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 春は、人事の動く季節だ。薫もその例にもれず、三ヶ月前、ちょうど年が替わる頃主任という肩書きからフロアマネージャーなんていう長いものに変わっていた。人より早いのは、春の人事、特にバイト採用関係を仕切るのがこの役職だからだろう。通常の書店で言えば店長とほぼ同じ役職になるのだが、ここ「三津谷書店」はいわゆる複合店で、CD、ゲーム、文具、レンタル、そして書籍の五つのセクションでひとつの店舗となっている。そのため、それぞれに統括する役職としてフロアマネージャーが置かれているのだ。チェーン展開されているため、更に上には本社があり、そこから降りてくる経営方針を受けつつ、独自のアイデアで店舗展開しなくてはいけない、胃の痛まない日はない中間管理職である。特に薫はこの任について初めての独自のフェア展開で、あまりいい結果を出せていないので、胸を張って「責任者です」とは言い難かった。  そこにきて、この人事ミスだ。そう、侑の採用はどう考えてもミスだろう。  侑を採用したのは、多分に私情を挟んでいた。彼の面接をしていた時、とにかく初めての管理職で煮詰まっていた薫に、悪魔が囁いたのだ。『自分好みの子が職場に居れば、仕事のモチベーションも大分あがるだろうな』と。  この仕打ちがこれかと思うと、今薫は神様に土下座したい気持ちでいっぱいだった。 「俺が薫さんのどこを好きかっていうと、まあ全部なんだけど、あえて言うなら絞まった腰かな。つーか、ここの制服ってエロいよね。俺さあ、スーツの上着なしって一番エロい格好だと思うんだよね。薫さんの腰とか背中とかヤバイよ」 「……夏目くん、今は職務中だ。私語はなるべく慎むように」  神様に脳内土下座をしていた薫の横で、書棚の前で補充の本を差しながら、ぺらぺらと薫について話す侑に、静かに声をかける。 「職務中にしか会えない人とはコミュニケーションとっちゃいけないってこと?」 「そういうことを言っているわけではない。夏目くん、タブレットの使い方は覚えたのか?」 「まだ、だけど」  侑が小さく答える横で、薫はタブレットのカメラにコードを読み込ませ、場所を登録、それから棚に本を差し込む。 「これは大事だよ。これが上手く登録されてないとデータが全部狂ってくる。あるはずのものがない、とか、あるべきところと違う棚にある、とか……トラブルも出てくる」  フロアはひとつだが、店内はかなり広い。ジャンルも豊富で専門書も多く、こういう小さな積み重ねが後で大きなトラブルを生むことを、薫は経験で理解していた。 「それはすぐに覚える」  侑は薫の話を面倒そうに聞き流して適当に答える。今はそんな話をしたいわけじゃないんだ、という彼の主張が薫にも手に取るようにわかった。わかったからといって、侑の話につきあうほどバカでもないし暇でもない。 「だったら今すぐ覚えろ。ほら、ちょうどいいところに君の教育担当小野寺さんがいる」  薫は視界の端に入ってきた女子社員を目で追いながら侑に伝える。 「俺は薫さんと話がしたい」 「職場は仕事をする場所だ。時給分は働きなさい」  いいね、と念を押して小野寺のところに行くよう視線で合図すると、侑は渋々重たい足を引き摺るようにそちらの方向へ歩いていった。やれやれと薫は自分の仕事に戻ろうとするが、不意に手を取られて抱えていた本を零してしまう。ページが捲れる音と共に本は床へと着地した。それと同時に取られた薫の左手は、いつの間にか戻ってきた侑の両手に包み込まれていた。 「薫さんチャージ中」  その手の強さに、熱さに、薫は言葉を忘れて、瞬時なされるがままになってしまった。 「夏目くん、君は……」 「ここがどこだかなら、わかってるし、商品を落としたこともごめんなさい。でもどうしても今じゃなきゃダメなんだ――よし、チャージ完了」  侑は薫の言葉を遮ってひとしきり言葉を繋ぐと、そのまま薫の手を離し、駆け去っていった。 「なんなんだ、一人で勝手に……」  薫は棚の向こうに消えた背中に呟いてから短くため息を吐く。落ちた本を拾い、それらに傷がないことを確認してから棚に差し入れる。それから、そっと左手に視線を送った。  それほど強く握られたわけでもないのに、その手は脈打つように熱くなっていることに気付く。意識したって、どんなにときめいたところで、ダメなものはダメだ。彼は自分には似合わない――そんな風に自分に言い聞かせ、薫は仕事へと集中していった。
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