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 どく、どく、と心臓が音を立てる。  今にも胸を突き破って飛び出してきそうだ。  呼吸が上手く出来ない。 「そんなに驚かなくてもいいだろ?」  言葉を失くしている冬に、名取は困ったように笑った。 「昨日、今日は仕事だって言ったの、覚えてない?」  覚えていない。  昨日のことを冬はほとんど思い出せない。  名取と何を話したのかぼんやりとすべてが曖昧だった。 「悪い、…ごめん」 「そう」 「ごめん昨日は…、でもわざわざ来なくても」  くすりと鼻を鳴らして名取は肩を竦めた。 「外に出たからついでに様子を見に来たんだよ。連絡返って来なかったから」 「あ、おれ昼前に返したけど…」  名取はそこでスマホを出し、ああ本当だ、と呟いた。 「気がつかなかったな」 「…本当、昨日はごめん。おれ、なんか色々やらかしたみたいで…」  もう一度謝ると、名取はいいよ、と言った。 「急に意識がなくなったんだよ。酔いつぶれたのかと思って」  心配した、と言われて冬は何も言えなくなった。 「うん…」  ごめん、と冬はもう一度謝った。 「おれ昨日鎮痛剤飲んでて、それ酒と合わないって知らなくて。ほんと、悪かったよ」 「いいよ」 「佑真にも、あと大塚さんにもめいわ──」 「ミヤ」  冬の言葉を名取は遮った。 「この後予定ないなら少し付き合ってよ」 「…え」 「いいよね」  冬は戸惑った。だが昨日かなりの迷惑をかけたのだ。ここで断ってしまうのは申し訳ない気がして冬は頷いた。  名取はそんな冬を見て笑った。 「じゃあ行こう」  そう言って名取は歩き出した。気乗りしないが仕方がない。ついて行こうとして、ふと気がついた。 「なあ、おまえひとり?」  日向は一緒ではないのだろうか。  休みだというのに。  名取はああ、と言った。 「日向さんは?」 「まだ出張中なんだ、日曜に戻ってくる」 「そっか…忙しいな」  そういえば出張だと言っていたのを思い出した。  あれは確か週のはじめだった。そうだとしたら一週間も家を空けていることになる。  結婚前に言っていたように、彼女は本当に忙しそうだ。 「いつもそうだよ」  大したことでもないように言って名取は冬を促した。 「疲れただろ、お茶でもしよう、僕も喉が渇いたから」 「…ああ」  並んで歩き出す。  ざわざわと気持ちが落ち着かない。  距離をもっと取りたいのに、どうして隣にいるのだろう。  まるであの頃のように。  高校時代もこうしてふたりでよく街を歩いていた。  まだ自分の気持ちに無自覚で、名取への好意を友人のそれだと思っていたから、何も考えずひたすら一緒にいたのだ。  それが変わってしまったのは、高校二年の秋。  冬が同級生の女子と付き合い始めてからだ。 『宮田くん、あの、私ずっと宮田くんのことが…』  放課後、委員会があるからとひとり委員会室に向かっていた。名取も一緒の委員会だったが、担任に呼び出されていたので、冬は先に行っていたのだ。  その廊下の曲がり角に彼女は立っていた。  何も知らず階段を上がろうとした冬は、死角にいた彼女に驚いてしまった。 『わ、びっくりした…っ、何してるの、こんなとこで』 『あ…、ちょっと…人を待ってて』 『人?』  その時なぜか冬は、それが名取のことだと思ったのだ。  当時から名取は異性によく好かれていた。人好きのする笑顔のせいか友人も多く、少し話すだけで誰もが名取を好きになった。  大袈裟かもしれないが、それは本当のことだ。  だから冬は彼女もてっきりそうなのだと思った。この階段を上がった先にあるのは委員会室だけ、そしてこんな人気のないところで誰かを待ち伏せる理由など、ひとつしかない。 『あー、佑真なら佐山先生に呼ばれてて、ちょっと遅くなるって』 『え…』 『まあでももう来るよ』  担任の佐山の用はそれほど大したことでもないだろう。教室を出るときにたまたまそこにいた名取が呼ばれただけだったのだ。  それじゃ、と言って冬は彼女の前を通り過ぎようとして──足を止めた。待って、と言った彼女の声に振り向いた。 『待って、違う。名取くんじゃないよ』  彼女はうつむいていた。  耳まで赤くなって。 『私が待ってたのは宮田くん、で…』  赤い顔を上げ、上目に冬を見る目は泣きそうだった。  その目でじっと見つめられた。  それでようやく冬は彼女が自分に向けている好意に気がついたのだ。  宮田くん、と彼女は言った。 『あの、私…ずっと宮田くんのことが好きなの』 『え…、おれ…?』  こくりと彼女は頷いた。 『よかったら、…私と、付き合ってもらえないかな?』 『ええ、と…』  冬は彼女の名前を知らなかった。  同級生だということは分かる。でも違うクラスだ。名取と違ってそれほど冬に友人は多くない。それに元々あまり友人を求めないほうだった。名取と一緒にいるようになってそれも薄れてきていたが、関係を広げていくのは性格的に合わないと感じていた。  だからクラス以外の同級生のことなどまるで興味がなく、彼女のことも何も知らなかった。 『あの…』 『急にごめんね、あの、返事はまたでいいから』  冬の戸惑いを告白されたことへのものだと思ったのか、彼女は早口でそう言うと、そのまま目の前の階段を下りて行ってしまった。 『ちょ…っ、』  待って、と声を掛けた時にはもう、彼女の姿は見えなくなっていた。 『走るの早…』  はあ、とため息をついた。  どくどくと心臓が高鳴っている。  告白されたことなど冬はこれが初めてだった。  でも。 『…誰だったんだろ』  名前くらい言っていけばいいのに。 『──島津遥香だよ』 『っ、!』  突然後ろから声がして冬はばっと振り向いた。  ちょうどこちらからは見えないぎりぎりの位置に、名取が立っていた。 『おま、えっ、何して…! ていうか、聞いてたな!』 『来たらちょうど話してたから』  寄りかかっていた廊下の壁から身を起こし、名取は冬を見下ろした。ようやく身長も伸び、差が縮まりつつあったが、見下ろされることに変わりはない。 『邪魔しちゃ悪いと思って』 『だからって、そこにいることないだろ』 『ごめん』  反省などしていないような顔で名取は笑った。 『…おまえあの子知ってるの?』 『中学が同じだった。確か五組だよ』  五組。冬のクラスは三組だ。接点はないはずなのに、どうしておれなんだろう? 『…で?』  顔を上げると、じっとこちらを見つめる名取の目と視線が合った。珍しくその顔からは笑顔が消えていた。 『で、って…』 『付き合うの?』  名取の言葉に冬は何も返せなかった。  付き合うんだろうか?  今日初めて認識したばかりなのに。 『わからない』  もう行こう、と冬は名取を促した。  委員会はもうとっくに始まっている。  誰かが呼びに来てもおかしくはなかった。 『ほかに好きな人いるの?』 『え?』  階段に足をかけたまま、冬は振り向いた。  いつもとは逆に冬が名取を見下ろしている。  窓から差す傾いた日の陰で自分を見上げる名取の顔は暗かった。  好きな人。  好きだと思う誰か。  そんな相手は── 『いないけど』  上のほうから誰かの足音が近づいてくる。  案の定探しに来たのかもしれない。 『佑真、早く』  冬はさっと階段を上がり、名取を呼んだ。  結局、冬は遥香と付き合うことにした。  後押しをしたのは名取だった。  そして思い知らされたのだ。  自分がどれだけ無自覚に名取をそういう意味で──好きになっていたかということを。  かたん、と置いたカップがやけに大きな音を立てた。  駅近くのカフェで向かい合って座り、とりとめのない話をしている。 「疲れた顔してるね」  名取の言葉に、そうかも、と冬は相槌を打った。  飲んだコーヒーが苦い。  どうして今日は思い出したくもないことばかり思い出してしまうんだろう。 「まあ、今日は早めに寝るよ」  早く帰りたい気持ちをやんわりと込めて冬は言った。  ふたりきりでいるのは嫌だ。  たとえ大勢の人がいるこんな場所でも。  胸の中に重い石をぎゅうぎゅうに詰め込まれたみたいに、息が出来ない。  冬はまたカップを持ち上げて口をつけた。苦いばかりのコーヒーを飲むふりをして、名取から顔を逸らし、窓の外に視線を向ける。  外はもう薄暗かった。夕暮れの時間。さっきまであんなに明るかったのに。  すぐに夜が来る。  …映画、行きたかったな。 「その服似合ってるよ」 「…え?」 「まだ高校生みたいだ」  名取は笑顔で言うと、カップをゆっくりとした仕草で口に運んだ。ふとテーブルに置かれた手に目が行きそうになって、冬はさっと視線を逸らした。 「高校生って…、おれもう26だぞ」 「そうだっけ」 「そうだっけって、おまえな…」  くす、と名取は笑った。 「僕の中じゃミヤはまだ高校生だよ」 「……」 「こうしてるとあの頃の続きみたいでいいね」  あの頃の続き。  八年も経ってまた、あんな思いを繰り返すのだろうか。  嫌だ。  もう嫌だ。 「佑真、あのさ…」  仕事のことは仕方ない。  でもプライベートで会うのはこれきりにしたかった。  冬は今がそれを伝える絶好の機会だと思った。 「あの、おれは──」  意を決して口を開いた。  だが名取は一瞬早く、にっこりと笑って言った。 「じゃあ、このあとどうする?」  え、と冬は戸惑った。 「食事して、映画とかどう? ミヤの好きそうなやつやってるよ」 「いや、佑真おれ、──」  もう会わない、と言いかけた冬の前に、名取がゆっくりと身を乗り出してきた。  「だめだよ、昨日のこと忘れたの?」 「…、っ」  顰めた声が耳元にかかり、思わずぞくりと背筋が震えた。  首を竦めかけると、すぐそばでかすかに笑う気配がした。 「また誘ってもいいって言ったのはミヤだ」 「──」  冬が何を言おうとしたのかを見透かしたように名取は微笑んで、優しいのに有無を言わせぬ口調でゆっくりとそう言った。  なんで、こんな── (佑真…?)  そして冬はそこではじめて、名取を怖いと思ってしまった。
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