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エピローグ
『冬、ほら隠れろ、はやくっ』
兄の五月の声に冬は慌てて顔を上げた。ここにはいなかったように全部持って──食べかけのお菓子やコップ──いつものように押し入れに隠れる。やがてとんとん、と廊下を歩いてくる足音が聞こえると、冬は暗い押し入れの奥の奥でぎゅっと身を固くした。気配が近づいてくるにつれて、抱き込んだ胸の内側で心臓がどくどくと音を立てる。
ドアの開く音に固く目を瞑った。
『なに?』
五月の問いかけに返事はない。
部屋の中をぐるりと見回しているような沈黙に心臓がはち切れそうだ。
『五月、冬は?』
『知らないけど』
母親の声にそっけなく五月が答える。
『どっか遊びに行ったんじゃない?』
『…そう? どこに行って…、雨が降りそうだけど傘持って行ったのかしら』
『探してくれば』
ふすまを隔てて聞こえてくる、くぐもった兄と母親の会話。ひりひりとした沈黙がまたやって来る。ゲームをしている兄の無言でコントローラーを弄る音とテレビからのゲーム音だけがこの場にそぐわない。
やがてあきらめたような母親のため息が聞こえ、ドアが閉まった。遠ざかる足音が完全に聞こえなくなったころ、暗い押し入れの中に光が差し込んだ。
『出といで、もう行ったぞ』
『うん』
音を立てないようにそっと出ると、五月は困ったような顔で笑った。
『これでしばらくいいな』
『おにいちゃんありがと』
『いいよ、いつもだろ』
ゲームを再開した五月の横に座り、冬は残っていたお菓子を兄と分け合って食べた。時間になったら外から帰ってきたふりをしろよ、と兄に言われて、うんと冬は頷いた。
それは遠い記憶。
夢の中のまどろみで冬は頷いていた。
ああ、そうだった。
久しぶりに見る夢は幼いころの記憶そのものだった。体が弱く生まれた直後から何度も入退院を繰り返していた。そんな生活が何年も続いたためか、母親は冬に過剰に干渉してくるようになった。
息が詰まる毎日。愛情だと分かっていても受け止めるには大きすぎて、いつも窒息しそうになっていた。そんな冬を兄の五月は母の干渉から毎度逃がしてくれていた…
そう、そうだった。
名取から逃げ出して蹲っているとき、冬はふとあの頃のことを思い出したのだ。
懐かしいけれど痛みを伴う記憶。
「はい、いいよ」
声を掛けられて冬は目を開けた。目元を覆うタオル越しに薄い明かりが漏れている。ゆっくりとそれを取り除かれると、小さな機械音がして診察台の背がゆっくりと起き上がった。
「じゃ、うがいしてくださいね。そっとでいいですから」
血気をつけてね、と言われ冬は紙コップを手に頷いた。麻酔で痺れた唇から水がこぼれ落ちそうになる。気を使いながら口の中を綺麗にすると、思ったよりも少ない血の量に、やはり腕がいいのだな、と感動した。
「今痛みはないですか?」
「らいじょぶ、えす」
止血の綿を噛んでいる上、麻酔で痺れた舌では上手く喋れない。幼児のような言い方に恥ずかしくなったが、慣れた相手はマスクの目元を優しく綻ばせて頷くだけだった。
「ではまた明日か明後日、経過を見たいので来ていただけますか。今夜は痛むと思うので痛み止めと、あと化膿止め。縫ってるところは抜糸は不要で──糸は吸収されるやつなので、そのままでね。で、経過が良ければあとは前の歯の虫歯を治して終わりですね」
「…ぁい」
「はい。お疲れ様でした」
後ろに控えていた衛生士が紙のエプロンを外してくれる。会釈をして診察台を降り、呂律の怪しい挨拶をすると、にこりと微笑んでくれる。
その目元に面影を見て、冬は少し嬉しくなって診察室を出た。
ドアを開けた正面に座っていた大塚が顔を上げ、目が合った。
「大丈夫か?」
うん、と冬は頷いた。
午後の日差しが待合室の大きな窓から柔らかく差し込んでいる。
平日の昼下がり、待合室には自分たちだけ。
緩やかな時間。
「宮田さーん」
受付から先程の衛生士の女性が顔を出した。立ち上がろうとした冬を制して、大塚がさっと立ち上がる。
女性はかけていたマスクを外し、不満そうな顔をした。
「ちょっとお、お兄ちゃんを呼んだんじゃないんですけど?」
「いいから薬と会計しろ」
「なんなのその言い方は! 院長に言いつけるからね」
「どうぞ」
「ほんっといけすかない! そんなんだからっ駄目なのよ!」
「いいから」
大塚に負けじと言い返す彼女は大塚の妹だ。
「ちょっと、受付で兄妹喧嘩はやめてよ~、ふたりとも」
奥から院長の声がする。先程冬を診てくれた彼は、妹の結婚相手だと大塚から聞いていた。つまりここは大塚の義理の弟の歯科医院なのだ。
与えられた四日間の休暇の初日、冬は親知らずを抜きに訪れていた。
「はーい宮田さん、お大事にしてくださいね!」
兄妹の言い合いの末にようやく会計は終わり、大塚の妹に大きく手を振られながら冬は大塚と共にそこを後にした。
名取から何度も殴られた頬は腫れて痣になったが、それよりも痛みが大きかったのはあの親知らずだった。しばらく収まっていた痛みがあの衝撃でぶり返してしまったようだ。痛み止めで疼痛を和らげ、大塚に連れられるまま着いた先は真新しい歯科医院だった。対応してくれた女性が大塚に剣呑に話すので何事かと思っていると、妹だと紹介された。
『出来の悪い妹の結婚相手が優秀な歯科医なんだよ』
大塚の言い草にぎょっとしていると案の定妹の梓が怒り、兄妹喧嘩が始まった。その騒ぎを聞いて奥から出て来たのは対照的にのんびりとした男性で、喧嘩をよそにさっさと冬を診察室に通し治療を始めたのだった。きっとこういうことには随分慣れているのだろうと思っていると、それが顔に出ていたのか院長は笑った。
『結局ブラコンなんですよねえ、あんな感じだけど。好きすぎてああいうふうにしか喋れないみたいで』
年も離れているし、と続けた院長は大塚と同じ頃に見えた。雰囲気もどこか大塚に似ている。
違うのは物腰の柔らかさと、よく笑うことだろうか。
でも、と冬は思う。
大塚も笑うのに…
「痛い?」
運転席からちらりと大塚はこちらを見た。その横顔を無意識に眺めていた冬は、我に返ってさっと目を前に戻す。信号待ちの車の列が出来ていて、ゆっくりと車は減速した。
「あいじょぶ…、っ」
大塚の手が伸びてきて、冬の顎を掴み、自分の方に向けた。
「帰ったら頬ももう少し冷やそう」
「いじょうぶ、もう」
「そうか?」
頷くと心配そうにこちらを見ていた目が柔らかく緩む。
その視線はこんなにも優しい。
指先が離れる寸前頬を擽るように掠めていき、ずきりと胸が痛んだ。
あれから二日。
時間が経つのは遅いようで早い。
***
騒動から一夜明けた昨日は社内は一見何事もないかのように、日常の業務が行われていた。建部と課長に連れられて冬が入った会議室には、名取の上司である相沢と、その上の役職であろう人が揃って待っていた。冬たちが入ると彼らは深く頭を下げ、今回の会社としての謝罪を述べた。
「警察への通報をされなかったご判断、誠にありがとうございました」
白髪の男性が礼を述べた。彼は相沢の上司であり、フルタックの常務だった。
「いえ、それは宮田からの強い希望でしたので、私どもはそれを受けてこういった形にしたまでです」
常務は──受け取った名刺には熊井とあった──熊井はその言葉を受け、冬に深く頭を垂れた。相沢にも同じようにされ、冬は慌ててそれを返すように頭を下げた。
「あの、僕も…、これ以上のことは望んでいません。それに、きちんと確認をしていなかったのはやはり友人として甘さがあったのだと思っています」
「そんなことは…、しかしそう言っていただけて、お恥ずかしい話ですが大変ありがたいと思っています」
「宮田くん、怪我は…?」
相沢に聞かれ、冬は頬に触れた。
大きなガーゼが当てられ腫れてはいるが、それほど痛みは感じなくなっていた。
「大丈夫です。冷やしておけば何とも」
「すまなかったね」
「相沢さんこそ、ありがとうございました」
「建部さんから連絡が来たときは信じられなかったけど、驚いたよ。名取があんなことをするなんて…」
あの夜、オフィスに駆け付けた建部が大塚に言われて掛けた連絡先は警察ではなく、相沢だった。名取の直属の上司である相沢は建部の簡単な説明にすぐに行くと言った。建部は相沢が到着するまでの間名取から事情を聴き出そうとした。
それに対し名取は何も答えようとせず、相沢が到着しても状況は変わらなかった。
相沢は冬の怪我やオフィスの惨状を見てすぐに上司に報告し、警察に連絡をしようとしたが、冬はそれを止めた。
『あの、おれへの暴力のことは出来れば事件にはしたくないんですが、駄目ですか?』
ふたりは──離れた場所で成り行きを見守っていた大塚も──驚いた顔をした。特に建部からは強く反対されたが、冬はしないことを押し通した。
『それで本当にいいんだな?』
『はい』
『だが侵入したことの責任は免れないぞ』
『はい、それは…分かってます』
ふたりの関係性を知っている建部は何かを感じ取ったようだったが、それ以上何も言わなかった。
相沢に連行されるようにしてオフィスを出ていく名取と、一瞬だけ目が合った。
その目は冬を見ていたが、何も見ていないようにも見えた。
そして一晩明け、相沢から名取がようやく理由を話したと連絡があった。
『どうやら名取は、商品情報の窃盗目的で入ったようです』
「まさか相沢さんの部下がと私も驚きましたが…、分からないものですね」
課長の言葉にその場にいたほぼ全員が重く頷いた。
そう、冬とのいきさつを名取は何も話さなかった。
相沢から事前に聞かされた名取の主張は、以前インクルードを訪れたときの通行カードを使い守衛に鍵を開けさせて中に侵入、その日たまたま残っていた冬に見つかり、咎められたあげくの暴行ということだった。そんな片鱗を見たことがなかった相沢は試しに他の者にも聞き取りを行ってもらったが、名取の話は始終一貫して同じだったそうだ。
状況から見ればそれに疑いの余地はなかったが…
時折建部が何か言いたそうにこちらを見ているのを冬は感じていた。
「それでは、我々は今日はこれで…、宮田さんお大事にしてください」
「はい。ありがとうございます」
見送って来る、と言う課長と、冬と建部はエレベーターホールで別れた。扉が閉まり、下げていた顔を上げると、建部が言った。
「あの、おまえの写真だけどな」
横を向くと建部はちらりと冬に目をやってから、顎で廊下の先を示した。歩き出した彼に冬はゆっくりとついて行く。
「消しておいた。あのとき、全部」
「…ありがとうございます」
「データは残ってるかもしれないけど、まあそれは仕方ないよな」
昼休み後の休憩室にはもう誰もいない。建部とふたりで窓のそばに行くと、長椅子に座るように言われ、建部はポケットから小銭を取り出して缶コーヒーを二つ買った。
「なんでもっと早く言わなかったんだ? 名取君から…執拗にされてるって」
「すみません」
「友達って言ったのは、違ってたのか?」
開けた缶コーヒーを建部はぐい、と飲んだ。
「どうなんでしょうね。最初に離れたのはおれで…、ゆ…名取があんなふうになったのはおれが原因だったのかも」
「複雑だな」
「…ですね」
手の中の缶コーヒーを開ける。甘い香り、普段は飲まない甘いコーヒーだが、今は気持ちが落ち着く気がした。噛まれた肩は出血ほど酷くはなく、腫れている頬も見た目に反して痛くはないが、ダメージは別の所にも出ている。あれから痛み出した歯のことは関係がないので黙っておいた。
「人の気持ちなんて、目には見えないからな」
「……」
そう、人の心の中は外からは見えない。
その人だけの秘密。
その人のすべて。
名取が何を考えていたかなんて今ではもう分からない。これから先話すことがあったとして、一体何を話せばいいのだろう。
甘いコーヒーが喉を落ちていく。
その香りが昨日の夜の記憶を揺り起こす。
最後にこちらを見た名取の姿が浮かんで、じわりと涙が滲んだ。だが気づかれないようにそっと何度も瞬いてコーヒーを飲んだ。
「処分、軽いといいですね」
多分、そんなはずはないと分かっていても口にせずにいられなかった。
名取の会社は今大変なことになっているようだ。相沢が先程そっと教えてくれたが、解雇は免れないだろうということだった。
「…お人好しめ」
ぐしゃっと頭をかき回されて、上げていた髪が額に落ち瞼を覆った。気を遣われている。小さく鼻を啜り俯いて小さく笑うと、建部が飲み終えた缶をゴミ箱に捨てた。がこん、とその音はやけに大きく響く。
「で、さーあ、あの…」
言いにくそうな声音に冬は顔を上げた。
自販機の前に立ったまま、建部がこちらをちらりと見る。
「あの大塚さんって、…なに?」
目が合ったまま、お互い何かを言おうとしてやめる。
大塚のことは訊かれるだろうと思っていたが…
「あー…、いや、その、オレは心配してるだけ。何にも思わないけど」
建部の言わんとしていることが分かり、冬は苦笑した。
彼らしい言い回しだ。
「先輩の思ってることは合ってます。おれは多分、そっち寄りの人間で…、名取とはそれが理由で離れたかったから」
何も言わずに建部は聞いている。
その沈黙がありがたいと思った。
「大塚さんはおれの知り合いで、色々助けてくれて…いい、友達です」
友達という言葉に腹の底がずきりとする。
でも、それは本当だ。彼は恋人ではない。
名取をやり過ごすために、そのフリをしただけだ。
キスはしたけれど──
「友達って…、それだけか?」
「ええ、まあ」
名取がこうなった以上、これから何かあることはないだろう。
大塚との恋人ごっこはもう終わり。
昨夜駆け付けてきてくれたことにもう一度お礼を言って、それから…
それから。
「ふうん、そんなもんか?」
「思っているようなことは何もないですよ」
「へえ、…」
意外そうな顔をした建部に冬は苦笑を返した。
そうだ、何もない。
大塚とはもう──これからも。
「じゃあそろそろおまえは帰って休め」
飲み終わったまま握っていた缶を冬の手から取り、建部はごみ箱に捨てた。
「ほんとにいいんですか?」
「いいに決まってるだろ。今日もオンラインでいいっつったのに、よく来たもんだよ」
呆れた顔をした建部に冬は恐縮する。自分では平気なつもりだが、はたから見るとそうでもないようだ。
「ほらはやく帰れ帰れ。他の連中に見つからないうちに。来週の火曜まで絶対来るんじゃないぞ」
明日の金曜から土日を挟んで月曜まで、冬には自宅療養休暇が言い渡されていた。これは課長から直々に言われたもので、必ず守るようにと言い渡されている。
顔の怪我は外回りには向かないし、きっとその間に上が色々動くのだろう。冬は与えられた休暇をありがたく受け取ることにした。
「じゃあ、火曜日に」
そう言って冬は建部と別れ、誰にも見られないように会社を出た。
少しだけ歩くのが気が重い。
外の風が頬に当たると、鈍く痛んで響く。電車に乗るのはきつい。贅沢だがタクシーを使うかと冬は大通りで手を上げた。
空車のタクシーがすぐに止まる。
「***町まで」
運転手に行先を告げた。それは自宅ではなく大塚のマンションの住所だ。
冬は昨日から大塚に強く言われて彼の家にいた。
座席に背を預けると知らずため息が出る。
この関係の解消を、早く大塚に言わなければ。
昨日からタイミングをうかがっているが切り出せない。
何て言えばいいだろう。
どんな言葉で伝えたらいいのだろう。
これ以上、彼を好きになるまえに。
***
歯科医院から戻る途中、何度か大塚のスマホが鳴っていたが、彼はそれを全部無視していた。余程の用なのか、呼び出し音はどれも長い。それこそ執拗なほどに。だからマンションが見えて来たとき、再び鳴り始めたスマホに、流石に出たほうがいいと冬は言った。
「大した用でもないだろ」
「でも出たほうがいいって。もう五回目だし」
「……」
これだけ長く鳴り続けるということは、それだけ早く連絡を取りたいということなのだ。
大塚は駐車場に車を入れると、渋い顔で切れたばかりのスマホを見た。
「おれ先部屋入ってるから、話してきて」
麻酔も切れてきて、上手く喋れるようになっていた。
買い込んだ荷物を持とうとすると、すっと横から取り上げられた。ばたんとドアが閉まりロックがかかる。荷物を手にした大塚に冬は驚いた。
「え、なんで」
てっきり車の中でかけ直すと思っていたのに。
「いいから、そっちも」
渡すよりも先に伸びて来た手に荷物を取られた。
「大丈夫だよそれくらい」
「いいから」
大塚はさっさと歩き出し、部屋の鍵を開けた。冬を中に入れ、ドアを閉める。再び着信音が鳴った。
「ちゃんと出なよ」
「あ、おい…」
玄関で大塚がスマホを取り出している隙に冬は荷物をその手から奪って奥に運んだ。途中ふらつくのは毎度のことで、壁沿いに行けば問題はない。
が、リビングに入ったところでぐらりと体が傾いだ。
「っ、…」
「ほら、言わんこっちゃない」
傾いた体を後ろから強く抱きこまれて、耳元でそう囁かれた。思わず跳ねた体を離さないまま、大塚はかすかに笑うと耳に当てたスマホに話した。
「いや、何でもないですよ」
『何でもないって何ですか今の、言わんこっちゃないって何? 仮にも僕は上司なんだから──』
「はいはい」
『っ! ほんとに! ほんとにあなたねえ、その態度どうにかならないのかなあ!?』
「なりませんね」
相手の声は大きくて、冬に聞こえるほどだった。随分怒っているようだが、こんな態度で本当に大丈夫なのかと心配になる。思えば冬はまだ大塚が何をしている人なのか知らないのだ。
一昨日の夜、会社に来てくれたのは仕事先で同僚の杉原に会ったからだと聞いていた。その杉原からは昨日出社したとき目敏く見つけられて──誰にも会わないよう遅く出勤したにもかかわらず──問い詰められたから間違いない。
『いやあああ! 何その顔!? どうしたのどうしたの…っ痛い痛い! 痛いって! 何があったのよおおお!』
それ以上に、腫れあがった顔を見て真っ青になった彼女に大騒ぎされてしまい、黙らせるのに苦労したものだが。
冬は思わず思い出してくすりと笑いを零した。その途端、ぎゅ、と腕の力が強くなり抱き寄せられる。
まずい、離れないと。
「…だから、休暇申請は出しておきましたよ」
『出したっていつ!? 僕聞いてないけど!』
「所長の机の上」
『ないけど?』
「よく見てみろ…」
『ああ?!』
冬は藻掻き、大塚の顔を仰いだ。放して、と声を出さずに言うと、気づいた大塚がゆっくりと腕の力を緩めた。
ほっと胸の内で息をつき、冬は床に落ちていた荷物を拾い、キッチンに運んだ。今度はひとつずつだから大丈夫だ。
それにしても…
「あったんならよかったじゃないですか。じゃあ俺は休暇なので、今日はもう掛けてくるなよ所長」
『お──』
断末魔のような叫びを残して通話は切れた。
「休暇?」
思わず聞いてしまった冬に大塚は顔を上げた。
「ああ」
「えと…」
もしかして、おれに合わせてくれた?
まさかとは思うがタイミングからしてそうなのだろうか。
肯定するように大塚は頷いて足元の荷物を手にした。
「随分働いたからちょうどいいんだよ」
「ちょうどいいって…そこまでしなくても、おれ帰るから」
顔の腫れはもう引いている。肩の傷も大丈夫だ。
「帰るって、昨日熱が出ただろ」
「いやすぐ引いたし…」
「駄目だ」
「なん、で…っ」
言い合ううちに距離を詰められ、背中が冷蔵庫に当たる。ひやりとした冷たさに首を竦めると、何かがことんと足元に落ちた。ころころと転がっていくそれはちいさなマグネットだ。つま先のすぐ横にはあのメモが落ちていた。
ああ、そうだ。
そうだった。
「もう大丈夫だって、おれはもう──」
「あいつがまた来たらどうするんだ」
「佑真はもう来ないよ」
「なんでそう言えるんだ、こんなにされて」
「だって、わかるよ…佑真はもうおれを見てなかった」
最後にこちらを見た名取の、あの空ろな目。空っぽで、何も映していなかった。こちらを見ているはずなのに見えていないように。そして唇が何かを言いかけてやめた。
きっとそれは自分しか気づかなかった。
あのとき、名取は何と言おうとしたのだろう。
「だから…」
「だからって大丈夫だとは──」
「おれのことはもういいよ。良くしてくれてありがとう」
大塚の声を遮るように冬は言った。
目を上げられない。泳ぎそうな視線を、大塚の向こうに転がるマグネットを見て繋ぎとめた。
「家に帰る。それで、恋人ごっこも、もう終わりしようよ」
開けておいた窓のカーテンがふわりと揺れた。
冷たい風が吹きこんでくる。
「それ、冗談か?」
ぎくりと顔を上げた。
どうして…
それは名取と全く同じ言葉だった。
険しい顔をした大塚が冬を見下ろしていた。
ああ、同じだ。
これではまるで、あの日のようだ。
あの日の──
違うのは、口にしたのが別れの言葉というだけだ。
「冗談、じゃ…ない」
あのときは肯定した。でも今度は否定する。
だって、と声が震えそうになるのを我慢した。
繰り返したくない。
同じことを繰り返したくない。
「史唯さんは、ほんとは女の人がいいでしょ…? おれは、おれは男で、だから」
つま先のメモが風で翻る。その字は女性のものだ。ここに前住んでいた人、大塚と一緒に。
それはかつて大塚の恋人だった人なのだろう。その人が残したものをいまだに捨てていないということは、そういうことなのだ。
「だから?」
「だからもう、無理しておれに優しくとかいいからっ…、気持ち悪かっただろ、ごめん」
そう言って行こうとした体を掴まれ、冷蔵庫の扉に押し付けられた。
「…っちょ、っ」
「そんなふうに見えたのか?」
二の腕を強く掴まれていて身動きが出来ない。力では到底適わないのだ。顔を覗き込むようにされて目を逸らした。涙がじわりと滲んできて、拭うことも出来ない。
駄目だ。こんなの、見られたくない。
「俺は無理してた?」
俯いて目元を隠すと耳元で囁かれた。
ぞくりと這い上がる感覚に、冬はぶるぶると首を振った。
「わかんな…」
「俺は嫌がってたのか?」
「知らな、っ、」
「答えろよ」
「っ、もう放し──」
これ以上は無理だ。
どうしてこんなに意地悪をするのか。
藻掻いていると、耳朶に大塚の唇が触れた。冬、と低い声で名前を呼ばれ、びくりと体が竦んだ。
「だって、…」
「だって?」
「メモが…」
冬の言わんとすることが分かったのだろう。大塚はゆっくりと言った。
「あれは、何でもない。ただ俺が捨てられなかっただけだ」
「その女の人がまだ好きなんじゃ…」
「そんなことはない」
掴んでいた腕の力が少し緩んだ。
「あれは戒めだ。自分に対する…あれを書いた相手とは何もなかったよ」
顔を上げると、困ったように笑う大塚の顔があった。
「昔の知り合いが仕事を通じて押しかけて来た。帰らないというから好きにしろと放っておいた。いつまで経っても手を出さない俺に痺れを切らして、暴れた挙句に出て行ったよ」
「……暴れた、って」
「そのままの意味だ」
思わず訊き返すと、大塚は自嘲気味な笑いを浮かべた。
「俺は不誠実でどうしようもない人間だが、…」
冬の腕をそっと放した大塚の手が、冬の頬をそっと撫でる。
ガーゼに覆われたそこを慈しむように、そっと。
まだほんの少しだけ残っている麻酔が、指が肌に触れるたびに体中に広がっていくようだ。
「好きでもない相手にあんなことはしない」
「──」
見開いた目元を大塚の指がなぞった。
「きみが好きだよ」
濡れた感触に瞬くと、もう一度好きだと繰り返された。
***
随分昔に一度だけ付き合ったことのある女は、大塚が自分の知っている大塚だと分かったとたん、手のひらを返したように擦り寄ってきた。
甘い言葉で行くところがないと言うから、断ると面倒そうだと思い家に入れた。仕事はいつも忙しくほとんど家にいなかったので、女がいるといまいと関係のない生活だ。好きにすればいいと放っておいたら、なぜ手を出してくれないのかと女に詰め寄られた。
出すも出さないも、興味がなかったのだ。
どんな人と付き合っても長続きしないのは昔からで、離れてしまえば思い出しもしない。女のことも、再会するまで名前も顔も思い出しもしなかった。性欲がないわけではない。ただ欲しいと思えなかった。誰もいらないし、誰でもいいのだ。
そう言うと女は怒り狂い、暴れ出した。
それさえも大塚は放っておいた。
好きなだけやればいい。
その姿は醜くて哀れだと思った。
愛情がなかったわけではないが、もういいと大塚は女に背を向けた。女は大塚を心底憎みながら出て行った。愛想を尽かし、殴り書きのメモを残して。
彼女が去ったあと、ひとりになった部屋で大塚はその言葉が予想以上に自分の胸の奥深くを突き刺していることを知った。
人でなし。
そう、自分はどこか欠けている。
人を愛せない自分は、感情をむき出しにしていた彼女と──醜いと蔑んでいた彼女と、何が違うのだろう?
醜いのは俺のほうか。
化け物のようになっているのは自分のほうだ。
残されたメモを戒めだと思った。
これから先、誰も愛せないかもしれない自分は、いつか本当に人ではなくなってしまうのかもしれない。
甘く上がる声が、まるで自分のものではないようだ。
体の下でシーツが擦れる。いつの間にか脱がされていた下半身は、片足に下着をひっかけるだけになっていて、酷く卑猥だった。
「やだ…、や…」
大塚の大きな手のひらが内ももを撫で上げる。脚を開かされる態勢に震えていると、脚の付け根の柔らかな部分に口づけられた。
「あ、っ、…! 史唯さ、だめ、だめっ、え…!」
いきなり熱い舌に自分のものを舐め上げられ、冬は仰け反った。背骨が弓なりに浮き上がり、身をくねらせるが、両の太ももをがっちりと抱え込まれるようにされていては身動きが出来ない。
「やめて、やだっ…そんな、の、あっ、だ…、だめ、っ…」
下腹を擽る大塚の髪の感触に、涙が滲んだ。蠢く髪に手を入れて、冬はどうにかやめて欲しいとするが、力が入らない。
冬のものを咥え込み、ん、と漏れる大塚の声に全身がわなないた。耳から入る愉悦が甘く体中に広がっていく。
「あ、あ、あ、ッ…ふみ、た…っやあ、あ、あっ…」
ず、ず、と強く吸い込まれ息が上がっていく。細い体がびくびくと跳ねる。自分ひとりでは味わったことのない甘ったるい快感が腰の奥から這い上がって来る。このままではまずいと冬は逃げようとしたが、許されなかった。
「…っ! や、あ、あああああっ…!」
ぶわっと爆ぜた絶頂に冬は声を上げた。長く尾を引くそれは部屋中に反射して、耳からも犯されるようだ。
「は、はっ…、…あぁ…っ」
大塚の口の中に放ってしまった。羞恥に涙が浮かんでくると、宥めるように萎えた陰茎をゆっくりと大塚が口に中で食み、残った体液を吸い上げた。
「んんぅ…うっ、あ、…あー…っ」
「…冬」
名残惜しそうにようやく口を放した大塚が、冬の体に覆いかぶさった。はだけたシャツの胸元をゆっくりと撫でながら、唇の端にキスをした。
「…ん、んっ」
どうしてそんなところなのか。もどかしくて顔を傾けると、唇を覆われ、宥めるように舐められた。
「痛くない…?」
「……う、んっ…」
「大丈夫か?」
どうしてそんなことを聞くのだろう。
そう思っていると、微かに笑った気配がして、舌が入ってきた。
「…んう…、んっ」
舌先を絡めとられ吸われると、いつもよりもずっと痺れて感じた。
深く差しこんでくる大塚の舌が余すところなく動いているのに、ある場所には触れてこなくて、ああそうだったと冬は思い出した。
そういえば歯を抜いたばかりなのだ。
こんなことをして──
「あ、…ん」
唇が離れ、首筋を辿った。顔を埋めた大塚がぎゅっと強く冬を抱き締め、確かめるように深く息をする。
名取に噛みつかれた場所は頬と同じくガーゼに覆われていた。大塚はそっとそこを剥がし、傷跡を舐めた。
「アッ…!」
びくりと跳ねた体をきつく大塚は抱き込んだ。その重みに胸が苦しくなる。は、は、と息が上がる唇を大塚の指が撫でていく。
「…くそ、こんなにしやがって…」
「い、あ、…っ史…っ、んんっ」
「痛むか…? ごめん、ごめん…冬」
「んんん、っ、ぁ…あ」
大塚は傷を癒すように何度も何度もそこを舐めた。涙が滲んでぼやけていく。ゆらゆらと揺れる視界、部屋の中はまだ明るくて、わずかに開けている寝室の窓のカーテンは揺れていた。
「も、…」
大丈夫。
大塚の顔を手のひらで包み、冬は微笑んだ。
好きだ。
この人が好きだ。
好きだ。
「…すき」
目尻から涙が伝う。
言葉は簡単に零れだす。
あのときと同じように、胸の内側から押し出された言葉は、勝手にいくつもいくつも溢れていく。
「すき、史唯さん、すき」
「…俺もだよ」
でもあのときとはもう違う。
返される同じ気持ちに涙が溢れた。
苦しかった記憶が押し流されるようにして溶けていく。
「好きだ、…好きだよ」
いつの間にか濡れた指先が後孔をゆっくりと撫でていた。
「あ…っ、や、」
涙で濡れた目尻を吸い、大塚の唇がゆっくりと下に降りる。たどり着いた乳首を口に含まれ、冬の体は浮き上がった。そんなところ自分でも触ったことがない。舌先でこね回され、両方同時に弄られる。きゅっと強く抓られ甘い痛みに痺れた。後孔にゆっくりと入ってきた指に冬は高い声を上げた。
「あ、あっ、やあ…!」
「冬、好きだ」
大塚の指を体の中に感じる。生温かな液体を注ぎ足され、その水音に息が上がっていく。
「あ、あ、あ」
「気持ちいいところがあったら言うんだ」
「こわ、い…っふみたださ、んんっ、こわい…っ」
「大丈夫だよ」
探られ、広げられ、感じさせられる。大塚の長い指は気がつかぬうちに増えていき、冬の中を掻き回していく。
気持ちいいのと未知の感覚に翻弄され、冬は首を打ち振るって声を上げた。
「! あ!…っ、イ、ぁああッ!」
大塚の指先が奥を抉ったとき、目の前が真っ白になった。全身がびりびりと震え、冬は高く甘い声を上げた。
「ここか」
「あ、あ、あ、っ」
あ、と冬は仰け反った。散々弄られた場所に熱いものが押し当てられる。
「あ…っ」
「…冬」
好きだ、と耳元で囁かれた瞬間、指とは比べ物にならないほど大きな大塚のものが入ってきた。仰け反る冬の体を覆いつくすようにして大塚は抱き留めると、甘やかな声を上げ続ける冬の声ごと奪うように唇を食んだ。
全部、全部欲しい。
この体も、心も。
「あっ、あ…や、あっ」
逃げようとする体を抱き込んで感じる場所を抉るように腰を動かすと、冬の細い体が細かく震えた。うつ伏せた背に覆いかぶさり、揺すり上げる。手を伸ばして緩やかに立ち上がった冬の性器をそっと撫でると、泣くような声で冬がしゃくり上げた。
「う、うっ、あ、あ…っ、も、やぁ…」
「冬」
背後から耳元に囁くと、強引に振り向かせ口づけた。口の中はかすかな血の味がした。せめて明日までは待とうと思っていたのに、我慢が出来なかったのは、どうしようもない自分のせいでしかない。
今まで誰も本気で愛せなかった自分が、ようやく手に入れたものを失くすかと思う恐怖は、理性を吹き飛ばすには十分だった。
何度目かもわからない欲望が溢れて止まらない。
壊しそうだと思うのに、優しくしたいと思うのに、出来ない。
ふと、あの男もこんな気持ちだったのだろうかと思い、大塚は首を振った。
違う。
俺は。
俺は…
あんなふうになったりしない。
絶対に。
「は…、くそっ」
「あ…あ…、っんう、う、っあ…」
奥へ奥へと穿つたび、冬の上げる甘い声に頭の芯が解けていくようだ。
もっと欲しい。
もっともっと──
「あっ、あっ! やあ、…っあ、ああああああー!」
繋がったまま背後から抱き締めて起こした体を膝の上に落とした。さらに奥にまで入り込んだ大塚に冬の体はびくびくと跳ねた。腕の中に強く抱き込んで絶頂に耐える。うねる冬の体内と連動するように細い足が震えている。
「ふゆ、っ…」
余韻にわななく冬の性器を大塚は擦りたてた。悲鳴のような声に心臓が沸騰する。細い体を揺さぶり、抱き締めたまま大塚は冬の奥で絶頂した。好きだと叫ぶように唸ると、冬もまた何度目か分からない絶頂をし、大塚の手の中を濡らしていた。
目が覚めると、窓の外はもう夜になっていた。
ずっと、あれからずっと、抱き合っていたのだろうか。
冬はゆっくりと起き上がり、大塚を起こさないようにベッドから出た。
薄い闇の中を歩き、水を飲もうとキッチンに行く。
大塚の服なのか、大きなスウェットはぶかぶかだった。下は履いていなくて心もとないけれど、仕方がない。
リビングのテーブルの上にある自分のスマホが目に留まり、冬はそれを手に取った。着信やメッセージは会社の同僚たちからのもので、冬の体を心配するものばかりだった。誰にも言っていないのに皆知っているということは、おそらく杉原が我慢出来なくて言ってしまったのだろう。口止めをしなかったのは冬のほうなので、それはもう仕方のないことだと苦笑した。
それらをひとつずつ確認してから、返事は明日でいいかと冬は思った。もう夜も遅い。
きっと皆、眠りについているだろう。
開きっぱなしだった窓に近づいて、冬はそれを閉めようとした。
大きな月が出ている。
持っていたスマホが震えて、不在着信を知らせていた。
それは非通知からの着信だった。
こんな時間に?
ぼんやりとそれを眺め、ふと、名取からのような気がした。あれから連絡はない。冬から一度掛けてみたのだが、電話はもう通じなくなっていた。
相沢から聞いた話を思い出す。
名取は迎えに来た妻とは口も利かなかったと。
そして妻の日向はあまり名取に関心がないようで、まるで他人のようだったと言っていた。
名取は今、何をしているのだろう。
寂しいと思った。
彼が今きっと、ひとりでいることが。
でももう、関わることは出来ない。
終わりにしたいとずっと願っていたのは自分なのだ。
冬はスマホの中に残っていた名取の連絡先をすべて消した。
再会してから今日までのすべてが、一瞬のうちに消えていく。
「冬?」
顔を上げると、大塚が立っていた。
起こしてしまっただろうかと思っていると、近づいてきた彼に抱き締められた。
「…逃げたかと思った」
「え…?」
「いなくなったかと」
ああ、そうか。
冬は大きな体を抱き返し、大丈夫、と言った。
「…そんなことしないよ」
もう逃げたりしない。
もう隠れたりしない。
苦しさから逃げ出してばかりだった。
宵の闇にまぎれるようにして身を隠し、ずっと、向き合って来なかった。
抱き合った温もりに何かが溶けていく。
目を閉じると、最後に見た名取の姿が浮かんできた。
振り向いた名取は冬を見ていた。その目はきちんと冬を見つめていた。
あのときかすかに動いた唇が何と言っていたのか、今なら分かる。
冬は同じ言葉を胸の内で呟いた。
こんな簡単な言葉でよかったのだ。
こんな…
滲んだ涙を大塚の指が拭う。
やがて名取は静かな笑みを浮かべると、冬の中からゆっくりと消えていった。
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