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『え?』  と冬は振り返った。  委員会が終わった放課後、他の委員はもう皆帰ってしまい、部屋の中は冬と名取しかいなかった。 『だから、一回付き合ってみれば?』  ひどく驚いた冬の顔を見て、名取は困ったように笑った。まさかそんなふうに言われるとは思っていなかった冬は、さらに目を丸くした。 『おれ全然知らないんだけど』 『でも話をすれば気が合うかもしれないよ』 『…──』  確かに、それは一理ある。知らないからという理由だけで拒絶するのはなんだか違う。話してみれば、同じ時間を少しでも共有すれば、人となりも分かり、彼女のことをもっと知れるかもしれない。  今はまだ全然好きな気持ちはないけど。  うーん、と冬は唸った。 『じゃあ、そうするかなあ…』  大きくため息を吐き、机の上に突っ伏した。  天井付近のスピーカーからは下校を促す音楽が流れだした。普通の教室よりも少しだけ広めに作られた多目的室には円状に並べられた机と椅子と壁際に寄せられたホワイトボードだけ。  頬をつけた机がひんやりとして気持ちがいい。 『彼女か…』  さっき告白されたばかりで実感も湧かない。  彼女というものを欲しいとか欲しくないとかよく分からない。周りの同級生たちは彼氏彼女がいて楽しそうではあるが、正直自分から欲しいと思ったことはなかった。  脱兎のように走り去っていった島津遥香。  彼女の顔もまともに思い出せないのに。 『ミーヤ?』  目を閉じて唸っていたら、くしゃりと髪を撫でられた。名取は時々こうしてくるが、くすぐったいからやめて欲しい。でも名取の手に触れられるのは嫌じゃなかった。 『眠いの?』  帰ろう、と言われて首を振った。 『うーん…、もう少し』  放課後のこの時間が冬は好きだった。  名取とふたりで何をするともなく過ごすのが心地いい。  遥香と付き合ったら、こんな時間もなくなってしまうのだろうか。 『おまえと遊んだりとかも減るのかなあ』  それは何となく嫌だと思った。気がつけば口に出してしまっていて、大きな独り言になんだか少し恥ずかしくなった。 『……佑真?』  髪に触れていた名取の指が止まっていた。返事がない。おかしなことを言ったのだから笑い飛ばしてくれればいいのに。 『なあ…?』  どうしたのだろう。  冬は視線を巡らせる。  すぐそばに名取はいた。  夕暮れの翳る陽を背にしてじっと冬を見下ろしていた。  そのとき一瞬、名取の顔からは表情が消えていた。そしてにっこりと笑った。 『帰ろうか』  ああ、そうだ。  思い返せばいつも名取は笑っているわけではなかった。  どうしてそのことを忘れていたのだろう。  ふとした瞬間に表情が消えていた。  端正な顔立ちだから笑うと華があり、周りには人がたくさん集まるが、真顔になると途端に近寄りがたくなる。  そうだ。  それは決まって二人きりのときで…  だから冬は── 「──冬」  ぽん、と肩を叩かれて振り返ると大塚が立っていた。  思わず肩が跳ねた冬を、大塚は少し驚いたように見ていた。 「? どうした?」 「あ、いえ──なんでも」  思っていたよりも考えに沈んでいた自分に驚いた。大塚が傍に来るまで全然気がつかなかった。 「遅くなって悪かったな」  待ち合わせは地下鉄の入り口だった。急いで上がって来たのか、少し息を切らせている大塚に大丈夫、と冬は笑った。遅くなると連絡を貰ったのは三十分ほど前で、冬が会社を出たのと同じ頃だった。  大塚が時間通りに来ていたら、冬のほうが遅刻していたのだ。 「おれも今日残業してま…、してたから」 「そうなのか?」  今度はくすりと大塚が笑った。  思わず出そうになった敬語を言い換えたのが分かったのだろう。  先日さんざんいいように揶揄われたことを思い出して冬はなんだか恥ずかしくなった。敬語を使わずに話すことにまだ慣れない。  顔を見るのもどこか意識してしまい、冬は目を逸らせた。 「どうかしたか?」 「な、なんでもない」 「じゃあ、飯に行くか」  わざとのように顔を覗き込まれる。目を見たら負けるような気がしてぎこちなく頷くと大塚が吹き出した。 「な、なんで笑うんですか…!」 「いやいや…、」 「大塚さんが──」 「ああ、俺が悪かったな」  口元をほころばせた大塚が冬の腕を取った。ほら、と促される。 「腹減って死にそうだ、行こう」  きつい顔の目尻が下がっていて、思わず見とれた冬はまたぎこちなく頷いた。  付き合う以上は出来るだけ会おうと言ったのは大塚だった。  だが大塚は仕事柄終業時間が一定ではなく、時間がかなり不規則なのだそうだ。だから時間が取れるかどうかはその日にならなければ分からず、結果会えそうなときに連絡をするということで話はまとまっていた。  そして今日仕事中に大塚から来た連絡は、夜食事に行く時間が出来たということだった。  照明を落とした店内で、大塚は言った。 「何がいい?」 「あー…、ええと、おれこれがいいな」 「分かった」  メニューを差し出されて答えると、頷いた大塚が手を上げてウェイターを呼んだ。音もなくやって来たウェイターに、大塚は慣れた様子で注文をする。 「かしこまりました」  綺麗な角度でお辞儀をすると、ウェイターはメニューを下げ奥へと行く。冬はその後姿を見送って、改めて店内を見回した。  なんだかすごいところに連れてこられた気がする。 「どうした?」 「いやなんか…、すごいから」 「こういうところは初めてか?」 「一度建部さんと──あ、上司と一緒に。仕事がまとまったお祝いで褒賞が出たから、ふたりで行ったことはあります」  今冬がいる店は古い洋館をそのまま使っている老舗のレストランだった。レストランとはいってもその頭には星がついていて、気軽にふらりと来れるようなところではない。ましてや仕事帰りに行こうとはならないだろう。  で、と大塚は言った。 「名取くんからは?」 「ああ…、連絡は来てたけど、仕事のことで」  それは半分本当で半分嘘だった。  名取から連絡はあったが、仕事のことではない。大塚から連絡を貰ったのと入れ違いのように入っていたメッセージには、近く会えないかというようなことが書いてあった。  プライベートでは会わないと言ったのに、名取は冬の話をやはり信じてはいないようだった。もちろん忙しいと断りを入れた。本当なら仕事で顔を合わせるのも気まずいが、今週名取の会社との打ち合わせはオンラインのみで、それも建部がやることになっている。その次はきっと再来週になるだろう。二週間の間にどれだけ連絡が来ても冬は突っぱねるつもりだった。それに名取の妻の日向ももう帰ってきているはずだ。そうそう冬にかまっている暇などないだろう。  大塚にそれを言わなくてもいいような気がして、冬はそれ以上言わなかった。 「そうか」  安心したように大塚が頷いた。指先が手持無沙汰のようにナプキンをいじっている。  店内はもちろん禁煙だった。  煙草を吸いたいのだろうな、と冬は内心で苦笑する。  そうだ。  ずっと訊きそびれていたことがあった。 「あの、大塚さんって、──」  とたんに冬、と呼ばれた。 「呼び方が戻ってる」 「…」 「なんて言うんだ?」 「…ふ、史唯さん」  本当はさんもいらないとしつこく言われているが、これだけはどうしても冬は直せないと思った。十歳近く上の人を呼び捨てで呼ぶことには、かなりの抵抗がある。 「何?」 「ふ──史唯さんて、仕事何?」 「何だと思う?」 「いや全然、見当もつかない」  本当に何も分からない。  不思議そうに言う冬の言い方が可笑しかったのか、大塚は低く声を立てて笑い、頬杖をついた。 「まあ、歯医者じゃないことだけは今は確かだな」 「それもったいないと思うけど」 「別になりたくてなったわけじゃない。家がそうだったってだけだ」 「家が…?」 「爺さんの代から続く歯医者でね」 「……」  その言い方があのときと同じで冬は思わず笑ってしまった。  あのとき、結婚式の中庭で、さも面倒そうに大塚は違う言葉を同じニュアンスで口にしていた。  この言い方はきっと大塚の癖なのだろう。 「…何?」  急に笑い出した冬に大塚が言った。その顔には教えて欲しいという気持ちが現れていて、そんなふうに見えない大塚が向けてくる表情に冬の胸の中がふわりと温かくなる。  そういえばまだ冬は大塚には言っていないのだった。  あの日、結婚式で会ったことを。  大塚は覚えてはいないだろうが、冬はちゃんと思い出した。  言わなくてもいいかと思っていたが、やっぱり言おうと冬は思った。今夜、別れ際にでも。  大塚はどんな顔をするだろう。 「何かおかしいか?」  少し不安そうに言う大塚がおかしい。  冬は笑いを嚙み殺した。 「なんでもないよ」 「嘘だろ?」 「ほんとだって…」 「おい」  大塚が少し身を乗り出したとき、お待たせしました、とウェイターがまた音もなくやって来た。 「どうぞごゆっくり」  冬と大塚の前にそれぞれの皿を置き、カトラリーと箸を添え、グラスに水を注いだ。再び綺麗なお辞儀をしたウェイターは冬ににこりと微笑みかけてから奥へ下がって行った。 「うわ、美味しそう」  いい香りの湯気がふわりと頬を撫でる。  子供のように声を上げてしまってから、冬は慌てて口を閉じた。時間が遅いだけに店内に人はそう多くないが、恥ずかしいことに変わりない。 「本当だ、美味そうだな」  大塚は添えられていた箸を取り肉を頬張った。  冬もそれに倣い、箸を手にしハンバーグを割る。それは箸の重さだけで割れそうなほど柔らかかった。割った断面から透明な肉汁が溢れ出し、慌てて冬はひと口頬張った。 「…んっ! んん!」  あまりの美味しさに頬が蕩けそうだ。 この気持ちを伝えたくて目を丸くすると、大塚がおかしそうに笑った。  食事が終わり、外に出たのはもう日付の変わるまえだった。まだ週が始まったばかりだというのに、まるでまた週末が来たみたいな錯覚に陥ってしまいそうで、大塚は内心で苦笑した。  一昨日あれだけ話をしたのに、穏やかな雰囲気に誘われたかのように、話は尽きることがない。  何よりも冬が美味しそうに食べているのが嬉しかった。  待ち合わせていた地下鉄の入り口に戻る。終電にはぎりぎりの時間だったが、どちらの家もここからそう遠くはなく、タクシーでもいいかと思える距離に、自然と歩く足取りはゆっくりになっていた。  案の定、入り口前の広場に着いたときには終電は行ってしまっていた。  人影もすっかり消え、いるのは自分たちだけだ。しかもいつも人待ちをしているタクシーの姿もない。一足遅かったようだ。 「少し待つか」 「うん」  冬の頷きに大塚の頬がわずかに緩んだ。敬語や堅苦しさがすっかり取れている。  先日さんざん意地の悪いことを言って言わせようとしてもうまくいかなかったのに。  今夜時間が取れてよかったと思った。 「史唯さん、あの」 「ん?」  大塚は目を向けた。改めたような口調で、冬はそう切り出してこちらを見ていた。 「えと──その、二ヶ月くらい前に…」  二ヶ月前。  大塚はかすかに目を瞠った。  それだけで冬が何を言おうとしてるのか分かった気がした。  まさか冬も?  自分だけだとばかり思っていた。 「ふ…」  冬、と言いかけて大塚はやめた。 「──」  なんだ?  気のせいか?  どこからか視線を感じる。 「? どうかした?」  いや、と大塚は言った。 「そう?」  不思議そうに首を傾げている冬に頷きながら、気のせいではない、と大塚は思った。  誰かいる。  暗くて姿は見えないが、誰かがじっとこちらを見ていた。  もしかして…  まさかとは思ったが、ありえないことではないだろう。 「冬」  大塚はそう言い、冬の頬に触れた。  え、と驚いて身を引こうとしたその腕を捉え、引き寄せる。  謝るのは後でいい。 「おおつ、か──」  咄嗟のことで呼び方が戻っていた。  せっかく名前で呼んでいたのに。 「違うだろ」  逃げようとする腰を抱き顔を上げさせた。 「なんて言うんだ?」  困惑と羞恥で冬は今にも泣きだしそうだった。  視線を捉えて囁くと、唇が震えた。 「ふ、みただ…、さ…」 「…よく出来ました」  大塚はそのまま冬に口づけた。不意をつかれた冬がくぐもった声を上げた隙に、深く唇を合わせた。  すまない、と心の中で謝る。  抱き締めるだけのつもりだったが── 「…ん、っ……んん…」  細い体を抱き込んでキスをしながら、大塚はわずかに視線を上げた。  見ている誰かの見当はついていた。  目があった気がするのは自分だけだろうか。  真夜中の路上、少し離れたところに停まっていた車がゆっくりと動き出し、走り去って行った。
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