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 その日、約束の十分前に待ち合わせ場所に着いた薫は辺りを見渡してから軽くため息をついた。  もう何年も来ていない、若い人たちが集う街の駅は自分には少しうるさ過ぎるな、と思いながら壁にもたれて文庫本を広げる。そうすれば、少しは思考が廻る気がしたのだ。  ――そもそもデートって何だよ。  それが薫の今一番の疑問である。おそらくはもう少し遅れてこの場へ到着するであろう随分と年下の男が取り付けた約束は『デート』。  惚れただのなんだの言っているが、それが本心とは限らない。からかうにしたってタチが悪いと思うのだ。 「薫さん」  開いたままの文庫の、一行も頭に入らないうちに、耳元にそんな声が落ちてきた。顔を上げると、息を切らした侑が薫を見つめていた。 「……夏目くん?」  驚いて口を開くと、侑が口の端を上げた。 「はい。あ、俺の新しい魅力に気付いた?」  そう言って侑は目元に指を当てた。指先にはハーフフレームの細い眼鏡。 「目、悪いのか」 「普段はほぼコンタクトなんだけど、寝坊しちゃって時間なくて」  おまけに昨日あんまり寝れなくて全然コンタクト入らなくてさ、と侑が笑う。 「そんな焦る必要なんかないだろう」  眼鏡のせいか、普段と違う環境のせいか、少し大人びた印象を受ける。それがとても似合っていて、薫の鼓動は騒ぎ始める。薫は平常心、と自分に言い聞かせ文庫を静かに閉じた。 「焦るよ、ちょー焦るって。だって薫さん待たせたら帰っちゃいそうだもん。バイトはよくても今日だけは遅刻出来ないよ」  侑の言葉に薫は一瞬驚いて、それから笑った。自分は侑に、そこまで鬼みたいに思われていたのかと思うとおかしかったのだ。 「まさか。約束は守るよ」 「じゃあ、行こ。まずは俺行きつけのショップに付き合って」  侑は臆することなく薫の手を取って歩き出す。突然の行動に薫は逆らえずになされるがままになる。  ――神様、これは何の試練ですか……! 引かれるように歩き出した薫が一番に感じたのは人の視線だった。目立つルックスの侑が自分のような男を引き連れているのだから、その光景は奇妙なものだろう。 「ちょっ……夏目くん、手」  薫は握られた右手を侑の左手から引き離そうともがく。大きな手は薫の指先までしっかりと握りこんでいて、外れそうもなかった。 「やっぱ、握っちゃダメ?」  さり気ないフリをして意図的だったと知ると、薫は大きく腕を振って手を振りほどいた。目ではしっかり「ダメです」と訴える。 「じゃあ、はぐれないで。今日土曜だし、めちゃ混みだから」  仕方なさそうに頷いて侑は歩き出した。薫もその隣を歩き出す。こうして並ぶと侑の身長が自分よりも随分高いことを再確認させられる。横顔は凛として年齢よりも年上に見えることとか、使っている香水のセンスがいいことまでよくわかる。このままじゃまずい、と薫は侑の一歩先を歩いた。こうすれば背の高さも横顔も香水も気にならない。自分の表情が変わる様子も気付かれなくて済むという利点もある。いや、表情を変えないに越したことはないのだが、常に冷静で居られる自信などなかった。 「薫さん、こっち」  侑の前をずんずん歩いていると背後から呼ばれ振り返る。侑が苦く笑いながら手招きをしていた。慌てて踵を返し有の傍へと戻る。 「薫さん、俺の行く場所も知らないくせに先行きすぎ」  通りに面している店のドアを開けながら侑が小さく笑う。確かに目的地は聞いていなかった。  焦ると深みに嵌るぞ、と薫は大きく呼吸を繰り返して自身に言い聞かせる。 「ブランドショップ?」 「薫さん、ネクタイの数少ないよね? 十本も持ってないんじゃない? だから俺が見立てちゃおうって思って」  いつどうやって調べたのか、と驚く。確かに毎日ネクタイを締める職業に就いている割に少ないとは思っているが、余計なお世話だと思った。けれど楽しそうな侑の姿に薫は強く返すことが出来ずに曖昧に頷く。ただ店を見渡す限りでは、スーツも上等で、デザインも洒落ていて、ネクタイの種類もとにかくたくさんあった。選びきれずに店を出るのがオチだろうと、薫は高をくくった。  ……なのに。 「似合うじゃん、薫さん」  二十分後の試着室、自分の見立てに満足した様子で頷く笑顔の侑を薫は見ることになる。同時にいつもとは随分趣向の違うネクタイをしている鏡越しの自分も、だ。 「どう、かな……僕は落ち着かないんだけど」  金に近い黄色の、それもペイズリー柄のネクタイなんて付けたことがない。それに銀色のタイピンを合わせ、侑は満足そうに頷いた。 「すごく似合うよ。これにします」  侑は、薫からネクタイを解き、そのまま店員に差し出した。財布からカードを出しそれも店員に渡す。薫はその様子に慌てて、僕が、と脱いだジャケットから財布を出そうとする。けれどすぐに侑に片手で制された。 「これはプレゼントさせてよ。バイト代も入ったし」 「バイトの子に買ってもらうようなものじゃないし、夏目くんにプレゼントなんかされる義理はないよ」 「義理ねえ……」  侑は呟くとため息を零した。痛そうな笑顔で薫を見つめると不意に試着室へと侑が足を踏み入れた。素早く後ろ手にドアを閉めると、薫を近距離で見下ろす。心臓が口から飛び出そうなほど高く鳴った。 「俺は、薫さんが好きなんだよ。いつだって何だってプレゼントしたい。それで薫さんの周り全部を俺からのプレゼントで埋めてやりたいって思ってんの。あれは、最初の一歩。そのうちね、今着てるこんなのも俺が買うから」  薫の上着を長い指が撫でていく。薫はその指先の動きに鼓動がざわめくのを感じ、視線を逸らせた。その姿に侑が、ふ、と小さく笑った。 「ま、ネクタイにしたのはまだ色々思惑があるんだけど今は内緒」  いつもの声音に戻った侑はするりとドアを開けて試着室を出る。試着室に残された薫は、途端にその場にしゃがみ込んでしまった。まだ大人にもなったばかりのくせにその色気は何なのだと軽い怒りさえ覚え、赤くなった頬を両手で叩き込んだ。そのタイミングで店員が戻ってきたので、薫も靴を履いて試着室を出た。 「行こう、薫さん。次は俺の友達がバイトしてるカフェ。美味いしお洒落なんだ」  侑はいつもの弾けそうな笑顔で薫の手を引いた。解かなきゃと思うのに振り払う気になれなくて薫は侑に引き摺られるように手を引かれ歩いていった。温かな手のぬくもりを心地よく感じる自分がひどく怖かった。
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