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社長の視察は午後と聞き、薫は午前中を事務所で過ごした。デスクワークが溜まっていたことと、侑と顔をあわせることに躊躇ったからだ。自分でも情けなく、臆病だと思った。
夏のフェア展開の企画書を書き上げたところで、薫の机に置いてあったスマホが震えた。メッセージの着信に、それを開くと侑からのものだった。これから休憩室に向かうという内容に、薫もパソコンをシャットダウンして席を立った。
休憩室は事務所の向かい側にある。給湯室で淹れたコーヒーを手に薫はそのドアを開けた。休憩室には大きなテーブルが二つある。周りに椅子が数脚、壁際にはソファもある。薫はテーブルのひとつに向かって座る侑を見つけ、向かい側に座った。けれど、口を開かずスマホを手に取る。侑はその様子に視線を向けたがすぐに手許に広げた雑誌に視線を落とした。その顔には眼鏡が掛かり、いつもよりも大人しい雰囲気に見えた。
薫はメッセージをつくり、侑に送信した。
『体調どう? 病院は行きましたか?』
向かいで侑がスマホを見てそれを操作する。返信は早かった。
『へーき。薫さんも疲れた顔してる。ところで、なんでメッセ?』
『人がいるし』
『別にいーじゃん。俺、こういうの嫌い』
『よくない』
『薫さんは、俺が嫌い? 俺と噂になるの、そんなに嫌?』
薫は返信に、好きだよ、と打って手を止めた。まだ送信はしていない。侑を窺うと、その目がはっきりと自分を見つめていた。好きだよ、好きだから怖いんだ……薫はどう返信しようか、迷って指を動かせないままスマホに視線を落とす。しばらくすると、ガタリ、と目の前で音がして顔を上げると、立ち上がり自分を見下ろしている侑と目が合った。久しぶりにかち合った視線は、まっすぐで揺らぎがない。
「ねぇ、返事は?」
はっきりと声にする侑に薫だけでなく、周りの視線も集まる。
「夏目くん、あの、だから……」
「俺は薫さんとならどうなってもいい。そのくらい覚悟してんのに」
薫はその言葉に驚いて、周りを見回した。みな、驚きの顔を向けている。薫は立ち上がり、侑の腕を取った。
「とりあえず、こっち」
そう言って侑を連れて行ったのは、普段滅多に使われない大きな会議室だ。こっちは事務所にある小さなものとは違い、防音壁で出来たちゃんとした部屋だ。今ならプライベートな空間に出来る。そう思って、薫は侑を会議室へ押し込みドアに鍵を掛けた。
「……薫さんは、何が怖いの?」
「何って……」
「俺には怯えてるようにしか見えないんだ。放っておいてって言われたあの日の背中も、怖いんだって一瞬でわかったよ」
だから引き下がったんだ、と侑は続けながら机に腰掛けた。薫は立ったまま、その様子を見つめていた。
「怖い、よ。そうだよ、僕は怖い。夏目くんは好きだと言ってくれるけど、そんなのいつまでかわからない。もし、君しかいないと思うほどに僕が夏目くんを好きになったら……」
そして突き放されたら多分立ち直れない。そう思いながら、声にすることは出来なかった。全て見透かされて半分自棄で話したが、最後までは言えなかった。
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