寺号縁起

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 紫陽花が盛りを過ぎ、なおより鮮烈に花を咲かせている。  平坦で規則正しい石畳が続いていた。均された両脇の土には、水たまりができている。  石畳の先には、重厚な御堂が据えられていた。  黒く変色した檜皮葺の屋根は、象の足のように厚い断面を四方に広げ、いくつもの太い柱がその屋根を支えていた。  正面の入口には庇が伸び、より巨大な二本の柱が、鳥居のように構えられている。 『浄財』と書かれた賽銭箱と、その上には極彩色の紐と鐘がつられていた。  古刹の前に、こちらに背を向けた人物がいた。  暑さを感じないかのように、純白の尼僧頭巾で覆った女性。  びゅん、と。夏の風が通った。  鐘撞が、甲高い音を上げる。それで気づいたわけでもないのだろうが、頭巾を押さえて、彼女が振り向いた。  立ち姿からずっと若い人を想像していたけれど、振り向いた顔はいくつも深い皴が刻まれている。  それでも、切れ長な瞳と高く通った鼻梁に、どうしてか、この世のものと隔絶した美しさを感じた。  ずっと離れた場所にいるのに、吸い寄せられるような、不思議な感覚だった。  尼僧の顔がほころび、皴が一層に深くなる。  にわかに蝉の合唱が激しくなり、耳を苛む。陽の光が背中を焼く。  私は、曖昧な態度で、背を丸めただけのように頭を下げて、会釈を演じた。 「ようこそ、おいで下さいました」  予想に反して、声をかけられた。  張り上げたわけでもないのに、彼女の声はよく通っていた。 「お待ちしておりました」 「え」  待って、いたのですか。私、を?  凛とした彼女の声と対照的に、私の声は蝉にかき消されそうなほど、自信なげに思えた。 「当山の住職を務めております、『円令』と申します」  そう言って、彼女は深々と、頭を下げた。その姿を見て、はたと気づく。  そうだった。  私は、今日、目的があって、ここに来たのだ。  取材を、この寺の、歴史についての取材をしに来たのだった。  暑さにやられたのか、仕事さえ失念してしまうとは。  どうぞ、と。誘われるままに、私は、真っ暗な御堂の中に、足を踏み入れた。
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