ミチルとトオル

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 玄関に向き直って、静かに深呼吸をして、充は改めて非日常を意識する。  今のところ、幽霊が人に危害を加えたという確からしい情報は聞かない。  いや、唐突に目の前に現れるだけで十分に社会は混乱し、事故は多発しているのだけど。  それでも、人間と違って意思を持ってこちらに干渉するようなことはない。  ない、はずである。  まさか自宅に入ることに覚悟を要することになるとは思いもしなかった。  呼吸を整えた充は、今までの人生で一度も入ったことのない、お化け屋敷を想像しながら家に侵入する。  玄関、すぐ右手の寝室、左手にある洗面所、直進した突き当りの戸を開けて、リビング、キッチン、洋室。  一部屋ずつ、慎重に中を確認する。  幽霊は壁をすり抜けるのだから、現在、この場所にいないことが安心につながるわけでもないことは分かっている。しかし、理性と心情は時として乖離することを充は学んでいた。  リビングからバルコニーへ続くガラス扉を開けて外を眺め、視界の少し上に人影を見つける頃には、充はすっかり落ち着きを取り戻していた。  そこにいる、あるいは現れる可能性があると思っていれば、なんということはない。  形が人のように見えるだけの自然現象、壁のシミのようなものだと思えば無視できるだろう。  自分を納得させるための思考に満足したところで、充はガラス扉を閉めた。  振り返ってダイニングテーブルのそばに進む。整頓されて物の少ないそこには、ハガキ判のシンプルな写真立てだけが唯一場所をとっていた。  充が写真立ての、そこに収められた妙齢の女性の写真を見つめる。 「……ただいま、お母さん」  誰に聞かれることもなく、そう(つぶ)いた。
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