静かな夜に流れる玉

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静かな夜に流れる玉

   僕の住む町では、一年に一度、「忘れ玉流し」という行事が行われる。  夜中、家族が寝静まると、僕は家を抜け出し川へと向かった。家族に内緒で家を出たことが後ろめたくて、僕は全力で走った。今日は今年の最高気温を記録した。だから夜中でも暑くて、川に着くころにはTシャツがびしょびしょになっていた。    川のほとりにはたくさんの人が集まっていた。だけど、誰も言葉を交わしておらず、まるで誰もいないかのような静けさだった。  そこにいる人はみんな光った玉を掌に乗せていた。おそらくあれが忘れ玉なのだろう。忘れ玉が暗闇の中、大きな蛍みたいにぼんやりと光っている。 忘れ玉は、頭に鉢巻を巻いたおじさんが配っていた。 「はいよ、ボウズ」 おじさんはサンタが持っていそうな袋から忘れ玉を取り出し、僕に渡してくれた。 「ありがとう」 掌に乗せた忘れ玉は、やっぱり蛍みたいで綺麗だった。 「いいか。忘れ玉を川に流す時に忘れたい人の顔を思い浮かべるんだ。たったそれだけで、川から海に流れ着くころには忘れたい人の顔や、思い出、存在そのものまで全て忘れることができる」  おじさんがそう言うと、僕の肩をポンと叩いた。  僕はさっそく川岸に近づいた。これで、じいちゃんのことを忘れられる。そう思うと少し気が楽になった。 「あれ、大吾君」  女の人から声を掛けられた。その人の掌にも忘れ玉が光っていた。光に照らされた顔をじっと見ると、その人はケーキ屋さんのお姉さんだった。 僕の家は誕生日やクリスマスには必ずこのお姉さんの働くお店でケーキを買う。今年の誕生日も野球ボールに見立てたケーキを作ってもらった。たしか、バースデーケーキのプレートに名前を書いてくれたのもこのお姉さんだ。 「こんばんは」と挨拶をすると、お姉さんは挨拶を返さずに、 「大吾君、小学生なのに忘れたい人がいるんだ」と静かに笑った。  笑ったものの、お姉さんはどこか元気がなかった。そういえば、ここにはお兄さんもお姉さんもおじいさんもおばあさんもいるけど、みんな暗い顔をしている。それに誰も言葉を交わしていないから僕たちの声だけが不自然に大きく聞こえる。 「お姉さんは誰か忘れたい人がいるんですか?」  僕は周りに気を使って小さな声で訊いた。するとお姉さんは「えっ」と一瞬表情が固まった。  お姉さんと僕の間に変な空気が流れた。こんなことなら訊かなければよかった。 「付き合っていた人に捨てられちゃったんだ……」  お姉さんは寂しそうに言った。  捨てられたとはフラれたということなのだろうか。僕にはよくわからなかった。 「大吾君は誰を忘れたいの?」  お姉さんに訊かれた。だけど、言葉が出ず、僕は沈黙してしまった。 「あっ、別に言いたくなければいいよ」 「ごめんなさい。僕から聞いたのに」 「いいよ。その代わり今日ここで会ったことは内緒ね」と人差し指を自分の唇に置いた。  別に答えてもいいと思った。だけど「じいちゃんを忘れたい」なんて言えば、「どうして?」と訊かれると思う。その理由を話すのが嫌だった。 「じゃあ、大吾君。川に流そうか」  お姉さんはそう言うと川の方に歩き始めていた。その後を僕は追いかけた。 「私が先に流すね」  川岸に着いたお姉さんは掌の上で光っている忘れ玉を見つめて、小さくため息をついた。そして「よし」と小さく呟き、忘れ玉を握り締めてからしゃがんだ。きっと今、付き合っていた人の顔を思い浮かべているのだと思った。 しかし、お姉さんはしゃがんだまま、中々忘れ玉を手から離そうとしない。 「どうしたの?」  不思議に思った僕は尋ねた。 「おかしいな。手を離せばいいだけなのに。なんでだろう、体が固まっちゃった」  振り向いたお姉さんは今にも泣きだしそうだった。 「ダメだダメだ。彼には奥さんも子供もいる。忘れなきゃ。忘れなきゃ」  お姉さんは自分に言い聞かせてから、再び川の方を向いた。そして忘れ玉をそーっと川に流した。  お姉さんの忘れ玉は、他の人の忘れ玉と一緒にゆっくりと流れていった。暗闇にぼんやりと浮かび上がる光の玉の美しさに、僕は見とれていた。お姉さんも自分が流した忘れ玉をしばらく目で追っていた。 「私、帰るね。じゃあね大吾君」  お姉さんは僕に手を振ると、目元を抑えながら走ってこの場を後にした。お姉さんの目が真っ赤だった。  次は僕の番だ。  おじさんに説明されたように、僕はじいちゃんの顔を思い浮かべた。思い浮かべたじいちゃんの顔はやっぱり目をつむっている。この顔を思い出すと必ずあの日の記憶がよみがえる。  二年前、僕はじいちゃんを殺した。  その頃のじいちゃんは家でずっと寝たきりだった。病気で長く入院していたけど、退院して家で過ごしていた。過ごしていたと言っても鼻にチューブが差し込まれていたし、会話もろくにできなかった。お母さんの話によるともう助からないとのことだった。  あの日も今日みたいに暑い日だった。いつもだったらお母さんがずっと家にいて、じいちゃんの看病をしていた。だけどその日はPTA役員の仕事があって、お母さんは家を空けることになった。だから僕が代わりに留守番をすることになっていて、「おじいちゃんに何かあったらすぐに私の携帯に電話してよ」とお母さんからきつく言われていた。  じいちゃんと僕は、物心ついたころから仲良しだった。今、僕は野球に熱中している。きっかけはじいちゃんが大の野球好きだったからだ。初めてキャッチボールをしたのもじいちゃんとだったし、野球チームに入ってから試合を見に来てくれるのもいつもじいちゃんだった。すごく元気なじいちゃんだったから、病気で寝たきりになった姿を見るのが辛かったし、そんなじいちゃんと二人きりで家にいるのは耐えられなかった。それだけが理由ではないけど、僕はお母さんの言い付けを破って、じいちゃんを一人残して野球をしに出掛けてしまった。  公園で友達と野球をし、辺りが暗くなってから家に帰ると、家の前に救急車が止まっていた。  じいちゃんは死んでしまった。脱水症状らしかった。    殺したのは僕だ。それは間違いなかった。  あんなに大好きだったじいちゃんが死んだのに、お葬式のときもなぜだか全く悲しくなかった。だから涙は一滴も出なかった。 こんな酷いことをしたのに、お父さんもお母さんも僕を責めなかった。それが余計に辛かった。こんなことなら怒られた方がマシだった。怒られてわんわんと泣きたかった。  それからというもの、野球をしていても、ゲームをしていても、時々じいちゃんの顔が浮かぶ。楽しい時間にかぎってじいちゃんは僕の中に現れる。じいちゃんの眠ったように死んでいる顔を思い出すと、苦しくて息ができなくなる。もう忘れたい。じいちゃんを忘れて楽になりたかった。  静けさの中、川のせせらぎを聞きながら、僕は掌で光っている忘れ玉を見た。そして、もう一度じいちゃんの顔を思い浮かべた。やっぱりじいちゃんは目を閉じたままだった。いつものように苦しくなる。でもこれも今日で終わりだ。  僕は大きく振りかぶって忘れ玉を川に放り投げた。できるだけ遠くに投げたかった。僕の投げた忘れ玉は、ポチャッと水面を揺らすと、プカプカと浮かんでゆっくりと流されていった。良いフォームで投げることが出来た。こんな時にも野球のことを考えてしまう。 そういえば、このファームは、じいちゃんがよく褒めてくれた。 「大吾のフォームはきれいだな。これならプロ野球選手になれるぞ」  キャッチボールをするとじいちゃんは必ず大絶賛した。 試合を見に来てくれた時、僕がヒットを打つと「大吾―っ。でかしたぞー」と、どの親よりも大きな歓声を上げた。僕としては恥ずかしかったけど、じいちゃんは皺くちゃな顔で嬉しそうに笑っていた。  あれっ、おかしいな。この二年間。僕の中でじいちゃんはいつだって目をつむっていたのに、今僕が思い浮かべているじいちゃんは笑っている。懐かしい顔だった。  僕は自分が投げた忘れ玉を見た。ゆっくりだけど徐々に流れされていく。あれが海にたどり着くころには、じいちゃんのことを忘れてしまう。楽しかった思い出もなくなってしまうんだ。  気づくと、僕は忘れ玉が流れていく方向へ歩き始めていた。いつのまにか川の流れが速まった気がした。それに合わせて僕は走った。  忘れ玉に追いつくと、僕は川の中に足を踏み入れた。足元には誰かが流した忘れ玉が僕の足にまとわりつくように光り輝いている。 足を入れたときは足首までだったのに、忘れ玉目掛けて進むごとに、徐々に体が沈んでいく。もうすぐ膝まで浸かってしまいそうだ。川の流れが激しくなって、足が前に進みづらくなった。その間にも忘れ玉が遠ざかっていく。 「待ってーっ」  僕は大声を上げていた。 「おいっ、何やってんだ」  誰かが怒鳴りながら僕の腕を引っ張った。振り返ると、その人は忘れ玉を配っていたおじさんだった。 「忘れ玉が、忘れ玉が行っちゃう」  忘れ玉を指差しながら、僕は泣き叫んだ。 「まったくしょうがねえな。お前は岸に上がってろ」  おじさんは恐い顔で僕の背中を押すと、川に飛びこんだ。おじさんはクロールで忘れ玉の中をかき分けていった。そして、僕の投げた忘れ玉を掴むと、あっという間に岸まで泳いで帰ってきた。  川から上がると、おじさんは僕に忘れ玉を手渡した。 「ありがとうございます」  全身ずぶ濡れのおじさんに、僕は泣きながら何度も頭を下げた。  おじさんは頭に巻いていた鉢巻で顔を拭くと、僕の頭に手を置いた。 「ボウズ、誰だって忘れたいことはあるし、忘れたい人はいる。それによって苦しんでいる人がいることもたしかだ。だから忘れ玉があるんだ。ただ、忘れ玉なんかなくても嫌なことを忘れることができるのが人間だ。だがな、忘れずに心に後悔や罪悪感を抱えながら生きていくのも人間だ」  僕は何も返すことが出来なかった。ただ涙が溢れて止まらなかった。  しくしくと泣き続ける僕の頭を二度ポンポン叩いた後、おじさんは僕の目線まで屈んだ。 「それにしても良いフォームだったな」  おじさんが皺くちゃな笑顔で僕の目をじっと見た。  一瞬、一瞬だけど、じいちゃんに似ていると思った。
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