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雲一つない青空に白い煙がまっすぐに上がっていく。斎場の駐車場でそれを見つめていた尾崎昇一は、目元の皺をより深くして自嘲気味に笑った。
日本人の平均寿命が八〇歳を超えているこの時代。二十五年連れ添った妻、貴美子は五十二歳という若さでこの世を去った。つい数日前まで「しっかりしなさいよ」と笑いながら昇一に喝を入れていた彼女が呆気なく死んだ。人間の命なんて、いつどうやってなくなるか誰にも分からない。彼女だって、まさか自分がこの世からいなくなるなんて思ってもいなかっただろう。
幸い二人の間に子供はいない。伴侶を失った昇一は、頭の中が真っ白になり憔悴しきった自分の姿を想像していた。しかし、現実はそんなことをしている余裕はまったくなかった。あとになって彼女の存在の偉大さに気づく――と皆に言われたが、いまいち実感がない。
そもそも、二人の結婚生活は実体がないふわふわとしたものだった。ゲ|イであった昇一と半ば強引に結婚した貴美子だったが、彼女も昇一同様、女性しか愛せない人だった。この結婚は、親戚・家族・世間体を気にした彼女が選んだ選択肢の一つに過ぎなかったのだ。それに二十五年も付き合った昇一だったが、二人の生活はそれなりに成り立っていた。
まだ冷たい初春の風に、彼女の灰を運ぶ白い煙が流されていく。不思議と涙が出ないのは、二人がやっと新たなスタートラインに立ったせいだろう。妻の葬儀で泣かない昇一を薄情だと言った者がいた。でも、それぞれのセクシャリティをひた隠し、偽物の夫婦としてやってきた日々を思えば、悲しみよりも解放感の方がはるかに大きい。貴美子もきっとそう思っているはずだ。愛はない――でも、愛のある生活を演じてきた二人にとっての決別は、決して悲しいものではないと。
昇一は眩しそうに目を眇め、貴美子と出逢う前のことを思い出した。今になって彼のことを思い出すなんてバ|カげている――そう言い聞かせても、一度脳裏に浮かんだ彼の姿は消えることはなかった。
一人になった今、何が変わるというのだろう。彼だって多忙な日々を過ごしているに違いない。独りよがりな想いをため息と共に吐き出す。そして、空の彼方に消えていく貴美子に向かって愚痴った。
「今更何だよ……。俺に初恋を思い出させるなんて」
屈託のない笑みを浮かべて手を振る彼女が見えた気がした。そして、たなびいていた煙が細くなった時、昇一の胸元でスマートフォンが振動した。取り出して液晶画面を見た昇一は、ゆっくりと目を見開いた。そこにあったのは、貴美子と結婚してもなお忘れることが出来なかった初恋の相手――深江芳典の名前だった。
***
昇一がまだ二十四歳で、営業マンという仕事にも慣れ忙しない日々を過ごしていた頃――。生涯この人を愛し続け、最後の最後まで共に過ごすのだろうと思っていた男性がいた。
二歳年上の芳典と出逢ったのは、昇一が大学生の時だった。まだ、世間では認知度が低かったゲ|イというセクシャリティを持った昇一は、それを悟られないように女性と付き合っていたが、本当の恋をしたことは一度もなかった。大学のキャンパスで知り合った友人の紹介で初めて芳典に出逢った時、彼の第一印象は最悪なものだった。傲岸で場をわきまえない言動。自分より劣っていると分かると徹底的に攻撃する。人間としてのモラルが欠如した変人だった。友人がどうしてこんな男を自身に紹介したのか――というのは未だに謎ではあるが、その出会いがなかったら、きっと今の自分は存在していないだろうと思う。
小柄で幼い雰囲気を持つ顔立ちだった昇一をなぜか芳典はいたく気に入った様子で、初めて顔を合わせた翌日から日に何度も呼び出された。
彼と接するうちに、周囲の人々に見せている不可解な言動が『虚勢』であることが分かった。彼が高校を卒業してすぐに両親が離婚し、その後父親に引き取られた。しかし、毎日のように酒を飲んでいた父親に暴力を振るわれ、彼の居場所はどこにもなかったのだ。父親への反抗、何も出来ない自身への怒りと悔しさが募り、周囲の人たちへと向けられていたようだ。それを知るまでは、なんだかんだと理由をつけて彼から距離をおこうとしていた昇一だったが、ふとした瞬間に見せる彼の悲哀と自嘲気味に笑う横顔から目が離せなくなっていた。
気がつけば素行の悪い芳典と行動する昇一もまた、周囲からは変人扱いされるようになっていた。それでも、構わなかった。彼と一緒にいるだけでいいと思える時間が増えていった。
少しずつ昇一に心を開いていった芳典は、大学を卒業する頃には見違えるほどまともな青年へと変わっていた。落としかけていた単位も履修し、就職先も当時ではトップクラスの商社に決まった。それを自分のことのように喜ぶ昇一と、照れくさそうにはにかむ芳典の姿が大学のキャンパスから消えた時、二人の関係は急激に加速していった。
互いに社会人となり逢えない日が増えてはいたが、昇一は時間を見つけては芳典と会い食事をした。スーツを着た彼を見ただけで心臓が大きく跳ねあがり、乱れてしまう息を整えるので精一杯だった。揶揄って肩に触れた彼の手に頬が熱くなるのを感じ、何度も素っ気なく顔を逸らした。
ずっとこの時間が続けばいいと思った。でも――それは昇一の一言で崩れ去った。
「お前のことが好きだ……」
内に秘めていた想いを口にすることは、今まで経験したどんなことよりも勇気が必要だった。ゲ|イであると知られたくない。でも――自身にとっては初恋である彼への気持ちを埋もれたままにしたくない。葛藤に圧し潰される日もあった。そして、体の中で渦巻いていたいろんな想いが、ついに昇一の背中を押した。
しかし、彼からの答えは何もなかった。ただ、薄らと微笑んで、昇一の告白から逃げるかのように一方的に連絡を絶った。
初恋は実らない――そんなことは分かっていた。しかも相手が男性であれば尚更だ。どうして言ってしまったのだろう。どうして彼を好きになってしまったのだろう。後悔に苛まれ続けた昇一は、彼を忘れることに徹した。そんなときに出会ったのが貴美子だった。しかし、彼女といても芳典のことは忘れることが出来なかった。
初恋という、生涯に一度しか経験することのない恋の魔力たるや、そんなに甘いものではなかった。一度かけられた魔法は解くことが出来ない。おそらく何度恋をくり返しても、それはずっとつき纏う――そう、生涯を終えるまで。
突然の別れから十年以上が経ったある日、大学時代の友人に誘われて渋々顔を出した同期会で芳典と再会した。彼は勤務していた一流商社を辞め、自身で起業していた。その会社は急成長を遂げ、昇一も駅の構内で何度も看板を目にしていた。彼が代表を務めていることは小耳に挟んではいたが、自身から連絡を取る気にはなれなかった。会ったところで、一体何を話せばいいのか分からなかったからだ。
同期会では互いに会話らしい会話もなく、目も合わさない。ただ、鷹揚な物言いで「何かあったら連絡をくれ」と携帯番号を書いた名刺を半ば押し付けられるように渡された。あんな男が初恋の相手だなんて……と肩を落とした昇一だったが、大学時代の彼は誰も寄り付くことのなかった変人だったことを思い出し「あの時よりはマシか」と小さく吐息した。
芳典には妻子がいる。仕事も波に乗り、夫婦円満である彼に会うということに、抵抗がないわけではない。昇一の一方的な想いだとはいえ、男同士の恋愛に後ろめたさがないと言えば嘘になる。本当なら貴美子と二人、互いの秘密を墓まで持っていくつもりだったのに……。
***
昇一はスマートフォンを握りしめ、唇を噛んだまま動けなかった。まるで、貴美子が死ぬのを待っていたかのようなタイミングで芳典から掛かってきた電話。通話ボタンをなかなか押せずに葛藤していた昇一の手の中で、スマートフォンの振動が止まった。ホッと安堵したのも束の間、またすぐに彼からの着信を告げる。
電話に出たところで、何かが劇的に変わるわけじゃない。大学時代の友人からの電話に、どうしてそこまで怯えることがある?昇一は深呼吸をしてボタンをタップした。
「――もしもし?」
緊張で声が掠れる。沈黙のあとで昇一の鼓膜を震わせたのは、懐かしいあの声だった。
『昇一か? 突然、すまない。今、少し話をしてもいいか?』
他人に対し今にも噛みつきそうな凶悪な目を向けていた大学時代の芳典とはまるで違う。年齢を重ねて声のトーンもより落ち着いたように感じられる。そう――同期会の時よりも甘くなったような気がした。
「かまわないよ。今……煙になった嫁さんを見送ってる。火葬場の駐車場で」
『え?』
「俺、な~んにも失くなっちまった。これからどうしようかな……って考えていた」
『昇一……』
気まぐれで電話してきた芳典だが、まさか昇一がそんな状況だと知る由もないだろう。言葉を失ったまま、しばらく沈黙が続いた。だが、その沈黙を破ったのは意外にも昇一の方だった。
「――そしたら、お前のことばっかり思い出してさ。二十五年も連れ添った嫁さんなのに、その顔さえも浮かんでこない。全部失くすってことは、こうやって呆気なく忘れていくものなのかもしれないな」
電話の向こう側で芳典が小さく息を呑んだのが分かった。昇一自身、おかしなことを言っている自覚はあった。でも、彼とこれ以上何を話せばいいのか分からない。用事がなければさっさと切ってくれればいいのに……とさえ思っていた。
『――失くしても、忘れられないことだってある』
「え?」
不意に硬質な声音でそう言った芳典の声が微かに震えていた。昇一は眉根を寄せ、耳に神経を集中させる。
『どうしてあの時、お前の告白に背を向けるような真似をしたんだろう。どうして、素直にお前の言葉を受け止めてやれなかったんだろう。ずっと心の奥に刺さった棘が、思い出すたびにジクジクと痛んで……苦しくて堪らなかった』
ドクンと心臓が跳ねた。血圧は高い方ではあるが、これほど心拍が上がったことはここ最近ない。話をはぐらかすように、昇一は半笑いで応えた。
「――今更、何の話だよ。大学時代の恥ずかしい話、持ち出してくるなよ」
『恥ずかしいと思ってるのか? あれはお前の中で黒歴史として片づけられているのか? じゃあ、どうして……奥さんを見送りながら俺を思い出していた?』
「そ、そんなの……知るか。ただ、何となくお前の顔が浮かんだから……。芳典、お前おかしいぞ? そんな昔の話を蒸し返して、どうしようっていうんだよ」
鼓動が煩い。こめかみに微かな痛みを感じて、昇一は俯いたまま革靴の先をじっと見つめた。
『――妻と別れた。子供が成人するまで養育費を払うということで話がついている』
「は? この歳で離婚って……どうしてっ」
『結婚した時から妻には「ほかに好きな人がいる」と言ってきた。その人とどうかなるつもりはないが、二十年経ってまだその人のことが忘れることが出来なかったら離婚してくれ……と。結婚当初に交わされた契約だ。――やっぱり忘れられなかった、お前のこと』
心臓が一瞬止まった。このまま貴美子のもとに逝ってしまうのではないかと思うほど、息をすることも忘れていた。
『もう後悔はしたくないんだ』
「――じゃあ、なんで逃げた? 何にも言わないで、俺を置き去りにして……なんで逃げたんだっ」
『あの時の俺には、お前を幸せに出来る自信がなかった。お前が悲しむ顔を見たくなかった』
「そんな言い訳、いくらでも言える。お前……俺の気持ちを知ってて逃げただろ。俺があの時、どれだけの勇気を出して言ったか……分かってるのか」
昇一は自身が大人げなく声を荒らげていることに気づき、気まずさに唇を噛んだ。あの時の傷は未だに癒えていない。だから、ゲ|イであることをひた隠しにして生きてきたというのに……。
『――初めて好きになった人だから』
芳典がボソリと呟いた言葉に、昇一は動きを止めた。聞き違いか……まさか、そんなことはないだろう。
『自暴自棄になっていた俺を見捨てることなく、いつでもそばにいてくれたお前に恋を――していた。でも、許されない恋だと思っていた……』
「なっ。ち、ちょっと待てよ。何言ってるか分からない……」
動揺を隠しきれず、昇一は落ち着きなく何度も髪をかきあげた。皮靴の踵が小さな小石を踏むたびに、忘れようとしていたはずの芳典への想いが溢れていく。そして、告白を決めた前夜のような緊張と羞恥に、顔がカッと熱くなるのを感じた。
「俺だって……初めてだったんだぞ」
『え……っ』
「ゲ|イであることを隠して女性と付き合ってたけど……。好きになった男は、お前が初めて……だった」
五十歳にもなって何を照れることがある。しかし、言葉を発するたびに体中が熱くなっていく。しかも相手が、長い間想いを拗らせていた相手とあれば尚更だ。
昇一の耳元で安堵ともとれる吐息が聞こえた。そして、芳典が喉の奥で小さく笑ったことに気づく。スマートフォンを持つ手が震えている。だが、電話に出なければよかったという後悔はなかった。
『こんな日にこんなこと言うのは不謹慎だと分かっている。でも、言わせてくれ……』
不意に言葉を切った芳典が呼吸を整えているのが分かる。その気配を感じて、昇一もまた深呼吸をした。
『二人で……初恋をやり直そう』
低く掠れのある芳典の声は、今までに感じたことのない甘さを含んでいた。まるで耳元で囁かれているかのように錯覚してしまい、昇一の体がピクンと反応する。落ち着きなく動き回っていた昇一の足が止まった。俯いたまま勝手に震えてしまう薄い唇をギュッと噛みしめる。
『昇一?』
芳典の声に弾かれるように顔を上向けた昇一は、小さく鼻を啜って「あぁ……」と答えた。下を向くと零れ落ちてしまう涙を誤魔化そうと何度も手の甲で拭ってみるが、頬を伝う涙が止まることはなかった。
「初恋のやり直し……。俺たち、ずいぶんと遠回りしてきたな」
『おい、泣いてるのか? 俺、泣かすようなこと言ったか? イヤならイヤってハッキリ――』
「イヤなわけないだろ。ばーかっ」
斎場の煙突から出ていた煙が途切れる。
『最初で最後の恋なんだから、しっかりしなさいよっ』
青い空に吸い込まれるように消えていった貴美子が笑っているような気がして、昇一は照れくさそうに何度も頭を掻いた。
「初恋は実らない」なんて言った奴に声を大にして言ってやる。オッサンになっても、初めての恋は何度でもやり直しがきくってことを――。
そして、今度こそは逃げない。生涯、共に生きることを夢見た彼と、最期まで……添い遂げてやる!
(終)
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