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3
翌日出勤すると、事務所の居心地の悪さに薫は首を傾げた。視線が一気に集中する、嫌な感覚が薫を包む。
「佐々木くん、僕は何かしでかしたかな?」
「立原さんというよりは……夏目くん? 立原さん大好きーってヤツは目立ちますから」
席につくなり、隣に声を抑えて囁くと苦く笑う佐々木が首を傾げる。
「いつの間に他の売り場にまで話が……」
「女子社員たちはみんな仲いいですからね、休憩時間のはなしのネタにでもなってるんだと思います。加えて昨日は夏目くん、立原さんから連絡先貰ったって言いふらしてたし」
なるほど、薫は頷いてため息を零した。それ以上聞く勇気もなく、薫は頷いた。なんにせよ、これは上に話が流れていくのも時間の問題だな、と軽く頭を抱える。
「でも、みんな冗談半分ですから」
佐々木の慰めに礼を言ってから薫はメールチェックすらせずに席を立った。なんにせよやっぱり居たたまれなかった。自分好みの子を採用して、あまつさえ自分に懐かせている――そんな噂だったらと考えると、怖かった。
「そんなわけ、ないか」
ばかばかしいと気持ちを切り替え、薫は軽く売り場へ続く階段を駆け下りていった。
薫の嫌な予感が的中したのは昼を過ぎた頃だった。支店長の大沢から呼び出されたのだ。重い気持ちで事務所の隣にあるガラス張りの小さな会議室へと赴く。大沢は会議用の机の一番奥に不機嫌そうに腰掛けていた。
胃の上部に鈍い痛みを感じながら薫は部屋のドアを開けた。こちらから中が見えるということは、中からもこちらが見えるということなので、大沢はゆっくりと椅子に腰掛け直し、薫を視線で椅子に促す。薫は適当な椅子に腰掛けて大沢と向かい合った。
「書籍バイトの夏目……夏目侑、か。彼の行動が目に余ると私のところまで上がってきてね」
大沢は机に乗っていた書類を引き寄せながら話し始めた。顔写真が見えるところから察すると侑の履歴書だろう。
「目に余る、とおっしゃいますと?」
「言葉遣い、電話の応対、それから君への固執だな」
大沢が言葉を繋げるたびに薫の体には見えない矢が刺さるようだった。特に最後のは大きかった。
きっと『目に余る』と考えたのは、社員というよりは大沢自身だろう。とはいえ、自分が絡んでいるのは間違いない。
「彼はまだ学生ですから、言葉遣いも電話もこれからです。もうひとつは、何か誤解があるかと」
「誤解か。そういうことなら、今はそうしておこう。昨日の一件もきちんと処理したようだし。君に任せるべきではなかった、と言われないように気をつけるんだな」
大沢は言うだけ言うと、薫の肩を軽く叩いて会議室を出て行った。
大沢が置き忘れていった侑の履歴書を手元に引き寄せる。汚いなりに丁寧に書いたそれは、上出来と言っていいと思えた。ネットでダウンロードしたような履歴書ではないし、全てきちんと手書きで修正ペンも使っていない。貼られた証明写真を見て、薫は面接を思い出す。侑の目が印象的だったのだ。きちんと人の目を見て話す、真っ直ぐな態度は随分好感が持てた。
「悪い子じゃないと思うんだが……」
薫はため息を吐きながら一人呟く。そのまま椅子から立ち上がると会議室の向こうで一人、手を振っているのに気付いた。
「夏目くん……」
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