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あー苦手だ。
俺は今図書館にいる。
俺は沈黙の空間が苦手だ。だからと言って沈黙を打ち破るような勇気もない。
それなのに俺は図書館にいる。図書館は沈黙の場所という固定概念が俺の中では永遠に漂っている。正直、読書はあまり好みではない。即ち、静けさに溢れた図書館も同様に好きではない。
なのに、俺はーー。
俺はとある会社で働いている。その会社はそこそこ有名で社員はざっと40人。俺は色々と不器用だから社内では底辺な社員だ。会社では勝手に拡散が生まれてて、優秀で温厚でただ単に「人に好かれる人」が常にトップに君臨してる。人間は案外そういう人ほど裏表が激しいんじゃないか、とつくづく思う。事の始まりは数日前、俺がいつものように資料の作成を行なっていると、突然部長が俺を呼んだ。何の用かと俺は部長の後についていく。小さな個室に入ると部長はいきなり怒鳴り声をあげた。
「お前、なぜ昨日あんなことをしたんだ!」
「え…」
俺は全く意味が分からないなかった。昨日?何のことだよ。そう思っている俺に部長は続ける。
「昨日、北上がやるはずだった予算案の最終確認をお前がやったんだってな?それで間違ってもないところを勝手に書き換えてそのまんま提出したと?」
部長は机をバンッと叩いた。
「お前があんなことをしたせいで北上は上の人に謝っているんだ!予算案のミスで多くの社員が修正の対応に急いでいるんだ!お前、何をしたかわかってるのか!?」
は。わかるわけないだろ。北上さんの仕事を奪った?俺が?予算案?入社2年の俺がそんなことをやると?このおじさんは本当にそんなことを考えてるのか?
怒りの混じった疑問の声を押し殺し僕は部長に頭を下げた。
「すいませんでした。」
「本当に申し訳ないと思っている気持ちはないのか!?お前とはもう話にならない。北上が戻ってきたら謝るんだぞ!?分かったな!?」
あるわけないだろ。そんな気持ち。
「はい」
怒声を散々撒き散らした部長は勢いよくドアを閉めると部屋を後にした。
「はぁぁぁぁぁ」
怒りも何もかもを吐き出したあと俺は個室を出て行った。
一応北上さんには謝っておいた。その時、俺は気づいてしまった。この意味不明の事件の首謀者は彼女であると。入社1年目ながら圧倒的な知識と信頼感を兼ね備えていた彼女は邪魔な存在だった俺を奈落へと叩き落とした。俺もそこそこの信頼はあったが彼女には到底叶わなかった。多くの者が彼女を信頼しているため俺が「予算案でミスをした」というデマを鵜呑みにしていった。
それがきっかけで俺は会社の底辺へと落下し、多くの社員に雑用を任されていた。今図書館にいるのは本の返却と借りてきて欲しいと言われた本の入手。あとは、俺の残業。夕方、誰かの手により保存し損ねていたデータを削除された。そのため安全そうな図書館のパソコンで作業している。もう、会社に安全そうな場所はほぼ、いや全くないと言ってもいい。いっそ辞めてしまおうと思ったが、やめておいた。辞めたところで俺の行き場はないのだから。
パソコンの画面を睨んでいると後ろから不意に声をかけられた。
「あの…」
「あ、はい。あっ使いますか?すいません。すぐに…」
退きますのでちょっと待ってください、と言おうとしたら引き止められた。
「い、いえ。大丈夫です。さっきからずっとパソコン見てたからちょっと気になって…」
少し怪訝そうに俺はその人を見ると彼女は慌てて言った。
「あ、すすすすいません!勝手に…」
「いえ。こんなもの見ても面白くないでしょ。」
苦笑いを浮かべる俺に彼女は首を横に振った。
「いや、その、好きです。」
「は。」
思いも寄らぬ発言に思わす拍子抜けた声が漏れる。
「え?」
向こうも同じような反応をする。
「好き?」
「はい」
その瞬間キョドキョドしながら彼女がいった。
「私、そういう製図みたいの好きで。なんか細かいものが好きなんです。すごく綺麗っていうか…」
「はぁ…」
「あ、あまり好きではないですか?」
その質問に数日前の出来事が脳裏をよぎる。思わず顔を雲わせると彼女は少し寂しげに笑った。
「お仕事で何かあったんですか?」
凄く優しい声、だけどどこかで同情しているようにも聞こえた。その声に甘えるように俺は言った。
「ええ、まあ。最近ちょっと。」
「そうですか。」
しばらく沈黙が続くと彼女はトンッと数冊の本を置いた。
「これって…」
俺は少し驚いて言った。だってそれは…
「探してましたよね。」
彼女は机に置いてあったメモ用紙を見て言った。
「あ、ありがとうございます。」
「いえ。でも、もうすぐ閉館になるので借りるなら早めに。」
俺は慌てて時計を見ると閉館時刻を過ぎていた。辺りを見ると周囲は静まり返っていた。
「すいません!閉館時刻はもうすぎてるのに…」
「いえ、私にもまだ仕事が残っているので。あと2時間くらいは大丈夫ですよ。」
「え?」
2時間?流石になさすぎないか。消灯や片付けだってそこまではかからないはず。不思議そうに俺は彼女を見ると彼女はまたあの寂そうな笑顔を向けた。
「すいません。もしよければ、私の話にちょっとつきあってもらえませんか?」
「別に、大丈夫ですけど。」
「ありがとうございます。」
そういって彼女は笑った。純粋にその笑顔は可愛かった。
彼女の話は驚く内容だった。なんと、俺と同じように周りから差別を受けていたらしい。しかも、数ヶ月以上も。
「ちょっとしたすれ違いみたいなもので、なんか関係が悪化しちゃって…別に私が我慢すればそれだけのことで…」
「そんなことない!!」
気づいたら俺は大きな声で話していた。俺の言葉がしんとした図書館に響いた。慌てて座ろうと思ったが、俺は彼女に今までの話を全て話していた。彼女は、最初は驚いた顔をしていたが次第に真剣な顔つきになり最後はふっと笑った。
「あなたも同じなんですね。」
「はい」
俺はふと彼女の名札を見た。
『一ノ瀬』
俺は立ち上がって彼女を見た。
「一ノ瀬さん」
「何でしょうか?」
俺と彼女の目が合った。
「辞めよう」
「え?」
「もうこんな生活は、辞めよう。」
「え、えっと…」
俺は一呼吸置くと言った。
「好きだ。」
「へ?」
彼女の口から拍子抜けた声が漏れる。
「俺は一ノ瀬さんが好き。」
「え」
その途端、一ノ瀬さんはふっと笑い出した。
「私も、あの時告白してたんですけどね。ほら、製図が好きだ、って。ふふっ、あっ、ごめんなさい、あの、アナグラムって知ってますか?」
笑い声を含んだ口調で一ノ瀬さんは言った。
「アナグラム…ってもしかして!?」
「はい。名刺がちょっと見えて、あなたの苗字、伊豆瀬でしょう。だから…」
「お互いに一目惚れかよ」
「みたいですね」
その後二人は静かな空間で笑い合ったのだ。
その後俺たちはそれぞれの職場を辞めた。俺はどっちにしろ社長に辞めさせられる未来だったから丁度よかった。
ちらつく雪を見ながら俺は思った。
あの時、一ノ瀬さんが自分の過去を告白している時、目には光る水滴がった。
もし、告白をした時、彼女の、一ノ瀬さんの、涙が光り輝いたあの時、辛い過去も一緒に流れたら__
きっと俺の心も幸せでみたされるだろうな。
この時、俺の中で「静かな」という意味を縛っていた固定概念が崩れ落ち、新しい俺の好きな「静かな」を呼び寄せた気がする。
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