514人が本棚に入れています
本棚に追加
13
社長の再視察の前日の夜、薫は店の全てをチェックしてから帰路についた。既に深夜を廻っている。たった一人で店を後にして、薫はスマホを取り出した。着信を告げない、ただの時計と化しているスマホに、薫はため息を零す。侑からの返信はない。彼の今の気持ちが掴めなくて、でも出来ればまだ自分に向いていてほしくて、でもそうじゃないかもしれなくて……逃げ出したい気持ちは、日を追うごとに増していた。それでも。
『放っておいて、と言ったくせに何度もメッセージ送ってごめん。話がしたいです』
たとえそれが別れ話だとしても。祝福すべき報告を聞くことになったとしても、自分は全てを受け入れよう。そして今度は逃げずに彼の幸せを見守ろう――薫はそう決めてそのメッセージを送信した。
多分、それだって一つの愛の形だ。
あの日見た、未冬と侑の光景はとても絵になっていた。幸せなカップルを描けと言われたら、多分あの風景になるんだろう、と薫が思うほどに二人は似合っていた。何度も思い出した。夢にだって出てきた。その度に喪失感のような、空虚感のような、鈍い痛みに苛まれた。その度に思った。
自分は侑が好きなのだ、と。
そんなことを考えながら薫は帰宅すると、まっすぐベッドルームに進み上着を床に投げ捨ててベッドへと身を投げた。スプリングが軋み、上に乗っていた衣服がだらりと床に落ちていく。忙しさと心を占める空しさから、薫はこのところ片づけすらしていない。薄く開いた目で部屋を見渡すと無造作に脱ぎ捨てられたスーツが点在していた。このままじゃ着るものがなくなる。部屋が汚いのはいいとしても、スーツがなくて出勤できないなんてしゃれにならない。仕方ないか、と思い薫はゆっくり体を起こした。着ていたスーツからシャツとジーンズに着替えるとボストンバッグに床から拾い集めたスーツとネクタイを詰め込んでいく。深夜営業のクリーニング店へそれらを出すために部屋を出た。
スマホはなおも沈黙したままだった。
聞きなれたアラームの電子音が、薫の睡眠時間の終わりを告げている。薫は手を伸ばしてベッドサイドのスマホに手を伸ばして止め、布団に潜り込みなおす。なのに、音はまた鳴り始める。腕を伸ばして枕元を弄っているうちに、その音は途切れた。なんだ、今の音は……と思考を巡らせたところで、薫ははっとなって起き出した。
「――着信!」
薫は慌ててスマホを手に取った。液晶には、メッセージの着信のアイコンが表示されている。薫は震える指でアプリを開いた。
『今日は俺もバイトだから、休憩合わせよ。俺も話したいから』
簡単な文章。いつもと変わらない侑の言葉だった。お腹の底がじわりと暖かくなるような、不思議な気持ちで薫はベッドを出た。今日も仕事、その上社長の視察もある。ぼんやりとしている暇はなかった。
薫はクローゼットを開けて、一瞬動きを止めた。中にあるはずのネクタイがない。スーツはかろうじて一着残っているが、ネクタイを掛けているハンガーは空だった。そこで薫は昨日のクリーニングを思い出した。
「僕のバカ……」
今日付ける分を残しておかなかった昨日の自分に呆れながらクローゼットの中に置きっぱなしにしていた紙袋を手に取った。中には以前侑からプレゼントされたネクタイが入っている。仕方ない今は緊急事態だ、と言い聞かせ薫はそのネクタイを取り出した。
最初のコメントを投稿しよう!