雪解け

3/6
前へ
/6ページ
次へ
 その日の週末、達也は夢を見ていた。東京のマンションだ。辺りにはビルや住宅地が広がっていて、賑やかだ。幸せに暮らしていたあの日々が懐かしい。あの頃に戻りたい。だけどもう戻れない。  突然、電話がかかってきた。達也は驚いた。一体何だろう。誰からだろう。両親はまだ帰ってきていない。 「もしもし、達也くん?」  達也が受話器を取ると、そこから聞こえてきたのは2年生の担任の鈴木先生だ。一体、何だろう。 「はい」 「お父さんとお母さんが交通事故に遭って、亡くなったの」  達也は言葉を失った。交通事故で亡くなったって、そんなの嘘だ! 嘘だと言ってくれ! 昨日はあんなに元気だったお父さんが、お母さんが! 「えっ・・・、えっ・・・」  と、一瞬で目の前が変わった。事故現場だ。目の前には両親の車がある。その前には、倒れている両親がいる。とても現実ではない。夢から覚めろ! 「うわあああああ!」  達也は目を覚ました。夢だった。毎日こんな夢を見る。それほど両親の事故死は心に深い傷を与えた。いつになったら、忘れる事ができるんだろう。  達也は窓を見た。すると、パン屋の明かりが点いている。まだ午前5時を回った所だ。こんな朝早くから何をしているんだろう。 「あれ? 明かりが点いてる」  達也はその光につられるように家を出た。外は雪が降っていて、とても寒い。  達也はパン屋に入った。中からはパンのいい香りがする。中では健太郎とさくらがパンを作っているようだ。 「ん? たっちゃん、どうした?」  健太郎は驚いた。達也が来るとは思っていなかった。朝早くに起きて、どうしたんだろう。 「こんな朝早くに何をしてるの?」  達也は疑問に思った。普通なら寝ている時間なのに、朝早くから何をしているんだろう。 「パンを作ってるんだよ。朝から大変なんだよ」  健太郎は忙しそうに生地をこねている。こんなに寒いのに半袖で、汗をかいている。 「そうなんだ」  と、健太郎は石窯に向かった。石窯からはパンのいい香りがする。この中にパンがあるようだ。 「今、焼き上がるからね」 「ほんと?」  達也はわくわくした。焼き立てのパンって、どんなものだろう。食べてみたいな。 「うん。これだよ」  健太郎は石窯からパン型を取り出した。香りがより一層広がる。東京のベーカリーよりずっといい香りだ。これが人気の秘訣だろうか? 「いい香り! コンビニとかのパンと違う!」 「だろう。これが手作りの香りなんだよ」  取り出したのは、型に入った食パンだ。周りには耳ができていて、中の白い部分が見えない。そして、スーパーなどに売っているのより長い。ふたを開けると、より一層いい香りが広がる。達也は思わずつばを飲み込んでしまった。  健太郎は慣れた手つきで食パンを型から出した。健太郎が包丁で端を切ると、白くて美しい中身が見えた。 「食べてみる?」  健太郎は達也にできたての食パンの端を差し出した。まさか食べさせてくれるとは。達也は驚いた。 「いいの?」 「うん。どうぞ」  達也はわくわくした。できたての食パンを食べられるとは。こんな事はあまりないに違いない。食べなくては。 「いただきまーす」  達也はちぎってほおばった。中はこれでもかというほど香りがよく、もちもちしている。そのままでもおいしい。それに、耳が香ばしい。耳は硬くておいしくないけど、こんなに耳がおいしいとは。こんな食パンを食べるのは初めてだ。 「おいしい! こんなにおいしいなんて!」 「そうだろう。これが本当のパンなんだよ」  健太郎は笑みを浮かべた。おいしいと言ってもらえた。それだけでも嬉しい。 「でもたっちゃんどうしたの? こんな時間に起きて」  ふと、健太郎は疑問に思った。どうしてこんな時間に起きたんだろう。子供はまだ寝ている時間なのに。 「パパとママが死んだ夢を見たの」  健太郎は驚いた。それほど辛い思い出だったんだな。早く立ち直って、楽しく過ごしてほしいな。 「そっか。辛かっただろうな」 「うん・・・。辛いよ・・・」  健太郎は達也を抱きしめた。達也は泣きそうになった。いつになったらこの悪夢を振り払う事ができるんだろう。そして、立ち直る事ができるんだろう。 「辛かっただろうな。だけど、何もかも忘れてここで暮らそうな」 「ありがとう・・・」  と、家から瑞穂がやって来た。達也の声に反応して、起きてしまったようだ。 「朝早くからどうしたの?」 「達也がお父さんとお母さんが交通事故で死んだ夢を見たんだって」  瑞穂は呆然となった。そんなに忘れる事ができない辛い思い出なんだ。早くここで忘れてほしいな。 「忘れられないの?」 「うん」  と、横にいたさくらがやって来て、達也の頭を撫でた。さくらも心配している。 「大丈夫大丈夫。いつかそんな辛い思い出も雪のように解けていくはずだから」  達也はいつの間にか泣いていた。さくらの温もりは、まるで死んだ母のようだ。母ではないのに、優しくなれる。どうしてだろう。 「本当に?」 「うん」  達也と瑞穂は家に戻っていった。達也は空を見上げた。外は雪が降り続いていて、とても寒い。早く家に戻り、また寝よう。今度は悪い夢を見たくないな。  この日は土曜日、休みだ。外は朝から雪が降っている。達也も瑞穂も宗也も家の中にいる。健太郎とさくらは朝からパン屋と喫茶店を営業していて、家に戻ってこない。  達也は外から雪を見ている。東京では見られなかった雪が、当たり前のように見える。幻想的な光景だ。寒いけれど、雪を見ていると、寒さなんか忘れてしまう。それほど見とれてしまう。これが当たり前に様に見られるなんて素晴らしい。そう考えると、東京より幌鞠に住むのがいいと思ってしまう。 「外に出てみようよ」  達也は振り向いた。そこには瑞穂と宗也がいる。寒いのに、外に出て何をしようというのか? まさか、雪合戦だろうか? 「うん」  何をするかわからないまま、達也は瑞穂と宗也と共に家の外に出た。辺りは一面の銀世界で、その中にポツンと家とパン屋と簡易宿泊所がある。昔はこの辺りには、どれだけの民家があったんだろう。想像できない。  しばらく歩くと、広い雪原に出た。そこには民家が1つもない。夏は、どんな風景が広がっているんだろうか? 「寒っ・・・」  達也は身を震わせた。こんなにも寒いとは。東京に冬将軍がやって来た時より寒く感じる。 「寒いでしょ? だけどこんなのまだまだ序の口だよ」 「そうなの?」  瑞穂と宗也はここの寒さをよく知っていた。まだまだ寒くなる事もある。幌鞠駅は現役時代、日本最寒の地に到達したことを証明する『日本最寒の地到達証明書』なるものが有料で配布されていたという。 「もっと寒くなる事もあるんだから」 「へぇ」  達也は雪原を見渡した。どこまでも続くような雪原だ。まるでモノクロの世界だ。 「すごい雪だね」 「素晴らしいでしょ?」  瑞穂は笑みを浮かべた。達也にも気に入ってもらったようだ。もっと好きになってほしいな。 「こんなに雪景色が美しいなんて。東京はそんなに雪が降らないし、降ってもこんなに積もる事はないよ」 「そうだよね。ここでは毎年こんなに積もるんだ」  達也は全く寒くなさそうだ。雪景色を見ていると、寒くなくなるのは、どうしてだろう。雪の美しさに見とれるからだろうか? 「えいっ!」  と、瑞穂は達也に向かって雪を投げつけた。達也はよける事ができず。雪を浴びた。 「やったなー!」  達也はすぐに瑞穂に向かって雪を投げつけた。3人とも楽しそうだ。 「雪遊びなんて、あんまりしないなー。冬になると毎日のようにできるなんて、夢のようだよ」  雪遊びをしていると、ここにいるのもいいなと思ってくる。だけど、欲しいものが簡単に手に入るのを考えれば、東京がいいと思ってしまう。どっちに住むのがいいんだろう。 「楽しいでしょ?」 「うん」  瑞穂は辺りを見渡した。この雪原について、何かを知っているようだ。 「ねぇ知ってる? ここって集落があったんだよ」  達也は驚いた。ここにも集落があったんだ。どんな人たちが住んでいて、何で生活をしていたんだろう。 「本当に?」 「うん。楡の台(にれのだい)っていう集落があったんだって」  この辺りには楡の台という集落があって、そこにも塩鞠線の駅があった。楡の台は酪農で生計を立てていて、ここの牛乳はとてもおいしいと言われていた。だが、厳しい環境で過疎化が進み、数十年前に人がいなくなった。楡の台駅はかつては行き違い設備もある比較的大きな駅だった。だが、行き違い設備が廃止され、冬季休業の臨時駅となり、塩鞠線が廃止になるよりも先に廃駅になったという。 「ふーん」 「だけど、この集落はなくなっちゃったんだ。で、今は原野は広がるだけなの」  この時期は雪に埋もれて何も見えないが、ここにはその集落の家のがれきが残っている。また、楡の台駅のホームが残っていて、鉄オタが訪れる事もあるという。 「賑やかな時代があったんだね」 「パパの簡易宿泊所にその写真が展示されてるんだって」  宗也はその写真を見るのが好きだ。達也は簡易宿泊所には入った事がない。ぜひ入ってその写真を見たいな。 「本当?」 「うん」  宗也は笑みを浮かべた。ぜひ、達也にも見せたいな。きっと気に入ってくれるだろう。 「見てみたいな」 「いいよ。家に戻ろうか」  そろそろ日が暮れる。夜にその写真を達也に見せよう。それを見て、達也はどんなことを考えるんだろう。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加