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そこから歩いて5、6分くらいで犬塚の住む家に着いた。
道中コンビニはあったし、銀行も郵便局もあった。
彼の言う通り、便利はいい。
ただし古い団地をリノベーションして貸し出しているためエレベーターがないのが少し難点だが、これも日々のトレーニングと思えば妥協できる範囲だ。
五階建ての三階まで上がると犬塚は慣れた手つきで鍵を開けた。
「散らかってるけどどうぞ」
「お邪魔します」
玄関を入って扉一枚越えるとそこは広さ13畳ほどの洋室だった。
そこに小さなシンクや冷蔵庫、テレビなどの家電や家具が置かれている。
ブランドのにおいの一切しない、シンプルで生活感溢れる部屋。
この部屋だけ見たら、彼が元ナンバーワンホストで毎月バカみたいに金を稼ぎ好き放題使っていた男だなんて誰も想像しないだろう。
「向こうが洗面所でこっちがトイレ。好きに見てっていいぜ」
犬塚は固まっているはじめの手から袋を取り上げると、食材を取り出していく。
「あ、ありがとう」
はじめは犬塚に指された場所を恐る恐る覗きにいった。
犬塚の部屋なのは確かなのだが、やはりどこもかしこもらしくなくて拍子抜けしてしまう。
次第に今いる犬塚ははじめの知ってる犬塚ではないんじゃないかというおかしな考えまでわいてきた。
しばらくするとトントン、と何かを切る音が響きだす。
風呂場を見ていたはじめが戻ると、スーツの上着だけを脱いだ犬塚がキッチンで野菜を切っているところだった。
「本当に…料理とかするんだ」
驚きのあまりついポロリと溢れた言葉に犬塚がニッと笑う。
自分の容姿や接客を褒められた時に見せていた笑い方だ。
「はじめも腹減ってるだろ?すぐできるから待ってな」
「や、さすがにそこまでお世話になるわけには…」
「いいって、買い物付き合ってくれた礼だ」
そう言って犬塚は再びまな板に目を向けると丸々とした白菜にザックリと包丁を入れる。
はじめは思わずヒヤッとした。
その包丁捌きがあまりにも辿々しかったからだ。
「や、いや、あの手伝うよ。その方が多分早いから」
ご馳走になるつもりは全くなかったのだが、犬塚の包丁捌きにひやひやしたはじめは、ついつい手を伸ばしてしまっていた。
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