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「なってよ。俺しかいないってくらい、好きになって。俺はずっと薫さんが好きだから」
「だったら、どうして体調が悪いとか言いながら元カノと会ってるんだ? よりを戻すんだろ?」
顔は上げられなかった。肯定の言葉を答える唇を見るのが怖かった。
「何その、ぶっ飛んだ発想! そんなのあるわけないじゃん。確かに未冬とは会ったけど、それはアイツが薫さんに余計なこと吹き込んだって知ったからで……俺は薫さんが好きなんだよ」
侑が立ち上がる。ふと顔をあげると、哀しそうな苦しそうな表情をしていた。レンズの向こうの瞳が潤んでいるように見える。そうさせたのは自分だと思うと、胸が苦しい。
「でも、君は、惚れっぽくて冷めやすいって……」
「だから、それ言ったのが未冬でしょ? 俺はそれを怒りに行ったの」
薫さんを不安にさせやがって、と侑が歯を軋ませる。怒りを堪えているのがわかった。
「ごめん、彼女のせいじゃないんだ。僕が弱いんだ。ごめん……」
「薫さん……」
「――結婚なんてカモフラに決まってるだろ? お前との関係がバレそうだったから、お前のためにするんだ、結婚なんか……って、言われたんだ、昔。ほら、前に話した人だ」
突然そんな言葉を発した薫を、侑が不思議そうな顔で見つめている。静かに、それで?と言葉を促した。薫は再び口を開く。
「初めはそれを信じたよ。仕方ないと思った。周りにバレたら終わる恋だと思い込んでいたから……でも、カモフラで結婚する相手なのに、なんで奥さん妊娠なんかしてんだよって……ごめん、こんな話するはずじゃなかったのに」
謝ると、不意に腕を引かれた。惰性で一歩前へ出ると、侑の暖かい胸に吸い込まれるように抱きすくめられていた。
「どうすればいい?」
耳元で、侑の優しい声が響いた。
「どうって……」
「どうすれば、薫さんを安心させてあげられる? どうすれば、俺に薫さんの全部くれるの?」
怖いと思う気持ちも不安も全部、と侑が震えた声で囁く。薫は堪えるように目を閉じた。自分が臆病になる度に侑はそれを自分の努力が足りないせいと傷ついていた――それが辛かった。
「大丈夫……ずっと好きだって、言ってくれたから」
強がりではない。未来のことは誰にもわからない。不安に思うのは仕方ないのだ。その不安を取り除こうとしてくれる、今この瞬間の侑を信用すればいいのだ、と思った。やがてそれが積み重なって、未来に繋がっていくはずだ。
「でも……」
侑がそう言いかけたところで、薫の手の中でスマホが震えた。慌てて、それに出る。
『立原さん、社長がみえました。すぐ来れますか』
相手は佐々木だった。すぐに行く、と返事をしてから薫は電話を切る。
「仕事だ。行かなきゃ」
軽く侑の胸を押すとその腕はするりと解けた。代わりにその手は薫の顎を掬い上げる。
「……いますぐ押し倒したいんだけど」
いつもの調子で言うその言葉に薫は侑の手を弾く。
「馬鹿か、君は! もう行くからな」
全く、とため息をついて薫はドアに向かう。
「いーじゃん。ね、仲直りしたんだし、ちょっとだけしようよー。薫さんだけでもいいから」
薫はその言葉に眉を顰めた。自分だけとはどういうことだ? と一瞬考えて、それがエッチな意味だと気づいて憤慨した。
「馬鹿は休み休み言え!」
手近なものがなくて、薫はスマホを侑に投げつけ、部屋を出て行った。侑のことだから器用に手で受け止めていることだろう。それにすぐに彼も売り場に降りてくるはずで、きっと余裕綽々な顔でスマホを手渡してくるに違いない。その器用さに益々腹が立つ。
「……仕事だ、仕事」
薫は紅潮したままの頬を手のひらで叩いてから売り場へと下りていった。
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