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しずかにして
長女のモイラが、もう一歳三か月を過ぎようとしていた。
しかし、子育て支援センターで会う子たちよりも、明らかにおしゃべりが遅れていた。不安だった。
母親の私がしっかりしていないから。モイラが話したくなるような、的確な言葉を投げかけられていないから。オムツを変えるのが遅いから。母乳育児じゃないから。愛情が足りていないから。
夫は何もいわない。ただ、私がいないときを見計らってこっそりと「モイラが話すのはいつかなあ」とベビーベッドに話しかけている。私はそれに聞き耳を立て、がりっとくちびるを噛みしめた。気になっているなら、私に直接いえばいい。気をつかったつもり?
モイラがしゃべらないことを一番気にしているのは、必死にお腹を痛めて産んだこの私。あんたなんか、家事も育児もちょろっとだけやって、やった気になっているだけじゃない。ばかじゃないの。
夫は寝ているモイラにいくつか話しかけたあと、ベビーベッドから顔をあげた。いけない、リビングに帰ってくる。聞き耳を立てていたことに気づかれないよう、私はひっそりと廊下に出た。急いでリビングに戻り、キッチンの冷蔵庫から、用意してあったワインとおつまみをテーブルに置いた。チーズとサラミと、ピクルス。仕事から帰ったら、晩酌のためにこのセットを用意しておいてほしいといわれている。オシャレぶってるつもりらしい。夫が帰宅するのは、夜十時過ぎ。夜も遅くにがっつりご飯を食べるのは太るから、ちょこっとのおつまみと、大好きなワインで仕事の疲れを取りたいんだ、と笑っていた。あっそう。じゃあ、私はいつ育児と家事の疲れを取ればいいわけ。夫のおつまみを用意して、夜泣きするモイラの世話をして、自分は同じ寝室で「うーん」とうなるだけ。モイラの夜泣きが聞こえないの。父親のくせに。
こんな毎日、いつまで続くんだろう。モイラは毎日成長していくだろうけれど、私は毎日老けていく。夫は外で仕事。色んな人と色んな会話をして、いきいきと走り回っている。私は家に閉じこもって、家事に育児、スーパーや子どもに関する施設を行ったり来たりするだけ。美容室にもネイルサロンにも行く時間はない。結婚する前は、エステにも行っていたけれど、これからは子どものためにお金がかかるだろうからって、行くのを止めた。子どもを産んだら体形も崩れたし、スキンケアも時間のなさにさぼるようになって、今では砂漠みたいになっている。十代のころはあんなにツルツルだったのが、嘘みたい。高校生のころ友達に「毛穴なくないっ?」っていわれたことが、自分の誇りだった。あんなにがんばって肌と向き合っていたのに、信じられない。今の私は何なの。
モイラのことを嫌いになりたくない。私の大事な子ども。私に似て、整った顔立ちをしてる。ぜったいに美人になる。夫の遺伝子なんか、一ミリも入っていてほしくない。モイラと双子コーデをして、町を歩いて「姉妹ですか?」っていわれるのが夢なの。だから、モイラのためにも少しでもきれいなママでいなくちゃいけないのに。どんどんモイラをうとましく思うようになる。モイラなんかいなければ、私はきれいな私のままでいられたんだよ。
それは、突然のことだった。いつものように、リビングにお昼寝布団を敷いて、モイラに絵本の読み聞かせをしていたとき。横になっているモイラがジッと、どこかを見つめはじめたのだ。何だかようすがおかしい。どうしたんだろうと、私はモイラの視線をたどった。
しかし、そこにはなんの変哲もない、我が家の低い天井が広がっているだけ。脳内で首を傾げながらも、私は絵本の続きを読もうとした。するとモイラが、ふっくらとした右手をあげて、いった。
「くさい」
「え?」
「くさいっ、くさいっ」
「も、モイラ?」
この子は意味もわからず、いっているんだ。あるいは、夫がたまに見ている動画サイトの影響だろうか。「まだモイラには見せたくない」と、あれほどいったのに、さっそくマネをしはじめてしまったじゃないか。
モイラが初めていう言葉は「ママ」か「パパ」、どちらだろうね、とよく話していたのに。その結果が、これ。がっかりだ。
まあ、はじめから諦めるしかなかったのだろう。今はテレビ、ラジオ、パソコン、スマホと情報があふれる世の中。よその家でも、こういうことはあるのかもしれない。我が家だけが特別、なんてことはないのだろう。
夫にどう伝えようか。モイラのはじめて発した言葉が「くさい」だなんて、ショックを受けるかもしれない。ただでさえ「大きくなっても嫌わないでくれよ」と、今から娘にうざったく泣きついているし。
さんざん悩んで、結局、真実はふせることにした。
夜、夫が帰ってくると、私は申し訳なさそうに耳打ちした。
「モイラ、しゃべったよ」
「ほ、本当? なんていってた?」
「バナナっていった。モイラの大好物だもんね」
「あらら。大好物に負けたかあ。動画は撮れた?」
「ごめん。一瞬だったから」
「だよなあ」
今は、これでいいか。いつかは、笑い話になる思い出だろう。その日がくるまで、夫には黙っておこう。「くさい、だったよ」と伝えて、気まずいことなっても面倒だし。
最近、モイラが泣くことが増えた。機嫌よく遊んでいると思ったら、急に泣きはじめる。オムツもミルクも問題ないので、とにかく抱っこをして、あやす毎日。
「モイラ。大丈夫だよー。ママ、いるよー」
「くさいっ、くさいっ」
モイラはそういって、とにかく泣いた。なぜそんなことをいうのかはわからない。モイラが泣くので、生ゴミはいつも真空パックに入れて、ゴミの日まで冷凍庫にしまっている。ゴミ箱にも消臭剤をつけた。洗剤も柔軟剤も、無臭のものに変えた。
あとはいったい、何がにおっているというの? くまなく家中を探すが、これといったものはこれ以上思い当たらない。
「モイラ、どうして泣くの? 何がくさいの? ママに教えて?」
「くさい……くさい……」
モイラはずっと、泣くばっかりだ。何がくさいのか、教えてくれない。もう少ししゃべれるようになるまで、耐えるしかないのだろうか。正直、うるさい。静かにしてほしい。最近、ご近所の目も気になってきた。虐待を疑われているような気がする。こんなに毎日泣くなんて、やっぱりおかしいんだろう。
「モイラ、病院につれてったほうがいい?」
夜、夫にたずねる。しかし、夫は手を洗いながら「うーん」と渋る。
「そんなににおいに敏感なら、このあいだ三人でいったカレー屋のスパイスカレーとかにも、いいそうじゃないか?」
「だって、それは食べ物じゃないっ」
「カレー屋を出たあともさ、ベビーカーひいてたのに、うっかり喫煙所のそばを通り過ぎちゃっただろ。タバコ吸ってる人がいたけど、モイラはくさいなんていわなかったよな」
たしかにタバコは服にうつるくらい、においが強い。でも、モイラは何もいわなかった。
「ただ、においに敏感なわけじゃないってこと?」
「うん。モイラはさ、うちのなかでしか〝くさい〟っていわない気がするんだよ。うちのなかのどこかに、モイラのきらいなにおいがあるんだと思う」
だったら何が嫌なの。生ゴミも洗剤も、におわないように対策している。他ににおうようなものなんて、思いつかない。ああ、もう面倒だ。夫は真剣に原因を調べようとしない。私の意見には、渋る。モイラはしゃべらないくせに、うるさい。いい加減にしてほしい。
「とりあえずさ。お腹すいたんだけど」
「ああ……何か食べるの?」
いらいらしながら、冷蔵庫を開けた。とたん、モイラがぐずりだす。動こうとしない夫をついにらみつける。すると夫は、あわててモイラを抱きに行った。
「モイラ。大丈夫だよ。ママがいるよー」
夫がモイラを抱きながら、私のもとへと歩いてくる。モイラを私に渡そうとしているのだ。やっぱり何もしないんだ。息をしているだけの、役立たず。無力な自分が恥ずかしくないの? 努力もしない、名ばかりの父親。何でこんなやつと結婚したんだろう。
瞬間、モイラの鳴き声が、悲鳴に変わる。まるで目の前でひどいことが行われているかのような、耳をつんざく声。
「モイラッ、どうしたんだ? お腹が空いたのか?」
「さっきあげたばかり! オムツも濡れてない。眠いの? 何が不満なの? ああ、もうわからない」
「落ち着けよ。絶対、理由があるんだからさ」
とたん、私のなかの何かがパン、と爆ぜる。頭のなかが真っ白になり、濁流のように口から言葉があふれ出てくる。
「あんたに何がわかるのっ? モイラに不満があるって、どうしてあんたが決めつけられるのっ? 今だって、モイラを抱いて、すぐに私に渡そうとしたくせに! 育児も家事も、何もかも押しつけて、あんたは会社で同僚とだべって、楽しい思いして、そりゃ充実した毎日でしょうね! 月に一回散髪して、自由に時間使って、気まぐれに子どもあやして、そりゃ楽な毎日でしょうね!」
ひやり。冷たい風が、足首をなでる。冷蔵庫が開けっぱなしになっていた。ため息をつきながら、やけくそ気味にバタンと閉じる。すると、モイラのぐずりが毒気をぬかれたように、スッとおさまっていく。
モイラのようすに、私はためしに冷蔵庫を開けてみる。すると、スイッチが入ったようにモイラが夫の腕のなかで、じたばたと暴れ出す。
「くさいっ、くさいっ」
「も、モイラ……?」
思い返すと、モイラが泣くのはいつも、冷蔵庫を開けたときだったように思われた。
モイラが昼寝をはじめ、一人のんびりおやつでも食べようかと、開けたとき。
買い出しに行こうと冷蔵庫の中身を確認しようとしたときや、夫の夜食を作ろうとしたとき。モイラは、爆発したように泣き出すのだ。
ブーン。静かな新築一戸建てのキッチンに、冷蔵庫のモーター音が響く。
この家は、モイラが生まれたときに、ローンを組んで買ったものだ。家を買うのに無理をしたので、家具はほとんどリサイクルショップで買った中古品だった。今どきは、すぐにものを買い替える人たちが多いのか、目立った傷もなく、きれいなものばかりだったのでありがたかった。
この冷蔵庫も、そうだ。観音開きの、有名メーカーのもの。年式も新しく、目立った汚れもない。くさいわけが、ない。
「モイラ? これが、くさいのか?」
夫が、冷蔵庫にモイラを近づける。するとモイラは、狂ったように泣き出した。
「くさいいいいい! くさいいいいいい!」
「モイラ! もう閉める! 大丈夫、もう閉めるからお願い、静かにして!」
叫びながら、私は冷蔵庫を閉めようと、ドアに力を込めた。しかし、閉まらない。いつもしている動作なのに。子どもの頃からやり慣れた行為なのに、うまくできない。ドアが壊れた? そんなはずない。この一瞬で、ドアの繋ぎ目に、接着剤でも入れられたかのように、かっちりと動かない。
「ど、どうした?」
「閉まらない」
モイラが泣いている。苦しそうに。閉めなくちゃ。気持ちは焦っていくばかりだ。手汗で、取っ手を掴む指先が滑りはじめる。モイラがからだをのけぞらけ、よだれを垂らしながら叫ぶ。
「くさいいいいいい! ああああああ!」
夫がモイラを私に預け、閉めようとしてくれる。やはり閉まらない。夫の顔は紙のように真っ白だった。肩で息をしている。私の心臓も、早鐘のように打ちつけていた。
その時、ぷん、と鼻をつく悪臭が部屋に流れはじめる。生ゴミが発酵したような、腐った川のような、思わず鼻をつまみたくなるにおいに、吐きそうになる。
隣で、ドサッと何かが倒れる音がする。夫が、口から泡を吹いて床に転がっていた。声をかけようとするが、喉が開かない。自分自身も、モイラを抱えているだけで精一杯だった。冷蔵庫の冷気が、私の全身をひんやりと包んだ。ああ、くさい。きもちわるい。私は、泣き叫ぶモイラを必死に抱きしめた。
ごろん、と床で何かが転がる音がする。夫だろうか、と床を見下ろす。
「ひいっ」
服を着た、肉のかたまりが落ちていた。四角い型に押し込められたように、手と足がていねいに折りたたまれた、人間のかたまりだ。顔は両ひざの間に入れられていて、見えない。皮膚は雪のように白く、完全に凍りついていた。どこから転がってきたのだろう。私は冷蔵庫のなかを確認する。今日、買い物に行ってきたはずなのに、食材がひとつも入っていない。
ちょうど、人ひとり入るぶんのスペースがぽっかりと空いていた。
「くさいいい! くさあああいいいいい!」
モイラが泣いている。夫も倒れてしまった。閉めなくちゃ。この冷蔵庫を。お願い、閉まって。ああ、冷蔵庫の冷気が、部屋中に浸透していく。何もかも、冷やされていく。
二十年ほど前、一枚の行方不明者のポスターがこのへんで出回った。ポスターは、未だに近所の掲示板のすみに貼られている。このあいだ、たまたまそれを見かけたことを薄れゆく意識のなか、私は思い出していた。
ポスターの行方不明者が着用している服と、肉のかたまりが着ている服が似ている。二十年ほど前に流行った、有名メーカーの服だ。
それにしても、冷える。
目の前の箱に入って、この寒さから逃れなくては……。
おわり
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