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15
翌日の朝、大学へ行く侑と駅で別れた薫は引き継ぎ資料を作るため、出勤時間よりも早く店に着いた。
事務所に入ると、そこには他の社員と談笑する磯山が居た。薫の姿を見つけると、そのまま近づいてくる。
「夏目くん出したこと、後悔してるか?」
「いいえ。彼はうちに必要な人材ですから」
侑が休みだったなら、こんなことにはならなかったはずだ。けれど、仲直りも出来ていないはずで。
「大した自信だな。――まあ、そういうの、僕は好きだけどね」
磯山が口角を引き上げる。薫は頷いた。
「でも、そう思わない人間の方が多いってのが現実でね。明日、会議にかけることになったよ。君も参加だ」
「そうですか」
わかっていたことだ。驚きはない。薫は鞄の中から、真っ白な封筒を取り出した。早朝にしたためた辞表だ。
「これで、なんとか夏目くんだけは助けてあげられないでしょうか」
「これは……」
磯山が驚いて薫を見つめる。封筒に手を伸ばそうとはしなかった。
「見ての通りです」
「わかった。これは、僕が預かっておくから」
気が変わったらすぐに言うんだよ、と磯山は言って事務所を後にした。薫も、はい、と答えたが磯山に辞表の撤回を言いに行くことはないだろう、と思った。
とりあえず自分のすべきことは済んだ。後は明日の会議とやらを受け流して、この会社を去ればいいだけの話だ。これで万事うまくいくはずだ、と思い薫は引継ぎ資料を作ろうと自分の席に着いた。
翌日、薫は店を休んで午前中から本社に来ていた。数回しか入ったことのない本社ビルの受付で名乗り、しばらく待っていると磯山がロビーまで下りてきた。
「わざわざ済まないね」
「いえ。僕のことなんですから、当然です」
むしろ同席させてもらえるのが有難い。話の流れ如何では、薫にも発言の準備があった。
この仕事が楽しいと言った侑を守ってやれるのなら、どんな処分だって受ける。辞表まで出しているのだ、怖いものなどない。
通された会議室には、既に社長以外の重役が集まっていた。新年のフェア展開を散々にけなしていった専務やCCでメールをするとなぜか怒る常務などが一様に薫を値踏みするような視線を向ける。それらをぐっと堪えながら席に着くと、そこへ人影が近づく。薫は何気なくその気配に顔を上げ、そのまま目を瞠った。
「久しぶり、薫。お前が三号店から逃げて以来、かな」
そこに居たのは金岡だった。ほんの少し精悍な顔立ちになっていたが、人目を引く笑顔に変わりはなかった。彼の着こなす質のいいスーツには、『支店長』の肩書きの入った名札が下がっていた。元より仕事の出来る男は、家族を持ったことで昇進を重ねたらしい。
「な……んで、ここに?」
動揺のせいか喉が張り付いたように上手く言葉が出なかった。その様子は金岡の想像の範疇だったのか、気にも留めずに、さあね、と首を傾げた。
「俺も呼ばれただけだから……磯山部長に」
金岡の言葉に、薫は隣に座る磯山を見る。磯山は困ったように笑った。
「僕も頼まれた方だからその真意まではわかんないんだけどね。どうしてもっていう人が居て――僕だって会わせたくなかったんだよ、立原くんと金岡くん」
「ひどいな、部長。俺たちは同期ですよ。しかもとりわけ仲のいい」
な、と金岡が薫に笑顔を向ける。けれど薫はそれに頷くことはできなかった。確かにずっと昔、まだ入社したての頃は親友と呼べた。けれど、そこから先は泥沼だ。振り返りたくない。
薫にした仕打ちなど忘れたような金岡に、なんと答えたらいいかと思案していると、会議室のドアが大きく開いた。姿を見せたのは社長だ。会議室をぐるりと眺めるようにしてから、その視線は薫へと向けられた。冷たい見下した目だ。薫は黙ったままそれを受け止める。
「本来なら夏のフェア展開と、電子書店の展開について話す予定なのだが、先に片付けたい案件がある。皆さん周知のことと思うが、昨日お客様に多大な迷惑を掛けた従業員が居る。今日はその責任者に同席させているが、処分について意見を聞きたい」
社長は一気にまくし立てた。会議室にざわめきが起こる。
「やはり本人と責任者、両方辞めさせるのが道理ではないか」
その声に、薫は体を強張らせた。だめだ、侑に罪はない。何か言わなきゃ……そう思って口を開こうとすると、隣の席にいた磯山が立ち上がった。
「お客様に迷惑をかけたから、はいクビですっていうのは、社会的にどうでしょうか」
たった一度の失敗で辞めさせられたと言って回られたら、と他の重役が言い、また会議は騒然となる。
「磯山部長……あの、僕の辞表は……」
隣に座った磯山に小声で言うと、彼は首を振った。
「でも、それを出せば済む話です。僕が辞めれば……」
「辞める?」
薫が言い終える前に、言葉が刺さった。誰だ、と薫が見渡すと社長の視線が自分に向いていた。
「今、辞めると聞こえたが」
「はい……僕だけが辞めて済む話であれば」
薫は立ち上がって話すと、社長は深く頷いた。
「君ならそういう賢い判断をしてくれると思っていたよ」
「そのかわり、夏目くんは咎めないであげてください。彼はまだ若いし、この仕事が好きなんです。将来だって、ここに就職してくれるかもしれない」
「いいだろう。その条件を呑もう。私も人材の芽を潰したくはない」
社長の言葉に薫は胸を撫で下ろした。これで侑を守ることが出来た。そう思った矢先だった。
「社長、ここにいる立原くんだって、まだ二十八です。この若さでフロアマネージャーにまで昇進したのは、それだけの人材だからではないんですか? それをあっさり手放すのは、社にとって本当にいいことでしょうか」
隣で磯山が吠えるようにまくし立てた。普段見たこともない鋭い眼光と熱弁に薫は呆気に取られる。それは薫だけではなかったようだ。
「磯山くん……」
社長が唸るようにその名を呼ぶ。磯山は怯むことなく言葉を続けた。
「そういう意味で責任を問うのなら、地域統括している僕が辞めるべきではないでしょうか」
「磯山部長!」
薫が驚いて声を上げた、その時だった。壊れたのではないかと思うほど大きな音を立てて会議室のドアが開いた。
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