン」
見物していた生徒達は、侮蔑を目一杯込めて囃し立てた。
Оは意外な挑戦者の出現に驚いた。
「おっ。貴殿のおでましだよ」
「おれ、なんだか足がガクガクしてきたよ」
Оは、ふざけて言った。だが、少年は、見物している生徒達の嘲笑も、Оの揶揄も耳には入らなかった。少年の真剣な眼差しにОはたじろいで身構えた。二人の手と手が触れ合って、押し合った。Оが一瞬の隙をついて右手を強く押したが、少年のあまりの力のなさに、Оは、暖簾に腕押しとなり、バランスを崩した。二人はほとんど同時に遊動円木から転がり落ちた。
学校で少年は体育を除いて、学科は満点だった。これは生まれつきの秀才、という面も、もちろんあった。が、運動が出来ないことを学科の能力で見返してやろうという向上心もこれに拍車をかけた。この世の人間の少数に、怠けるということを忌み嫌う人間がいる。少年もその一人だったのである。さらに加うるに、人間はコトバでものを考える。数学の問題文とて、コトバである。少年は物心ついた時からコトバが玩具で、愛着の対象だった。少年は体を使う遊びを知らないため、言葉を玩具として遊んだ。人に命じられることなく英才教育を自らにほどこしていたようなものである。もうコトバを自在に使いこなせるようになった時、少年にとって、学校の勉強などママゴトに近かった。
杉子はその逆で体育はよく出来るが、学科はダメだった。特に数学がダメだった。
杉子の母親が公示の秀才ぶりを耳にして、どうか杉子の家庭教師になって、学科の勉強をみてやってほしい、お礼は致しますので、と、公示の家に頭を下げて頼みに来た。
「公示さん。行っておあげ」
と母親に言われ、少年は杉子の家に行った。驚いたことに本らしいものが一冊もない。この頃、少年は谷崎潤一郎にも傾倒していた。
「エッヘン」
と咳払いして、あたかも大学生のように杉子の傍らに、膝組みして座り、杉子に自習させ、自分は余裕綽々でリルケを読んだ。杉子は、わからない問題にぶつかったらしく、口唇を噛んで困惑している。しかし、今まで、さんざん、からかってきた、女のようなヤサ男に頭を下げるのは屈辱だった。
杉子が、わからない問題を飛ばそうとしたので少年はピシャリと、モノサシで少女の手をたたいた。
「こらっ。飛ばしちゃダメじゃないか」
少年は厳しく叱った。
「いたーい。叩かなくたっていいでしょ」
少年は少女がてこずっている問題を瞥見した。それは少年にとっては一秒で答えが見えるほどの簡単な問題だった。
「こんな問題も分らないのか。こんな問題も分らないで、よく進級できたな。きっとズルしたんだろ」
言い返せない少女に少年は続けて言った。
「教育はきびしきをもって尊し。谷崎さんも、春琴抄で、教育に打擲をもってよし、としている。世人が尊敬する文豪の考えが間違っている、というのかね?」
少女は反論できなかった。少女は学問がわからないことの責を自分にもつ良心は持っていた。少女にとって、学問とは、お化けより難解で、こわい、得体の知れぬ怪物だった。そして、その学問がわかる生徒というものも、天か黄泉の国の使者のように恐ろしく見えて、その言に従わなくてはならない、という気持ちが起こるのだった。
「ほら。とっとと考えろ」
と言って、少年は、困っている少女の手や腿をピシピシ叩いた。そんな事をすればよけい集中できなくなると、わかっていながら、少年は表向き、教育のための愛の鞭撻のように装った。
少女は耐えきれず、
「いたーい。そんなに叩かれたら集中できないじゃない」
と言った。
「ふん。じゃあ、叩かないでやるよ。そのかわり、ちゃんと解けよ」
と言ってリルケの詩集に目を戻した。少女はベソをかいて、解けない問題の前で立ち往生している。
「ほら。どうした。叩かなければ集中できて解けるんだろ」
少女はわっと泣き出して少年の前にひれ伏した。
「おねがい。公示君。おしえて」
と言って、少女は泣き出した。少年はりんと目を輝かせて、
「ふん。じゃあ、教えてやるよ。その代わり、今まで怠けていたバツをうけるんだ」
と言って、ドンと少女を突き飛ばした。少女は少年が相撲でからかわれた、仕返しだとも思っていた。すべてを信じるほど無邪気ではない。そもそも、遊びとは、からからあい、であり、それは少女の方がくわしい。しかし少女は、優等生の少年ににらまれると、その背後に多くの天才学者や偉人が幻のように見えてきて、竦んでしまうのだった。
少年に突き飛ばされながら少女は風呂場についた。
「ほら。服を脱いでパンティー一枚になるんだ」
「な、何をするの?」
少女は、脅えた目で少年を見た。
「いいからなるんだ」
少年に厳しい口調で言われ、少女は竦んでしまって、震える手でホックを外し、ブラウスとスカートを脱ぎ、パンティー一枚になった。
「ほら。こっちへ来るんだ」
と言って、惨めにうつむいている少女を風呂場の中へドンと突き飛ばした。
「そこへ座れ」
と言われて、少女は簀子の上に正座した。少年がシャワーの栓をひねると、冷たい水が下着一枚の少女の体に豪雨のように降りかかった。
「つ、冷たいー」
少女は両手を胸の前で交差させてギュッと握りしめ、ブルブルと全身を震わせながら、冷たさに耐えた。
外は雨である。止むことなく少女の体を伝わって滴り落ちる水滴はその激しい量と音のため、少女の涙も泣き声もかき消してしまっている。少年は脱衣場で、どこ降る水と、膝組みをしてリルケに読み耽り、少女に一瞥も与えない。全身に鳥肌を立たせ、体を震わせながら正座していた少女は、わっと泣き出して簀子に頭をつけるようにひれ伏した。
「公示君。ゴメンなさい。公示君が体が弱いのをいいことにからかったこと、心から謝ります。だ、だから、もう、ゆ、ゆるして」
と言って少女は簀子の上でわんわん泣いている。少年は、しおりを本に挟んで傍らに置くと立ち上がって、シャワーの栓を止めた。
「ほら。寒かっただろ。ふけよ」
と言って少年は少女にバスタオルを渡した。少女は泣き濡れた目を上げている。
「あ、ありがとう」
と言って、体を拭いて、クシュン、クシュン言いながら服を着た。
「公示君。問題教えてくれる?」
少女は、すがるような目で少年を見た。
少年は黙って、杉子を元の部屋に連れて行った。
「ほら。この点に線を引くんだ。そうすれば図形が三等分されるだろう」
そう言って公示は、ノートの図形に線を引いた。
「あ、ありがとう」
クシュンと、くしゃみをしながら杉子は教えてもらった礼を言った。
このような手痛い仕打ちを受けて杉子はもう公示をからかう気力も失せてしまった。それと入れ替わるように杉子の心に、憧れ、が起こり始めていた。価値観の逆転が起こった。それまで杉子は力強い肉体の強さが男らしさの美しさだと思っていた。スポーツ選手が杉子の憧れだった。それが今まで目もかけなかったペタペタ、歩き方もアヒルのようにおぼつかないで、いつも小脇に本をかかえて何やら文学ばかりに熱中しているひ弱な秀才の少年が何か得体の知れない逞しさを持っている魅力的な男の子に見え始めたのである。
「公ちゃん。遊びにきたよ」
そう言って、杉子は公示の部屋に入った。
「へへ。また数学で分からないところがあるから教えてもらおうと思って」
杉子が部屋に入ると、少年は薄暗い部屋の中でポタポタ涙を流しながら置手紙らしきものを悄然とした表情で読んでいた。
「どうしたの。公ちゃん」
と言っても少年の心に少女は存在しなかった。肩越しに覗き込んで見るとそれは父からの厳しい忠告の置き手紙だった。
「学業に専念しろ。小説などというくだらないものにうつつを抜かすな。小説などというくだらないものにふけって人生を無駄にするな。見つけた小説は処分した。以後二度と小説などにふけらず学業に専念すること。父」
「ひどーい。公ちゃん、勉強もちゃんとやってるのに。クラスで一番の成績なのに」
杉子は、以前、少年の書いた小説を見せてもらったことがあった。が、何か難しくて全然分からなかった。が、分からないからきっと優れたものなのだろうと思った。見せてもらったときは公示は無表情な顔だったが、取り上げられ、捨てられて涙をポロポロ流している姿を見て、杉子は初めて少年の自分の作品に対する思い入れの度合いの大きさに気づいた。
「どうしてクラスで一番なのにまだ叱るのかしら」
「お父さんは僕が東大を優秀な成績で卒業して大蔵省のお役人にならなければ気がすまないんだ」
「きっとまだ何処かにあるわ」
と言って杉子は父親のゴミ箱から、破かれた原稿を持ってきた。
「あったよ。公ちゃん」
と言って、ちぎれた原稿を丁寧に引き伸ばし、
「セロテープでくっつければ元通りになるわよ。エート」
と言って杉子は原稿の破れ具合から、ジグソーバズルのように原稿をつなぎ合わせ始めた。
「公ちゃんも手伝ってよ」
と言って二人で原稿を貼り合わせた。
ルンルン顔の杉子に、
「僕は将来、矛の会という武器を持たない兵隊のようなサークルを作って、そのリーダーになろうと思っているんだ。でも今は僕がそんなことを言っても聞いてくれる友達はいない。だから将来の予行演習で、小矛の会というのを作る。僕がリーダーで会員は今のところお前一人だ」
「矛の会ってどんなことをするの?」
「自衛隊に体験入隊したり、武道の訓練をしたりして肉体と精神を鍛え、有事の際には身を呈して国を守る会だ」
「ステキ。公ちゃんて青白い文学青年オンリーなのかと思ってたけど文武両道を目指す逞しい心を持っているのね」
「私会員になる」
「矛の会の訓練は厳しいぞ。つらい訓練を己に課して徹底的に己を鍛えるんだ。泣き言は許されないぞ。リーダーの命令にも絶対服従だ」
少年は立ち上がって皇居に向かって柏手を打った。杉子もそれに従った。
「ひとつ。われらは身を挺し、邪神姦鬼を払わん」
「ひとつ。われらは莫逆の交わりをなし、同志相助けて国難に赴かん」
「ひとつ。われらは権力をねがわず立身をかえりみず、万死以て維新の礎とならん」
数日後のことである。公示と一緒に歩いていた杉子は、片足を引きずって歩いている弱々しい野良猫を見つけた。怪我をしたのであろう。
「かわいそう」
杉子が近づいて猫を撫でると猫は弱々しく二ャーと泣いた。杉子は鞄の中から、煮干を出して猫に与えた。猫はそれをモソモソと食べた。この猫は猫にありがちな恩知らずの、贅沢な猫ではなく、むしろ犬のように忠実だった。
「可愛そうね。どうしたらいいかしら。公ちゃん」
と聞いた。杉子は公示が大の猫好きである事を知っていた。それで公示も一緒に猫をどうするか考えてくれると思った。が、公示は知的にして、冷たい目で杉子にこんな事を淡々とした口調で命じた。
「殺すんだ。そこに角材がある。から、それで叩きつけて殺せ」
杉子は吃驚した。杉子はその理由を考えてみたが、わからなかった。で、もう長くはないだろうから、苦しませず、安楽に死なせてやろうという事だと思った。それ以外に理由が、考えつかない。が、公示が次に言ったコトバに杉子はわけがわからなくなった。
「角材でたたきつけて殺してから、鋏みで皮を剥ぐんだ」
「ど、どうして。どうしてそんなことをするの?」
公示はそれには答えなかった。杉子がためらってモジモジしていると、公示は自分でそれを行った。猫を何度も角材で叩きつけた。その度に猫は、フニャーン、フニャーンと鳴きながら、ついに息絶えた。はたしてこれが安楽な殺し方だろうか。残酷以外の何物でもないのではないか。動物愛護協会の人に知れたら張り倒されるのではないかと思った。公示は猫の皮を鋏みでジョキジョキ切りだした。猫の皮剥ぎが行われた。その間、公示の目は冷静そのものだった。惨たらしくバラバラにされた猫を前にすっくと立ち上がった。
「今日は僕がやったが、今度、野良猫に会ったらお前がやるんだ。僕のやった事と同じことを」
杉子はバラバラになった猫の死骸を集めて、土に埋めてお墓をつくった。
「ゴメンね。猫ちゃん。安らかに眠ってね」
と冥福を祈った。そして、
「どうか化け猫にならないでね」
と付け加えた。
ある時、書店で見つけた大宰の本を立ち読みしているうちに、どうしようみない憎悪が少年をおそった。その自己劇化、弱さの直接の安直な告白。それによる世間の同情を求めて理解者を求めようとする狡猾さ。
少年は、作者に会いたい旨の手紙を送った。すぐに了解の手紙が返ってきた。
数日後、少年は大宰氏を訪ねた。そこは、うなぎ屋の二階だった。大宰の崇拝者達と円座の中に作者はいた。
「やあ、よく来てくれたね」
大宰氏は用意してあった色紙に「生まれてすみません」と書いて、少年にニコニコ笑いながら、少年に手渡した。だが、色紙を受け取ると少年はベリッと色紙を引き裂いた。
「大宰さん。僕はあなたが嫌いです。あなたの苦悩なんて乾布摩擦や規則正しい生活をすれば治ってしまう」
少年は大宰氏を睨みつけて言った。
「なんだ。オレのファンかと思ったら、オレを批判しに来たのか」
「へっ。なに言ってやがるんだ。青二才が」
「嫌いなら読むなよ」
大宰氏は、うってかわって少年を罵倒した。
少年は、つかつかと大宰氏の前に来ると、いきなり、大宰氏の顎を蹴っ飛ばした。そして倒れた大宰氏を足で滅茶苦茶に蹴飛ばした。取り巻きがあわてて少年を取り押さえた。
「やめろ。小僧。先生になんてことをするんだ」
「謝れ」
少年は取り押さえながらも、大宰氏をにらみつけている。大宰氏の顔が弱々しく崩れだした。少年がにらみつけているので、ついに大宰氏は泣き出した。
「うわーん。こんな子供にまでオレは軽蔑されている。やっぱりオレは生まれてくるべきじゃなかったんだ」
取り巻きは言った。
「やい。小僧。先生は心を痛められたじゃないか。謝れ」
だが、少年は、豹のような猛々しい目つきで大宰氏をにらみつけている。
「いいよ。力づくで謝らせても、僕を憎むこの子の心の目までは変えられないんだ。やっぱり僕は人間不合格なんだ」
大宰氏はメソメソした口調で言った。
「そうです。あなたは不合格人間です。でも、それでいいじゃないですか。あなたは、その苦悩とやらを作品にしたてる才能があるんだから。今日の体験をも、せいぜい立派な作品に仕立て上げればいい」
「そ、そうだね。そうするよ。ありがとう」
涙顔の大宰氏をあとに、少年は去って行った。
大宰氏の「人間不合格」がベストセラーになったのは、それから数ヶ月後のことである。そして、その数日後に、大宰氏は、玉川上水に、女と入水して死んだ。
数日後のことである。公示と杉子は、一緒に外を歩いていた。
二人の前にネコが昼寝していた。その身をくねらせる様子がえもいわれぬ程可愛らしかった。だが杉子はブルッと身震いした。ネコはあたかも二人におもねるように、二人が近づくと、ゴロンと寝転んで小さな声で、二ャーと鳴いた。このネコは「我輩はネコである」のネコより可愛かった。もっとも、「我輩はネコである」のネコは、かわいいのかどうか、それは、わからない。公示はピタリと足を止めた。そうして、杉子に向に目を向けた。杉子は青ざめた顔をしている。公示は冷ややかな怜悧な目をしていた。公示はポケットからナイフをとり出して、震えている杉子に渡した。
「やれ」
杉子は、手渡されたナイフを落として座り込んで泣き出した。恥も外聞もなく。この「やれ」という命令は、ナイフで猫を殺せ。という意味である。殺した後、猫の皮を剥ぐ事まで命令には含まれていた。杉子はなぜ、意味もなく、そんな残酷な事をしなくてはならないのか、全く解らなかった。お小遣いのため、猫の皮を三味線つくりの職人に高値で売る、というのだろうか。しかし、剥いだ皮を売るわけではない。杉子はこの残酷な行為の理由を、この頃、野良猫が増えすぎて、家々のゴミをあさるので世間が困っているため、心を鬼にして、野良猫処分を、「国難に赴かん」という思想として実行しようというのが、公示の思いついた理由だと思った。杉子はペタリと座り込んだまま、ワンワン泣いた。だが矛の会の血書の誓いは絶対であり、杉子はしばし、公示の顔と猫とを、せわしく交互に見ていたが、パッと飛び出して、気持ちよさそうに仰向けに無防備に寝ている猫をヒシッと力強く抱きしめた。猫は激しく抱擁されて二ャーと泣いた。杉子は嗚咽しながら、背後の公示に激しく訴えた。
「こ、公ちゃん。確かに野良猫が増えているのは国難かもしれないわ。公ちゃんは心を鬼にして「国難に赴かん」を実行しているのね。で、でも私、こ、こんな可愛い猫、殺す事なんてどうしても出来ないわ。ね、猫だって感情があるのよ。生きたい。死にたくない。という感情の強さは人間とかわりがないわ。どうしても猫を殺すというのなら、わ、私を殺して」
杉子は泣きながら訴えた。
彼女は、「猫殺し」は、もしかすると、「野良猫を街から減らそう」という理由ではなく、公示の、わけのわからない思想なのかもしれない、とも思っていた。杉子は、公示がわけのわからない人間だという事は十分わかっていた。もしかすると、猫の代わりに本当に殺されるかもしれないという恐怖を背中に感じながら、ひしっと猫を抱きしめていた。しばしして、恐る恐る振り返ると、公示の姿はなかった。
杉子は、ほっとして、
「よかったわね。猫ちゃん」
と言って、猫の頭を撫でた。
ある時、杉子が公示の家に遊びに行くと公示はいなかった。杉子は公示の部屋に入って公示が来るのを待った。なかなか来ないので、杉子は、机の上に乗っている書きかけの原稿を読んでみた。題は、「能面の告白」と書かれてある。それは公示の性欲に関する自伝のような小説だった。読むうちに杉子は、驚いた。特に杉子を驚かせたのは、公示の夢想の部分である。それには、こんなことが書かれてあった。
「・・・次第に刺激は強められ、人間が達する最悪のものと思われる一つの空想に到達した。この空想の犠牲者は、私の同級生Bで、水泳の巧みな、際立って体格の良い少年だった。そこは地下室だった。純白なテーブル・クロオスには典雅な燭台が輝き、銀製のナイフやフォークが皿の左右に並べられていた。お定まりのカーネーションの盛花もあった。ただ妙なことには食卓の中央の余白が広すぎるのだった。Bがやって来た。私が食事を一緒にしようと誘ったのである。「やあ。B。よく来たね」私は何気なく呼びかけた。彼はポケットへ両手をつっこんだまま私にむかっていたずらそうに笑ってみせた。一瞬の隙をついて私は後ろから飛びかかかって少年の首を絞めた。少年は激しく抵抗した。が私は首を絞めつづけた。少年は、ややあって気絶した。私は事務的な手つきで少年のポロシャツを脱がし、腕時計を外し、ズボンを脱がし、みるみる丸裸にしてしまった。「よっこらしょ」私は気を失っている少年を皿に仰向けに寝かせた。私は口笛を吹きながら細引きを両側から皿の小穴に通して少年の体をぎりぎり縛りつけた。私は大きなサラダの葉を裸体のぐるりに美しく並べた。私は心臓にフォークを突き立てた。血の噴水が私の顔にまともにあたった。私は右手のナイフで胸の肉をそろそろ、まず薄く、切り出した。溢れ出た大量の血は後で飲むため甘味をつけて缶詰にした。・・・」
杉子は背筋がぞっとした。
『公ちゃんて、ロマンチックな性格だと思ったら、こんな恐ろしいことを考えていたのね』
その時、公示がやってきた。
「やあ。杉子。よく来たね」
公示に後ろから声をかけられて杉子は振り返った。
「こ、公ちゃん。わ、私も、食卓の上に乗せて、ナイフで体を切り開いてスパイスをかけて食べて、血はジュースの缶詰にするの?」
広示は黙ってポケットからナイフを取り出して、じっと見つめ出した。いつも小説を書いているこの少年は、ストーリーに行き詰った時、吝嗇な父親から貰ったドイツ製のナイフで鉛筆を削って尖らすのが癖になっていた。その癖は鉛筆を削ることから、ナイフをじっと見つめる事に変っていった。
「わ、私、そんなにおいしくないわよ。に、肉も硬いし・・・」
杉子はたじろいで一歩後ずさりした。
「しないよ。オレは女には興味がないんだ」
杉子はしばし頭を捻って考え込んだ。
「わかった。公ちゃんは学校でいじめられたから、いじめた人に、想像で仕返ししてるのね」
「違うよ。僕は愛し方を知らないから誤って殺してしまうんだ」
「愛し方を知らなくても殺さなくてもいいじゃない」
「君に説明してもわからないだろうけど、僕にとっては愛する人を殺すことが愛することなんだ」
杉子は黙ってしまった。わけがわからなかったからである。
「何でこういう、恐ろしいことを書くの。これは密かな日記として書いていて、人には見せないんでしょう」
「いや。見せるよ。これは僕の全てをさらけ出す長編の自伝小説にするんだ」
「でも、こんなこと書いたら、人から気味悪がられるわよ」
「そうかもしれないね。でも僕は、これに賭けているんだ。もしかすると、僕はこの作品によって文壇的地位を確立できるかもしれないと思ってるんだ」
「か、確立できるといいわね」
杉子は、この会話中、ずっと犯罪者に脅えるような引け腰の様子だった。
学習院では、その頃、ある禍々しい事が問題になっていた。それは、皇室の加子内親王があまりにも可愛いというので、彼女を盗撮し、それをミクシィで売って儲けてるものがいるという事件である。加子内親王は今上天皇の孫娘であり、将来は女性天皇になることが、ほとんど決まっていた。公示はそれを聞いて非常な憤りを感じた。
「こともあろうに将来の陛下を隠し撮りし、さらにはミクシィで儲けるとは、何たる不敬なことだ」
公示は烈火のような憤りで固く握りしめた拳をブルブル振るわせた。
ある時、公示がトイレに入っていると、ガヤガヤと男子生徒たちがやって来た。
「ふふ。また儲けたぜ。写真一枚、1万円で売れた。こんないい商売はない。今度は着替えているところを盗撮しよう。もしかすると10万で売れるかもしれないな」
公示は自分が気づかれないよう半分、出かかっていたウンコを必死で踏ん張って止めた。出してしまったらば、ポチャンとウンコが便器に当たる音で気づかれてしまう。
「ふふ。そうだな」
仲間が相槌を打った。声の主は日本の政治家で大資本家の蔵原武介の息子の蔵原太郎だった。蔵原は、成績が悪いが、父親が財界、政界に絶大なつながりを持っている。それで将来は父親の秘書になり、いずれは父親の跡を継ぐと自慢していた。企業の便宜をはかる見返りに、賄賂をたっぷり受け取れ、定年後は、口利きしてやった会社に天下り渡り鳥で就職できる。こんな楽で儲かる人生はないと、自慢げに言っていた。
「あいつだったのか」
公示はウンコを出しきった。ポチャンとウンコが便器に当たって音がした。トイレを出ると、去っていく蔵原の後姿を憎しみを持って見た。
その後、公示は蔵原をつけるようになった。
ある日の体育の授業の時、女子更衣室でワイワイと女生徒が賑やかに話していた。
「加子。この前のフィギアスケート大会、すごく上手かったわよ」
「ダメよ。私なんてどんなに頑張ってもジャンプは一回転しか出来ないもん。麻田真央ちゃんは、三回転半も出来ちゃうんだから。私とは天と地との差だわ」
「じゃあ、加子。先に行っているわ」
女生徒たちは、更衣室を出て行った。更衣室は加子内親王に一人になった。
「それ。今だ」
隠れていた蔵原とその仲間が、加子内親王の着替えを盗撮しようと、急いで更衣室の前に行ってデジカメを取り出した。加子内親王は、ちょうどスカートを脱ぎ始めたところだった。蔵原は、人がいないことを確認するため、後ろを振り返った。
すると一人の少年が、つかつかと蔵原に向かって後ろから歩み寄ってきた。
「平岩か。何の用だ」
人が教師でなく、青白い生徒の平岩であったことが、蔵原を安心させたのだろう。余裕の口調だった。少年は、いきなり制服の中に隠し持っていた短刀を取り出した。
「蔵原太郎。不敬の神罰を受けろ」
そう言って少年は蔵原に斬りかかった。だがなにぶん、少年は運動神経が鈍い。蔵原は咄嗟にサッと身をかわした。
「こいつ。なんて事をするんだ」
少年は蔵原の取り巻き三人に取り押さえられた。大声を聞きつけて、加子内親王が更衣室から顔を出した。
「蔵原君。あなただったのね。私の写真を撮ってミクシィに出しているというのは」
デジカメを持っている蔵原を見て加子内親王は言った。
結局、その事件は学校に知られることになった。公示は教員室に連れて行かれた。先生に聞かれて公示は、ありのままの理由を話した。公示は、すぐに警察署に連れていかれた。
警察署に連れて行かれた公示は、取調室に入れられた。取り調べの机と椅子だけの狭い部屋だった。しばらくして取調べの警部補が入ってきた。
警部補は、公示と机をはさんで向き合って座った。
「事情は聞いたよ」
警部補は穏当な口調で言った。
「君らのような国士がいてこそ、日本の未来は安心なんだよ。もちろん法を犯したのは悪いが、われわれにも君らの一片耿々の赤心はわかるつもりだよ」
公示は毅然とした態度で黙って警部補を見た。
「どうだ。お前も剣道三段だそうだが、こんなことをやらずに剣道に専念しておれば、あの道場で、俺と愉快にお手合わせもできたじゃないか」
その時、気合のような、裂帛の叫びが聞こえてきた。公示は、はじめそれを、剣道の練習だと思った。だが、よく聞いていると、どうも様子が違う。叫び声でも、それは、気合というより悲鳴だった。ここは警察である。公示はそれが、拷問されている人間の悲鳴であることに気がついた。公示はサッと顔色を変えて警部補を見た。
「そうだ。アカだよ。しぶとい奴はああいう目にあうんだ」
「私を拷問して下さい。今すぐ拷問して下さい。どうして私はそうして貰えないんですか。どういう理由で」
「まあ、落着け。落着け。莫迦なことを言うもんじゃない。理由は簡単だよ。お前は手こずらさないからだ」
「それは私の思想が右だからですか」
「それも多少あるが、右だろうと左だろうが、手こずらせれば、痛い目に会ってもらうほかはないよ、しかし、何と云ってもアカの連中は」
「アカは国体を否定しているからですか」
「その通りだ。それに比べれば、平岩、お前らは国士で、思想の方向はまちがっていない。ただ若くて、純粋すぎて、過激になったのがいかんのだ。方向はいい。だから手段をだな、もっと漸進的というか、一寸、ゆるめて、やわらげて行けばいいんだ」
「一寸やわらげれば別物になってしまいます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、一寸ゆるめるということはありえません。ほんの一寸やわらげれば、それは全然別の思想になり、もはや私の思想ではなくなるのです。ですから、薄めることのできない思想自体が、そのままの形でお国に有害なら、あいつらの思想と有害な点では同じですから、私を拷問して下さい。そうしない理由はないじゃありませんか」
「なかなか理屈を言うね。まあ、そう昂奮せぬものだ。一つだけ知っていてよいことがある。アカの連中には、ただ一人として、お前のように自ら拷問を願い出た者はいないということだ。やつらは皆受身なんだよ」
一週間後、平岩の第一回目の公判が行われた。
被告人、弁護人の冒頭陳述が行われた。公示は毅然として、自分の憂国の思いを述べた。だか裁判長は、公示の陳述が、精神論的すぎて、何を考えているのか、よくわからないといった顔つきだった。
裁判長。「つまりだな。なぜ志だけではいかんのだ。憂国の志だけではいかんのだ。その上、決行などという違法の行為を目ざさせねばならんのだ。そこのところを申してみよ」
平岩。「はい。陽明学の知行合一と申しますが、「知って行わざるは、ただこれ未だ知らざるなり」という哲理を実践しようとしたものであります。現下、日本の頽廃を知り、日本の未来を閉ざす暗雲を知り、農村の疲弊と貧民階級の苦痛を知り、これがことごとく政治の腐敗と、その腐敗をおのれの利としている財閥階級の非国民的性格にあると知り、おそれ多くも上御一人の御仁慈の光を遮る根がここにあると知れば、「知って行う」べきことはおのずから明白になると思います」
裁判長。「それほど抽象的でなくだな、多少、長くなってもよいから、お前がどう感じ、どう憤り、どう決意したか、という経過を述べてみよ」
平岩。「はい。私は少年時代には文学に専念していたのでありますが、だんだん文学というものに、いいしれぬあきたりなさを感じるようになってまいりました。しかし、自分がどういう行動をすべきだ、という風には考えが固まっておらなかったのであります。
日本の安全は危うくなったと学校でも教わりまして、日本をおおう暗雲は只事ではないと思い、それから先生や先輩から時局の話を伺ったり、自分でもいろいろ読書をするようになりました。
だんだん社会問題に目がひらけ、世界恐慌から引きつづいている慢性の不況と、政治家の無為無策におどろくようになったのであります。
二百万におよぶ失業者の群れは、それまで出稼ぎをして仕送りをしていたのが、今度は帰村して農村の窮乏をいやましにすることになりました。
これらの窮状をよそに、政治は腐敗の一路を辿り、財界はドル買いなどの亡国的行為によって巨富を積み、国民の塗炭の苦しみにそっぽを向いております。いろいろ読書や研究をしました結果、現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私欲のために操っている財閥の首脳に責任があると、深く考えるようになりました。
しかし、私は決して左翼運動に加わろうとは思いませんでした。左翼は畏れ多くも陛下に敵対し奉ろうとする思想であります。古来日本は、すめらみことをあがめ奉り、陛下を日本人という一大家族の家長に戴いて相和してきた国柄であり、ここにこそ皇国の真姿があり、天壌無窮の国体があることは申すまでもありません。
では、このように荒廃し、民は餓えに泣く日本とは、いかなる日本でありましょうか。天皇陛下がおいでになるのに、かくまで澆季末世になったのは何故でありましょうか。君側に侍する高位高官も、東北の寒村で餓えに泣く農民も、天皇の赤子たることには何ら渝りがないというのが、すめらみくにの世界に誇るべき特色ではないでしょうか。陛下の大御心によって、必ず窮乏の民も救われる日が来るというのが、私のかつての確信でありました。日本および日本人は、今やや道に外れているだけだ。時いたれば、大和心にめざめて、忠良なる臣民として、挙国一致、皇国を本来の姿に戻すことができる、というのが、私のかつての希望でありました。天日をおおう暗雲も、いつか吹き払われて、晴れやかな明るい日本が来る筈だ、と信じておりました。
が、それはいつまで待っても来ません。待てば待つほど、暗雲は濃くなるばかりです。そのころのことです。私が或る本を読んで啓示に打たれたように感じたのは。
それこそ山尾綱紀先生の「神風連史話」であります。これを読んでのちの私は、以前の私とは別人のようになりました。今までのような、ただ座して待つだけの態度は、忠誠の士のとるべき態度ではないと知ったのです。私はそれまで、「必死の忠」ということがわかっていなかったのです。忠義の焔が心に点火された以上、必ず死なねばならぬという消息がわからなかったのです。
あそこに太陽が輝いています。ここからは見えませんが、身のまわりの澱んだ灰色の光りも、太陽に源していることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いている筈です。その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に身に浴びれば、民草は歓声の声をあげ、荒蕪の地は忽ち潤うて、豊葦原瑞穂国の昔にかえることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおおうて、その光を遮っています。天と地はむざんに分け隔てられ、会えば忽ち笑み交わして相擁する筈の天と地とは、お互いの悲しみの顔をさえ相見ることができません。地をおおう民草の嗟嘆の声も、天の耳に届くことがありません。叫んでも無駄、訴えても無駄なのです。もしその声が耳に届けば、天は小指一つ動かすだけで、その暗雲を払い、荒れた沼地をかがやく田園に変えることができるのです。
誰が天へ告げに行くのか?誰が使者の大役を身に引受けて、死を以って天へ昇るのか?それが神風連の志士たちの信じた宇気比であると私は解しました。
天と地は、ただ座視していては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を賭さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。それによって低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
もちろん大ぜいの人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天に昇るということも考えました。が、そうしなくてもよいということが次第にわかりました。神風連の志士たちは、日本刀だけで近代的な歩兵営に斬り込んだのです。雲のもっとも暗いところ、汚れた色のもっとも色濃く群がり集まった一点を狙えばよいのです。力をつくして、そこに穴をうがち、身一つで天に昇ればよいのです。
私は人を殺すということは考えませんでした。ただ、日本を毒している凶々しい精神を討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとうている肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。そうしてやることによって、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還って、私共と一緒に天へ昇るでしょう。その代わり、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちにいさぎよく腹を切って、死ななければ間に合わない。なぜなら、一刻も早く肉体を捨てなければ、魂の、天への火急のお使いの任務が果たせぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添わんとすることだと思います。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ入るのです。
以上が、私が考えたことのすべてであります」
勲の陳述が進むにつれ、そのしみの散った老いた白い頬が、次第次第に、少年のように紅潮してきた。勲が語り終わって、椅子に腰を下ろすと、久松裁判長はいそがしく書類をめくったが、これは感動を隠すための無意味な仕草であることは明らかだった。
一ヵ月後、第一審の判決が下った。判決主文は、
「被告人に対する刑を免除する」
というものであった。
刑法第二百一条殺人予備罪の但書きの、
「但情状に因り其の刑を免除することを得」
という条項が活きたのだった。
平岩は、その動機が純粋であることから保釈された。学校は一週間の謹慎処分となった。一週間して謹慎処分が解けると、もうこんなことは二度としないようにと厳しく先生に注意された。
しかし、その一ヶ月後、神道系の新聞にこんな記事が載ったのである。それは、蔵原武助が、関西銀行協会の会合で三重県に行った時、伊勢神宮内宮を参拝した時の態度である。蔵原は、参拝の前日、好物の松坂肉をたらふく食べ大酒した。翌日の参拝では、二日酔いのまま、祝詞の最中にも、背中が痒くなって、玉串を孫の手にして背中を掻いた。そして、宛がわれた床机の上に玉串を置いて、その上にお尻を乗せて座ったのである。
神官達は怒りを激しい感じ、そのことを皇道新聞に書いたのである。この憤りは公示にそのまま伝わった。
「何たる不敬なやつだ」
陛下を穀物神と信じている公示は、その態度が許せなかった。
その年の暮れになった。年末年始、蔵原は、熱海の伊豆山の別荘で過ごすのが習慣になっていた。公示は短刀を懐に忍ばせて、電車で熱海へ行き、伊豆山の蔵原の別荘へ向かった。周りの蜜柑畑に潜んで日が暮れるのを待った。日が暮れて、真夜中になった。決行の時が来たと公示は思った。
公示は、用意しておいた、七生報国と書いた血書の日の丸の鉢巻を頭に巻いた。
公示は、別荘に忍び込んだ。蔵原の寝室のドアのノブを回して、部屋に入った。見知らぬ人間の闖入に気づくと蔵原は驚いて立ち上がった。
「何者だ。何をしに来た」
蔵原は、身に危険を感じて後ずさりしながら叫んだ。
「蔵原武助。伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」
公示は、猫のように背を丸め、右肘をしっかり脇腹につけ、短刀の柄を腰に当てて、蔵原に向かって体当たりした。短刀は蔵原の腹に刺さって、血が噴き出した。
公示は身をひるがえして屋敷を出て、海に向かった。走りに走った。蔵原の悲鳴と大きな足音で、おそるべき事態に気づいた蔵原家の者が急いで警察に通報したのだろう。パトカーのサイレンの音が鳴り響いた。
公示は、暗黒の穏やかな潮騒だけが引いては寄せる海を臨む断崖に、息を切らしながら正座した。そして学生服を脱ぎ、シャツも脱いで上半身、裸になった。行動の後にはすぐに死ななくてはならない。公示は、蔵原を刺した短刀を腹の前に握りしめた。
「日の出には遠い。それまで待つことは出来ない。昇る日輪はなく、けだかい松の木陰もなく、輝く海もない」
短刀の刃先を腹へ押しあて、左手の指先さきで位置を定め、右腕に力を込めて、力のかぎり突き刺した。
正に刀を腹へ突き立てた時、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。
平成23年6月17日(金)
参考文献=「仮面の告白」「奔馬」(三島由紀夫)。「倅・三島由紀夫」(平岡梓)
ラストの一部に、「奔馬」より引用。
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