影帽子

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影帽子

そう言った彼の眼は、何かを求めるかのように、白いスクリーンへと吸い込まれてしまいそうだ。 「影絵に、ですか?」 コクリと頷いた彼は、右頬の傷痕を指先でなぞりながら、薄く口を開いて喋り出す。 「私は小さな時からこの傷があった。両親に聞いても、どうしてあるかは教えてはくれなかった。この傷のせいで私はいじめられた。友達もいなくて、両親が共働きだったのもあり、私はいつも孤独であった。一人で真っ暗な部屋にいる時、カーテンの隙間から入ってきた光が、僕の影を壁に映し出したんだ。壁に向かって手を振ると、その影も真似をして手を振った。私は夢中になってその影と遊んだ。毎日、一人っきりで。私は影と友達だった」 「影と友達、ですか……」 彼は右手を上げ、親指に中指と薬指をくっ付けて〝きつね〟を作ってみせた。そして、次に左手で同じ形を作って、両手のきつねを向かい合わせにした。その二匹が会話をしているかの様に、コン!コン!と動かしてみせたのだった。 「こうやっていると、一人でも寂しくなかったんだ。不思議だろう?」 彼は立ち上がると、暗幕を閉め映写機を動かして、スクリーンにまた影絵を映し出した。その白い背景に映し出された二匹のきつね。楽しく遊んでいるように、会話をしたり、戯れあったりしている。 彼の表情を見つめた。 幼い少年が宝物を見つけた時みたいな、そんな楽しそうな表情。生き生きした眼をしている。影絵を心から愛しているのだ、と感じる。 「私はいつしか、影絵になりたいと思うようになった。影は私の傷なんて、すっかり消してしまうのだから。傷さえなかったら、きっといじめられずに友達もできたはず。そして、私は影絵の世界に魅了され、影絵劇をやる人になりたいと思うようになったんだ」 確かに、影だとみんな同じ真っ黒けに見える。そうしたら、世の中のいじめも無くなるのだろうか。 彼は左手に木の形をしたパネルを持ち、右手は鳥の形にしてバサバサと飛び立つ影絵を作った。ジーッと一定の音を響かせる映写機を耳に感じながら、その美しさについ見惚れてしまう。 「影絵劇をやるようになっても、やっぱり私は孤独であったが、そんな時、妻に出会ったんだ。妻はこんな私でも全力で愛してくれた。彼女にとって私は、真っ黒な影絵そのものだったんだと思う。だって、彼女は盲目だったのだから。彼女は私の姿形ではなく、間違いなく心を愛してくれたのだ」 盲目の奥さんにとって彼は、影絵だったという事か。彼の容姿ではなく、中身である心を愛していたんだ。姿形ではなく中身を……。 「奥様はお元気ですか?」 その問いに薄暗闇の中、一瞬で曇る表情。 「妻は病気で亡くなったよ。私はまた孤独に戻ってしまったのさ。私ももう長くはない。影絵劇も今日で最後にするつもりなんだ」 一羽の黒い鳥が、白い空を悲しげに飛んでいく。 「僕、小さい時にあなたの影絵劇を見ました。すごく感動したんですよ。だから、今日見た子供たちも感動したと思います。それだけ、あなたの影絵は幻想的で、摩訶不思議で、人の心を奪う魅力があるんです」 ピタ、と止まった影絵。彼の傷痕を消すように、流れ落ちる透明な涙。図太い声が小刻みに震える。 「ありがとう、ありがとう……。影はいい。みんなおんなじ真っ黒。見た目で判断されない。傷など気にしなくていいのだ。きっと、差別もない。嫉妬や恨みだと生まれない。平和な世界なんだ。だから、私はこの世界で生きたかった。できれば妻と一緒に……」 見た目。差別。嫉妬。恨み。……ひいき。 アァ、そうか。そう言う事か。 悩んでいた思いから、パァーッと解き放たれた感覚がした。 「聞いてくれて、ありがとう」 そう言った黒子の男は、泣きながら儚げに微笑んだ。映写機に照らされた逆光の顔を、僕はボーッと眺める。すると、目の奥を突き刺すぐらいの白い光線が、突如彼の体全体を包み込んだのだ。 眩しすぎて強く目蓋を瞑ると、見ていたモノの残像が目蓋の裏に映り込む。ジーッという音の中で、ゆっくり眼を開いてみると……眼前の彼はいない。 僕は急いで首をひねり、スクリーンに目を向ける。スクリーンには映し出された二つの影が、楽しそうに揺蕩っているのが見える。 不思議とそれが誰と誰かは分かったのだった。それは、影絵になりたかった黒子の男と、彼を一途に愛した女。二つの影帽子は仲良く手を繋ぎ、楽しそうに歩く。 ユラユラユラユラ。 大きな影は段々と小さくなり、一旦立ち止まると、こちらに向かってヒラヒラと手を振っているように見えた。 彼は影に吸い込まれ、本当に影絵になってしまったのだ。 その二つの影帽子は、幸せそうに寄り添い合いながら、真っ白なスクリーンにゆっくりと消えていったとさ。 * 鼠色に浮かぶ自分の影帽子を見ながら思う。 一人一人の生徒を影絵として見よう。心を、中身を見るんだ。みんな一緒なんだ。そう思えば、生徒たちと上手く向き合えるに違いない。影絵になったあの人は、とても大切な事を教えてくれたんだ。 「ありがとう。影帽子」 真っ黒な影帽子が、そっと優しく微笑んだ。 end
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