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人生のシナリオ
「会社を辞めようと思います」
向かいに座る課長、その隣に部長、そして私。
各々の呼吸が止まるくらいの静けさの中で、私はそう答えた。
目の前に差し出された「勤務ルール違反に伴う措置に関して」の紙切れが一枚。
<お伝えすること>
・今回の半休中無許可での外出、勤務実施に伴い、総務人事とも協議の上、以下の措置を取ります。
・在宅勤務、フレックス勤務の適応取り消し。
・これを踏まえ勤怠システムの処理を進めてください。
その際、自己管理に課題があったことが分かる内容を記載してください。
<総務との面談>
・総務より面談の打診があります。
準備でき次第改めてご連絡いたします。
「今回の出来事は私の不徳の致すところです。
これを反省し、勤務を継続し続けることが最善かもしれません。
ですが、今年に入ってから義父母が入院し、退院後の経過観察が必要な段階に入ってきています。
今までは在宅勤務がてら、様子を見守ることもできましたが、適応取り消しとなると、それができなくなります。
現在、義父母は相互で補いあっていますが、高齢になってきていることもあり、何かあった時のために、息子の妻である私が介護者として近くにいることは大事なんじゃないか、と思うようになりました。
今回の取り消しは、そのきっかけになったような気がします。」
静けさの中で、部長が口を開いた。
「総務側があなたと面談をしたいと言ってきています。それには応じてもらえますか。」
「わかりました」と答え、三者面談は終了した。
「取り消しになってしまったことが、そんなにショックだったの?それで辞めようと思ってしまったの?」
私よりも年下の女性課長は、そう尋ねた。
「家のこと、家族のこと、考え始めたらキリがありません。私はその中でずっと働き続けてきました。会社に貢献してきたと思っていた自負が、今回裏目に出てしまい、意欲がなくなってしまったのかもしれません。」
「何の力にもなれなくてごめんなさいね」と、彼女は謝った。
私は会社員を卒業し、専業主婦となった。
会社やハローワーク上での手続きに必要となる退職理由の欄を確認すると、「介護・看護」と書かれていた。
「看護」も含まれるのか。
その時は何気なくそう思った。
ところが、退職してから約2か月後、主人が階段を踏み外し、足首を複雑骨折。
入院、手術、通院生活を余儀なくされることになってしまった。
「まさか・・・」
あの時何気なく目に入った「看護」という言葉が自分の身にふりかかるとは。
しかも、退職後直ぐに義父が踵を骨折し、通院補助や買い物などの「介護」をしていたばかりだった。
ようやく治ってきたと思ったら、今度は主人がケガをするとは。
退職理由は、半分本当で半分は偽りのようなものだった。
当時、本音は「まだ働ける」という思いはあった。
今までだって家族や自分を犠牲にして働いてきた。
長女は特定疾患を持っており、治療入院は複数回に及んだが、その頃は会社を辞めようとは全く思っていなかった。
働き続けてきたので、給料だってそれなりに頂ける金額になってきていた。
「夫婦共働きなら稼げるわね」と言われることもあった。
行動はそのまま、その人の人生になる。
退職理由に書かれた「介護・看護」は、私の人生のシナリオに組み込まれた。
そして、2か月の治療期間を経て、主人は職場復帰に至った。
「いってらっしゃい」と玄関を出る主人を見送り、私は誓った。
これから描くシナリオに書く言葉、それは「作家になる」こと。
人生のシナリオは常に自分で引き寄せているものなのだ。
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