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久々の休日は心の底からのんびりするつもりだった。職場に行かないという事は、仕事に加え、侑の行動に振り回されずに済むからだ。
そう思うのに、一日考えていたことは侑のことだった。あの言葉のどこまでが本気なのだろうか……そこまで考えて、薫は頭を振る。
「……まだ懲りてないのか、僕は」
好きだなんて言われて、心が浮ついているのは自分でも感じていた。けれどそれに流されてはいけないことも分かっている。
そんなことを考え、ため息を吐きながらコーヒーを淹れはじめた時だった。震えだしたスマホの画面に見える『事務所』の文字に、見なかったことにしたいと思いながら薫は通話ボタンをタップした。
『お休みのところ、すみません。小野寺です』
嫌な予感がした。主任であり、勤務暦も長い彼女が薫に電話することなどほとんどあり得ない。大体のことは彼女の権限で動かせるし、トラブルも解決する技量を持っている。あるとすれば、彼女が抱えている新しい仕事、つまり侑の教育くらいだ。
「どうかした?」
『ちょっとトラブルがあって、今社員動けなくて……』
現場に来て欲しい、彼女の言葉の空白からそれが読めてしまった薫は中途半端なままのコーヒーメーカーの電源を落として、財布や鍵、時計を手早くポケットに滑り込ませた。
「今から顔出すから、このまま詳しい話を聞かせて」
薫の言葉に、小野寺は安心したように息を吐いて、はい、と答えた。
事のあらましはこうだ。先日注文していた本を取りに来たという客に、ちょうどいいので侑に対応をさせた。すると、しばらくしてからその客から電話が入り、侑を指名。どうやら本に傷がついていたらしく、値引きをして欲しいと言われた。当然そういうことは出来ないのだが、電話で客に諭されてしまった侑は「そうだよね、値引きできないなんておかしいよね」と言い出し、逆に小野寺に「値引きしてくれ」と言い出したらしい。とりあえず佐々木が謝り、とにかく今回は交換ということで話はまとまった。その交換品を届けに行って欲しいというのが薫の呼ばれた理由だった。売り場が混んでいる上に新人のバイトも今日は三人全員入っているので、動ける社員がいないらしい。
店に着くと、カウンターでは佐々木が申し訳なさそうな顔で待っていた。
「すみません、おれが行ければいいんですが……」
薫は、いや、と首を振って答えた。客数や仕事量を予想して出勤人数を決めているので、予想外のことが起これば、特に社員は動けなくなって当然だ。この時も佐々木はすぐに接客に戻っていった。誰から話を聞こうか、と薫が売り場を見渡した、その時だった。
「薫さーん」
このトラブルの中心であり、おそらく薫が呼ばれた最大の理由が売り場を駆けてくる。
「夏目くん、君ね……」
「やった。今日も薫さんに会えた。休みなのになんで居るの?」
俺に会うためだったりして、と一人浮かれる侑に、薫は今この場でヘッドロックでもかけて、誰のせいだと思ってんだ、と怒鳴りたい気分になる。その衝動を抑えるように薫はゆっくりと口を開いた。
「僕はこれから出かけてくる。夏目くんは心の準備でもしながら仕事をしていなさい」
「心の準備?」
「僕の説教を受ける準備だ」
薫はそう残すと、接客の終わった佐々木から交換品を受け取って売り場を後にした。
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