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やわらかな風が頬を撫でる。その感触がくすぐったくて、だけどこの風を、空気を、もっと感じていたくって。大きく息を吸い込んだ。
隣では大切な家族である大型犬――ゴールデンレトリバーのバルが、今か今かと期待した目を向けている。その表情があまりにも可愛らしくって、緩む顔を抑えながらフリスビーを投げる。
「ほら、取っておいで!」
嬉しそうな鳴き声が響き渡って、バルが駆けていく。風を切ってフリスビーに追いついた彼は、尻尾をぶんぶん振りながら戻ってきた。
「よしよし、いいこだね」
くわえてきたフリスビーを受け取って、もう一度。何度もバルと戯れていると、背後から声が聞こえてくる。
「春ちゃん、お昼にしましょ」
「はぁい」
振り返れば、私のおばあちゃんが優しく笑っていた。
春、というのは私の名前だ。バルとおんなじ響きが双子みたいで、とっても気に入っている。どちらもおばあちゃんが名付けてくれたから、私もバルも、彼女のことが大好きだった。
やわらかなグレイヘアを揺らしたおばあちゃんは、お弁当を用意してきたのだと子供のように笑う。ベンチに広げてくれたそれを見て、私は目を輝かせた。
「ふふ、春ちゃんったら嬉しそう」
「えー? 当たり前だよ」
誰だってこうなってしまうと思う。だっておばあちゃんのお弁当は華やかで、私の好物でいっぱいだから。自分で作るときは好物っていったらお肉ばかりの茶色弁当になっちゃうのに、おばあちゃんが作ると不思議なくらい彩り豊かだ。
「いっただっきまーす」
さっそく頬張るのは黄金色の卵焼き。だし巻き卵には一家言どころか五家言くらいありそうな私だけど、文句ひとつない最高の卵焼きだ。
次は何を食べようかな。そう迷っていると、不意にバルが駆け出した。
「バル! どこ行くの!」
慌てて後を追う。犬を放してもいい場所とはいえ、食事中はリードをつけておくべきだった。そう反省していると、バルは案外近くで足を止めた。その前足が、驚いた顔のおじいさんをつんつんつつく。
「す、すみません! ほらバル、行くよ。迷惑かかっちゃう」
バルの身体をなんとか捕まえる。大型犬の重さにうんうん言いながら押し戻そうとしていると、おじいさんはくつくつ笑った。
「慌てなくても大丈夫だよ。……佐山さんのとこのワンちゃんだろう」
「ええと……?」
佐山、という呼び方に思わず目を丸くする。だってそれは、おばあちゃんの。
「……? ああ、すまない。今は高木さんだったね。いやなに、私は奥さんが佐山さんだった頃、よくお世話になっていたんだ。最近も会ったのに、また間違えてしまったよ」
おじいさんの瞳がついと遠くを見る。その視線はちょうどおばあちゃんがいる方を見ていて、なんだか胸がどきりとした。
「おばあちゃんのお知り合いですか? えっと、どういう……」
「ん?」
まさか愛とかラブとかそういう系だろうか。いやいや、おばあちゃんにはおじいちゃんがいるし。すっごく元気で今日も朝から山登りに行った旦那さんなわけだし。
おろおろしていると、おじいさんはこらえきれないように吹き出した。
「ああ、色恋沙汰じゃないさ。……佐山さん、料理が上手いだろう? 私はあの腕にずっと憧れていてね。なにせ誰のために作っても、彩り豊かな魔法のごはんができるんだから」
そうして彼は、「あんなすき焼きは初めて見たよ……」と笑う。その話が気になって、私は思わず口を開いていた。
「良かったら、お昼ご一緒しませんか? おばあちゃんも挨拶したいと思うし……すき焼きの話、すっごく気になるので!」
気になりすぎて声が跳ねる。そんな私に、彼は「おやおや、素敵なお誘いだ」と嬉しそうに微笑んだ。
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