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「出入り口に竹箒おいたの、だれなの?」
更衣室のドアが開いたとたん、古参のパートの口から苦情が飛び出した。
「すみません、すぐどかします」
栗色のくせっ毛を後ろで結い直して、景が返事をした。
ホームセンターでのパートの帰り、すでに私服のジャージに着替えた景は足早に更衣室を出た。扉をくぐるとき、頭をぶつけないよう心持ち傾けるのは、身に染み付いた彼女の長年の癖だ。
「あんな長い竹箒、持って帰れるの。あなた、自転車でしょ」
「大丈夫です、すぐ先までですから」
「大丈夫って……」
六十代の古参よりも遙かに背が高く、がっちりしている景は、右腕に力こぶを作るまねをした。
「それから、明日休みます!」
大柄な景がお辞儀をすると、風が起こったように古参がよろけた。
景は箒を担いで自転車をこいだ。
たぶん、今頃更衣室では噂話が飛び交っているだろう。景と入れ替わりで古参が入ったとたん、声のトーンが低くなったから。
――笹原さん、箒を選ぶときに一本一本に耳を当てていたのよ。変な人。
あの人のうち、山の中の一軒家なのよ。
そんなところだろう。
初対面の人には髪や目の色をやんわり尋ねられた。
それはーと、景はいつも曖昧にはぐらかしてきた。
そのたび変な人と言われて傷ついたのは遥か昔だ。
冷たい風が頬にあたる。日が暮れる前に家につきたい。景は自転車のペダルを思い切り漕いだ。
リビングに母のベッドをおいたのは、要介護度が五になったからだった。トイレにも近いし、水もすぐに使える。景はソファで寝起きしている。誰が訪れるでもなし、景の娘を入れて三人暮らしだから気楽だ。
「なぜ笹原家にくる男たちは早死にするのか」
朝から仕込んでおいた栗ごはんがうまく炊けた。景は小皿ふたつに盛った栗ごはんを、小さな仏壇に供えて手を合わせた。
――どうか成功するよう、見守っていて――
「ねえ、母さん」
仏間の隣のリビングにいる母の結は黙ってテレビの画面を見ている。顔を向けているだけ、というのを景は知っている。かつて歌番組の時は歌い、クイズ番組の解答を家族で競いあった母はもういない。認知症が進み、関心が薄くなった。起きていることより、寝ている時間が長い。
お風呂は介助なしでは無理なので、デイサービスで入れてもらっている。食事は、細かく刻んだ野菜や挽き肉を材料に、柔らかく煮たものが中心だ。
それでも今夜は普段よりごちそうにしたつもりだ。栗ご飯に白身魚の野菜あんかけ、茸の汁物、それから母の好物の南瓜プリン。
景は短く切られた母の髪を見て切なくなった。景の髪よりも赤みが強く、腰まで伸ばしていたまっすぐな髪は母の自慢だった。けれど介護しやすいように短く切ってしまった。
景は目尻を乱暴に拭うと、ティッシュで鼻をかんだ。
「母さん、外に出てみない? きれいな星空だよ」
わずかな反応が、果たして答えなのかどうか分からないが、景は母にベンチコートを着せた。それから、娘の満が編んだ毛糸の帽子をかぶせる。
娘から連絡が来ないのが気がかりだが、今夜のことは知らせてある。景もネックウォーマーに手袋、それからダウンの上着を着こんだ。
中年になっても筋力があり、上背がある景が小さくなった母親を抱き上げるのは、ぞうさもないことだった。
引戸の玄関から外へ出ると、庭先の金木犀が甘く薫っていた。星空のした、虫の合唱がひっきりなしだった。
景は母を庭に置いてある椅子に下ろすと、玄関そばに立て掛けておいた竹箒を持ってきた。
景は両手で柄を掴むと目の高さに持ち上げ、短く語りかけた。
「お願いね」
笹原家の特異な性質を使うのは今夜しかない。
景は地面に箒を置くと、母親を胸に抱いた。箒をまたぎ、柄を左手で掴む。母を横座りになるよう胸の前に抱きしめる。景は息を整えると、柄を持ち上げた。
ここから先の景の姿は、端から見たなら滑稽そのものだったろう。
ちんまりした老婆をだっこした大柄なオバサンが、竹箒にまたがって蛙のように飛び上がる。
ぴょんぴょんと何度も何度も。
そのうち景の右腕はしびれ、額に汗が浮かんだ。だめだろうか、どうか今夜だけは……。
軽いとはいえ、四十キロほどの母親を片手で持ち上げているのだ。今にも腕から落としそうだ。景は固く目をつぶり、息をためると一気に地面を蹴った。
瞬間、虫の音が止まる。景の前髪がふわりと舞い上がった。
恐々と目を開けると、箒は僅か三十センチほど宙に浮いた。
「や、やった……」
景は息を短く吐くと、両足で地面を蹴った。女二人を乗せた箒はふわふわと上昇を始めた。
焦るな、落ち着いて高度を上げろ。
景は頭の中で、落ち着けと何度も繰り返した。自分に才が無いことは分かっている。離陸にしてから、これだ。
それでも箒はおぼつかなげに、空へと舞い立つ。
母親は柄に横座りにさせ、両腕で体を挟むようにした。柄の先は景が握る。
もし景が見下ろすくらいの余裕があったなら、自宅の玄関先とリビングからの明かりが小さな庭を照らしているのが確かめられただろう。やがて家々の明かりの気配が遠のき、星空に近くなったように感じた。
それでももっと、もっと高く、高く。景は息を詰めた。
景は眉間にしわを寄せ、額に汗しながら箒を飛ばした。集中力が切れたなら、真っ逆さまだ。けれどすでにこめかみの痙攣が始まった。あと少し、もう少し……詰めていた景の息が、限界を越えて決壊する。
あ、と思う間に、箒は落下した。
とたんに風景は反転する。街の明かりは二人の頭の下だ。
せめて母を。景が母を抱きしめようとしたその時、手元で何かが弾けたように感じた。
箒の柄から手が離れ、景はのけぞった。景の体が宙に投げ出されそうになった時、満天の星を背景に赤い髪をなびかせる女性が腕をつかんだ。
「母さん」
「よくやった、景。もう大丈夫よ」
いまや箒を操るのは、母の結だ。結はぐんっと高度をあげる。すると見る間に結は若返っていく。
曲がっていた腰が延びる。すらりとした足、はち切れそうな胸元。肌にはシワや染みひとつなく、みずみずしい。
笹原の女は空高く飛ぶほど、若くなる。今や赤がねの髪を月光に輝かせ、母は魔女の力を取り戻し夜空を飛ぶ。
「母さん」
景は結に話しかけた。
「今晩はごちそうだったわね。デイサービスのごはんだって美味しいけど、景はわたしと違って、ほんとに料理がじょうず」
「母さん!」
「ホームのごはんも美味しいといいなあ」
ね、と結が景に笑いかける。景は両手で顔を覆った。
「ご、ごめんなさい。わたしは何にもできなかった」
十代の少女の姿に戻った景は、だぶだぶのダウンコートの袖で顔をぬぐった。
「母さんをずっと介護することができなかった。他にも……」
「何いってるの。景は早くに透さんを亡くしたけど、娘を育てた。わたしの面倒を見ながら、仕事も続けた」
結の箒は小気味よい速さで夜空を飛んだ。寒さと涙で景の鼻先はかじかんだ。
「でも、そんなのあたりまえよ。空を飛ぶことだって、苦手なまま」
「ねーえ、景。空を飛べても飛べなくても、景はわたしの大切な娘」
結は娘に振り返った。
「ごめんね、毎晩毎晩トイレに何度も起こして。三度の食事も手伝ってくれてありがとう。これからは体を労わって」
「母さん」
景は結の腰にしがみついた。怖くて聞けなかった。空へ上がれば母の本心が聞ける。けれど、施設へ行くことを不本意だと言われたら。いかな魔女でも認知症は治せないのだ。
「そうねえ、家から出るときには、薄くお化粧して欲しいわ。お願いね。大丈夫、心は毎晩空を飛ぶわ」
うん、とうなずく景の瞳から涙が引いた。
「それより、満に会いたいわ」
「最終試験が終わったら帰るって……」
景が言いかけたとき、みしっという不吉な音がした。母さん、という間もなく箒はバキンと二つに折れた。
「う、うそっ!」
景と結は夜空に投げ出された。景は母のベンチコートを掴んだ。
「景っ」
景が母の体を引き寄せると、たちまち母は年老いていく。景もまた大柄の中年に戻る。
長い悲鳴は山にこだました。黒々とした山の木々が目に入る。ぶつかるのは木の枝か、山肌か。
景が母の頭をかばって強く抱きしめ歯を食いしばった。
覚悟を決めたとき、景の目の中で光が走った。
「間に合った」
聞き覚えのある声に、こわごわ目を開けると、景と結は頭を地面すれすれにして浮いていた。
「もー、おてんばか。転がる婆かっ」
景と結、二人まとめてくるりと上下を直して下ろされた。景の娘、満が見下ろしていた。古風な藍色のマントを身に着けてはいるが、中は白いミニのワンピース。赤い巻き髪が夜風にそよぐ。
「ホームセンターの箒じゃ、高くも長くも飛べないのに、無茶しすぎ」
そう言うと、満はただいまと祖母である結をハグした。
「満、あなた」
景は満のマントに着けられたブローチに気づいた。
「母上様、わたくし無事修行を終えました。これからはバンバン稼ぎます。錬金術でも占いでも、なんでもござれ」
景は腰が抜けた。景は魔女としては落第生だったのに、不思議なことに娘は飛び切りの才能にあふれていた。
「おばあちゃん、安心してね」
結は孫の満の頭を撫でた。
「やっぱり、満はすごい。箒を飛ばして助けに来てくれた」
「何言ってんの、お母さんの自転車には敵わないわ」
満が箒の柄を下にして立ち上がる。
「え?」
「町内の小学生に自転車ターボばばあって言われてるよ。知らないの?」
「し、知らないっ」
確かに、少しは早いかも……とは思っていた。同僚に通勤時間を尋ねられた時、「ありえない」と言われたのを覚えている。
「お母さんは、箒より自転車を飛ばすのがうまいの」
魔女の能力はそれぞれなのだ。
「満、施設に行く前、おばあちゃんにお化粧してあげてね」
「ガッテンだ」
かわいらしくして家を出たいという母の願いは、かなえてあげられそうだ。
朝になったら、施設へ行く結を景と満は見送る。
そして空を飛ぶ魔女は、柔らかく微笑む小さな老婆に宿り続ける。
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