ショパン、ドビュッシー、ラフマニノフ

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手際よく、でも丁寧に淹れた一杯をだしてくれると、冬子はじっとぼくを見つめた。 それから、どっと泣いた。 「泣かないで」 素晴らしい香りのブルーマウンテンを飲みながら、ぼくが言った。 「だって」 彼女は、ティッシュで涙を拭いた。 「わたし、どれだけ辛かったか。精神科に二年も通ったわ」 精神科?あんなにタフだった妻が? そうだったのか。 「八キロも痩せたのよ。今も睡眠薬を止められないし」 「ごめんな」 「ううん、一郎さんはなにも悪くない。ものすごく運が悪かっただけ」 「ものすごく運が悪かった?」 「覚えてないの?」 「覚えてない」 「あなた、あの日、ドラッグストアにトイレットペーパ―を買いにでかけたのよ。そのとき、建築中のマンションの上からハンマーが落ちてきて、おでこに当たった」 「そんな……」 「即死だったわ」 「あっけないな」 「あっけなかった」 もうひと口、珈琲を飲んだ。 いつだって、妻の珈琲は最高だった。
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