沈黙のカラオケ

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 部屋番号を確認し中を覗く。北原と新野の姿が見えた。よし、この部屋であっている。意気揚々と扉を開けた。 「お待たせ。悪いな、部屋より先にトイレへ行っちゃって」  二人揃って俺を一瞥した。扉を閉める。外の音が遮断された。折角のカラオケだと言うのに、二人ともマイクを置いたままだ。 「何だ、待っててくれたのか。先に歌って良かったのに」  俺の言葉に北原が頭を掻いた。新野は微動だにしない。結構酔っているはずだが、真っ直ぐ背筋を伸ばし座っている。二人を尻目に腰を下ろす。誰も動かない。耳が痛くなるほどの静けさが部屋を満たしていた。違和感を覚えカラオケの機械に目をやる。テレビ画面では知らない女の人が口を動かしていた。しかし音が出ていない。ボリュームを確認すると、ゼロと表示されていた。カラオケなのに、音量がゼロ。存在意義を奪われている。 正面の新野を見る。あれ。こいつのスカート、画面の女の人と一緒だ。弄ろうかな。そう思ったが、あまりに表情が無くて躊躇した。視線は北原へ向けられている。見詰められる当人は、テーブルを眺め、手で膝を細かく擦り、踵を浮かしたり下ろしたりを繰り返した。 沈黙。こんなに静かなカラオケは初めてだ。 「え、何で歌わないの」  素直に疑問を口にする。こんなに静まり返ったカラオケなんておかしい。歌うどころか誰も喋らない。さっきまでいた居酒屋では二人とも普通だった。それがちょっと目を離した隙に沈黙のカラオケとは。 「何があった。どうして二人とも黙りこくっている。こんなに静まり返ったカラオケがあるか。北原、やけにそわそわしているな。新野を怒らせたのか。個室なのをいいことにセクハラでも働いたか」  酔いもあって言葉が流れる。北原は顔を逸らした。何でもない、と消え入りそうな声が聞こえる。 「それならそっぽを向くな。おい、新野。大丈夫か」 「告白された」 「は?」  新野が長い手を水平に上げた。人差し指で真っ直ぐ北原を指す。 「今、こいつに告白された」  北原の貧乏揺すりが加速する。言うなよ、とアホが叫んだ。 「告白? 北原が新野に? 今?」 「そう」 「答えは?」 「ノー」  北原が、がっくりと肩を落とす。そうか、告白して振られたのか。沈黙に合点がいった。 「やけにそわそわしていると思ったらこれだよ」  そうこぼし、新野が首を振る。俺は頭を抱えた。三人とも黙り込む。今日は何を歌おうか。この三人では久々のカラオケだから、増えた持ち歌を披露しよう。トイレにいる時はそんな風にうきうきしていたのに、まさかこんな事件が起こるとは。顔を上げる。 「北原。何で今、告白したんだ」  なるべく抑えようと務めるも、どうしたって怒気が滲む。北原は弱々しく俺を見上げた。 「いけるかなって」  こめかみを押さえる。駄目だ、酔いも手伝って感情の制御が難しい。思わず立ち上がった。 「いけるかな、じゃねぇよ。始発が動くまで、あと四時間もある。朝まで開いてる店はここしか無い。俺達は他に行き場が無いんだ。それを入室初手で告白だと。何してくれとんじゃ」 「いや、その、いけるかなって天啓が」 「天啓じゃねぇよ思い付きだろバカ」  俺が口を閉ざすと静けさが帰って来た。防音設備がしっかりしているため耳が痛くなるほど音が無い。凄いな、カラオケ屋。感心している場合では無い。 「あのさあ、超気まずいんですけど。折角、大学のサークルで同期だったお前らと久し振りに会って、楽しく飲んで、今日は朝までカラオケだって盛り上がっていたのにさぁ。何で告白しちゃうんだよ。今じゃないだろ。せめて朝まで待てよ。早いんだよ。早過ぎるんだよ。まだ飲み物すら来ていないんだよ」 「だからあの、いけるかなって」 「根拠の無い自信、やめろ。実際いけなかったし。いいよ、告白しても。でも俺が帰った後にしてよ。一緒にいる間に失敗するとこんな風になるから。逃げ場が無いのに、振った人と失恋した人と個室で四時間過ごさなきゃならんのだよ? 巻き込むな。ちゃんと考えてから行動しろ。それと新野もさ、すぐに振らなくても良くない? 断るとしても、一旦回答を保留してこの場は収めるとかあったじゃん」  新野がこちらに視線を合わせた。その冷たい目は、怒れる俺をもたじろがせた。 「決まっている答えを口にして、どうして私が責められる」  正論だ。でもそういうことじゃない。 「無理なものは無理ってことはわかる。でも俺の身にもなってよ。この中で唯一蚊帳の外なのに、滅茶苦茶居たたまれないんですけど」 「知らん。無理なものは無理。言わなきゃ伝わらない」  俺達のやり取りを聞いた北原が挙手をした。 「あんまり無理なもの無理なもの言わないでくれる? 振られた上に傷付くよ」 「黙れ戦犯」 「誰のせいでこうなったと思っている」  双方向から撃墜されて、ゆっくりと手を下ろした。すいません、とか細い謝罪が聞こえる。またも沈黙が降りた。俺の知っているカラオケとは、歌ってはしゃいで楽しむものだ。こんなに静かで気まずいなんて、座禅でも組めってのか。悟りの一つや二つ、開けそうだ。その時、悟りではなく扉が開いた。 「お待たせしました。お飲み物でございます」  振り返る。店員さんと目が合った。一瞬躊躇ったように感じたが、淀みなく酒をテーブルに置いてくれた。お盆を胸に抱き、ふと首を傾げた。 「お客様、機械の不具合でしょうか。音が出ていないようですが」  その言葉に、新野が笑顔で応じる。 「大丈夫です。ちょっとお喋りしたくて、音量を落としているだけなので」  一見柔和なのが余計に怖い。こいつは怒らせると怖いのだ。告白されたら、返答はどうあれ嬉しいものだと思うのだが、如何せんタイミングが悪すぎた。楽しい宴をぶち壊されればいくら好きと言われても腹が立つだろう。しかし店員さんはそんな事情を知らない。そうですか、と快活に部屋を出て行った。妙に気が抜けて座り直す。北原がそれぞれの前に酒を置いた。 「じゃあ、乾杯しようか」 「何にだよ。振られたお前にか」  俺のツッコミに、新野が深く頷いた。 「それで行こう」 そして本当にグラスを掲げた。渋々合わせる。 「乾杯」  やけくそ気味に酒を煽る。飲まなきゃやっていられない。 「こんなに気まずい乾杯、初めてだよ」  ジョッキを置いてそう愚痴る。確かにな、と戦犯が同意した。自分が原因だとわかっているのか。それにしても一息で半分以上飲み干してしまった。同じ物を頼もうと内線電話を手に取る。 「田中。私も同じの」  新野のグラスを見る。こちらは既に飲み干されていた。 「芋焼酎のロックだっけ」  無言で頷く。酒に強いのは知っているが、流石に大丈夫か。まあ新野も俺と同じ気持ちなのだろう。いや、もっとイラついているかも。俺達を見て、北原は慌ててジョッキを持ち上げた。俺も同じの、と叫ぶ。 「別に急いで飲まなくてもいいんだぞ」  北原の返事を聞く前に、店員さんが電話に応じた。ハイボールを二つと芋焼酎を頼む。やれやれ。 「よし、折角来たんだし歌うか」  北原が今度はタッチパネルを手に取った。 「マジで? このくたばり切った空気の中、お前歌えるの?」 「歌える。むしろ歌いたい」  ふっと新野が微笑んだ。背筋に冷たい物が走る。気付いていない北原はマイクを掴んだ。色々大した奴だよ、お前は。しかし待てど暮らせど音が出ない。とうとう歌詞が表示された。 「あ、そうか。音量を戻さないと」  いそいそとボリュームを上げ、俺が消したんだったよと舌を出した。 「そもそもどうして音を消した」  俺の問いは、流れ始めた音楽に潰された。大方、告白するのに邪魔だから、というところか。するなよ、カラオケで告白なんて。とても歌う気にはなれなくて、でも他にすることも無いから歌詞を眺める。 「この想い、君に捧げる」  思わず北原を振り返る。あろうことか、奴はラブソングを歌っていた。ご丁寧に、捧げる、のところで新野に手を差し伸べた。女傑は一瞥し、相変わらず微動だにしない。もしフォークやナイフがあったらあの手を刺したのではないか。そんな物騒な想像が過ぎった。  三分後。北原がマイクを置いた。 「よく歌えたな。愛の歌なんて」  感心と呆れが入り交じる。アホはゆっくりと両手で顔を覆った。 「きつい」 「だろうな。どうしてこの曲を歌っちゃったんだよ」 「いけるかなって」 「見直した方がいいと思うよ、お前のいけるかな。まだ心の傷がぐじゅぐじゅどころか出血している状態だろ。重傷になるのはわかり切っていた」  肩を叩く。開き直ってくれた方が空気は良くなる。だが早過ぎる。まだ無茶だ。俺達を尻目に新野がタッチパネルを操作した。おや、お前も歌うのか。沈黙よりはよっぽどいい。派手なギターの音が流れ出す。 「地獄の果てでケツでも拭いてろ」  物騒な歌詞に固まる。ロックなのかメタルなのか、音楽には明るくないからわからない。ただひたすらにおっかない。四分後。新野がマイクを置いた。 「ひょっとして、ぶち切れていらっしゃる?」  恐る恐る問う。 「答える必要、ある?」 「すいません」  俺が怒られる謂れは無いのだが頭を下げる。大学からの付き合いだが、怒った新野を見るのは二回目だ。初めてはサークル合宿でのことだった。夜の八時に飲み始め、日付が変わった頃のこと。いくつかのグループに分かれてだらだらと飲み続けていた。俺は新野と部屋の隅に座って騒ぐ奴らを眺めていた。 「皆、元気だね」  そう言いながら俺のコップに焼酎を注いでくれた。炭酸水を足して適当に揺らす。 「さっき前野と西田が外へ行ったぞ。告白でもするのかね」 「合宿で告白とは、またベタな」  新野は鼻で笑い焼酎を煽った。俺と違いストレートで飲んでいる。 「お前、氷なり炭酸なり入れろよ。せめて水を飲むとかさ。消化器系が死ぬぞ」 「大丈夫だよ。まだ若いから」 「若い内からそんな飲み方をするんじゃないの」  手近なところにあった氷をつまむ。ほれ、とグラスに押し込めた。新野はぼんやりと眺めていた。 「ありがと」  小さなお礼が聞こえる。おう、と俺も酒を飲んだ。宴会場の中央では、部長と副部長が全力であっちむいてほい対決を繰り広げていた。首を痛めるのではなかろうか。 「私達、どうしてこんなにお酒を飲んでいるのかな」  不意に新野が呟く。彼女はグラスを目の高さに掲げた。どうしてって。 「親睦を深めるためだろ」 「お酒を飲んだら話したことを忘れちゃう」 「飲み過ぎなければ大丈夫。酔えば口は軽くなるし、心が近くなるんじゃない」  視線をグラスから俺に移した。 「じゃあ全人類が酔っ払っていたら世界は平和になるのかな」  各国の偉い人達が、肩を組み千鳥足で歩いている様を想像する。酒瓶を提げた者。物陰で吐いている者。各々自国の酒を持ち寄り、互いに飲ませて胸を張る。いいなこれ。思わず吹き出した。 「意外と名案かも知れんぞ」 「平和賞でも貰いたいね」 「実現したらな」  その時、先輩達が寄って来た。このお二人、同棲しているんだっけ。ませておりますこと。彼氏の方は大分酔っ払っていた。 「田中と新野か。お前ら仲良いな。付き合っているのか」  面倒臭い絡み方だ。まさか、と言いかけた時、新野がグラスを置いた。 「男女が仲良くしていると、すぐにそう言う目で見る人っていますよね。脳と下半身が直結しているのですか。大学生にもなってガキみたいなことを仰るものではありません」 「どうした新野。そんなもの言いは良くない」  慌てて口を塞ぐ。こいつ飲み過ぎてて、と代わりに頭を下げた。何だよ、と眉を顰める彼氏さん。しかし彼女が手を引いた。 「マー君も、うざ絡みはやめな。ごめんね田中君。新野さんも、あんまり怒らないで」  そして何処かへ去って行った。もっと飲んで今の記憶を無くしてくれ。いや、既に危ないかも知れない。やれやれ、と酒を口に運ぶ。 「おっと、すまん」  新野の口から手を離す。うっかりしていた。新野は珍しく目を丸くしていた。苦しかったのかな。 「まあ俺はお前の意見に賛同するけどさ。あまりわかりやすく喧嘩を売るな。俺、喧嘩と悪口は好きじゃないんだ。それにお前が心配だ。暴力でやり返されるんじゃないかとか、新野が嫌われ者になっちゃうんじゃないかとか、色々気になっちゃう」  話しながら、俺も酔っているなと自覚する。喋らなくていいことまで伝えている。新野がこちらを向いた。だが、言葉を紡ぐ前に今度は北原が転がり込んで来た。 「おい、前野と西田がくっついたぞ。めでたいのう、祝い酒じゃ。乾杯」  一息に叫び酒を飲む。こいつ、絶対明日は二日酔いだな。 「はいはい。めでたいめでたい」 「何だよ田中、その取ってつけたような言い方は」 「興味無いもん」 「ほら、新野も乾杯」  返事は無い。北原の方を向いた顔を覗き込む。唇を噛み締め、目を見開いていた。先輩への対応時とは比べ物にならないほど怒りが充満している。 「え、どしたの新野。怒ってる?」  問い掛けにも答えない。一心不乱に北原を凝視している。しかし酔っ払いは気付かない。勝手に新野のグラスへ自分のコップを当てた。大丈夫かな。首でも絞められるんじゃないかな。はらはらしたが、事が起こる前に北原は別の集団の元へと走って行った。胸を撫で下ろす。 「どうした。急にぶち切れて」  振り返ると新野の表情は元に戻っていた。 「別に怒ってないけど」  おかしい。見間違いか。俺も酔っているからな。いや、でも確かにとても怖い顔をしていた。前野のことが好きだったとか、西田に約束を破られたとかだろうか。まあいい。本人が否定しているのにわざわざつつくことも無い。そうか、とだけ答えてまた酒を飲んだ。  あれより前にも後にも新野の怒った顔は見たことが無い。先輩へ喧嘩をふっかけた時も怯えたが、その後の怒り顔を思えば牽制程度だったのだ。そう言えば前回のぶち切れも北原が発端だった。よく告白出来たな。 「次、田中が入れろよ」  地雷踏み抜き男がタッチパネルを寄越した。順番からすれば確かに俺の番だ。気乗りはしないが仕方ない。朝まで暇だし歌うか。曲名を入れかけ手が止まる。これは片想いの歌だ。やめよう。別の曲名を入力し、また躊躇する。これは付き合いたてのカップルをいじる歌。違う奴。これは駄目。こっちもいかん。 「おい、日本の音楽って恋愛要素だらけじゃねぇか。気まずくて入れられん」  タッチパネルから顔を上げ、半泣きで二人に訴える。新野は指でテーブルを軽く叩いていた。アルコールが無くなったからって苛々するんじゃない。飲み干しちゃったのはお前だろ。 「気にするなよ田中。俺なんて盛大に自爆したぞ」 「爆発が派手過ぎて参考にならん」  思案の結果、好きな野球チームの応援歌を熱唱した。その間に追加の酒が届いた。すぐに煽る。もっと酔いが回れば些細なことは気にならなくなる。飲んで、歌って、重たい空気を吹き飛ばそう。二人も次々酒を頼み、順番に歌った。最初の静けさが嘘のように盛り上がった。北原はトイレと部屋を何度も往復し、新野は焼酎のロックに入っている氷を一つのグラスに貯め込んで溶けた氷水をチェイサー代わりにしていた。俺もマイクを握り立ち上がった。 「楽しいな」  そう叫んだところまでは覚えている。  気が付くとソファで眠っていた。鳴り続ける内線電話を震える手で取る。 「お客様、退店十分前です」  店員さんの声が遠くに聞こえた。わかりました、と受話器を置く。振り返ると北原も新野も眠っていた。よろめきながら二人を起こす。俺達はいつから寝ていたのか。やけくそで大騒ぎをしたが、朝を待たずに力尽きた。  二人を先に行かせ支払いを済ませる。外へ出ると北原は膝に手をついていた。新野は壁にもたれている。 「金、面倒だから今度くれ」  俺の言葉に唸り声と掠れ声が答えた。駅まで歩く道すがら、朝日が顔を出した。光と熱で目が覚める。 「駄目だ。俺、タクシーで帰る」  全然酔いの冷めない北原は、そう言って手を振った。 「また遊ぼうな。三人で」 「お前、それよく言えたな」 「あんたのせいで全員気まずかったんだからね」 「新野がオッケーしてくれればこんなことにはならなかったのに」 「とっとと帰れ」  新野が北原の尻を蹴飛ばした。こりゃまた珍しい。照れ隠しか、怒っているのか。 「またね」  新野の言葉に、おう、とかろうじて親指を立てて北原はタクシー乗り場へ向かった。残った二人、並んで歩き出す。朝の街はまだ静かで、でも動き出す人達の微かな音がそこかしこから聞こえた。昼間は気付かない、小さな音。初めて徹夜で遊んだ日、初めて気付いた。妙に嬉しかったっけ。 「どしたの田中。にこにこしちゃって」  顔に手を当てる。確かに口角が上がっていた。まだ酔っているな。 「早朝って昼間は気付かない音がたくさん聞こえるじゃん。空気の振動とか、遠くを歩く人の足音とか、窓を開ける音とか。俺、好きなんだよ。そういう、日中にも在るはずなのにこの時間じゃないと聞こえない音」  新野は足を止めた。目を瞑り、程なくして開ける。 「聞こえた」 「だろ?」  共有出来たことが嬉しい。再び歩みを進める。駅はすぐそこだ。構内に入り電光表示板を見上げる。新野の上り電車は十五分後。下りの俺は十七分後。ベンチに並んで座る。傍の自販機で水を二本買い、一方を渡した。ありがと、と何故かそっぽを向く。こいつもまだ酔っ払っているな。  耳を澄ませる。大して時間が進んだわけでもないのに、少しずつ音が増えていた。こうして街が目覚めて、人が行き来して、小さな音達は埋もれていく。いなくなるわけじゃないのに、ちょっと胸が締め付けられる。  ふと新野に目をやると、やたらに線路の左右を見たり、水を飲んだりラベルを剥がしかけて貼り直したり、膝を擦ったりしていた。 「新野。お前、何かそわそわしてない?」  俺の言葉に身を強張らせる。どうした、お前らしくもない。トイレか。それならすぐに行くか。時間はまだあるし、歩けないほどには酔っていない。 「あ、ひょっとしてお別れが寂しいのか。なんだかんだあったけど、楽しかったもんな」  声を上げて笑う。突然こちらに振り向いた。じっと俺の目を見詰める。 「おい、本当にどうした」  その問いに対する答えを聞いた瞬間、世界から全ての音が消えた。小さな音達も何処かへ行った。新野の声だけが、耳に届いていた。  滑り込んできた下り電車へ二人並んで乗り込む。高揚を覚えつつ、頭の片隅で謝罪を一つした。  北原。なんか、ごめん。
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