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1
気持ちよく晴れた空には雲ひとつない。
この季節特有の高く澄んで青い空だ。
「おめでとう!」
周りから飛び交う声の中心を幸せそうなふたりがゆっくりと歩いている。
和やかな光景、穏やかで晴れやかで清々しい特別な日の空気がそこに集まった人々の間に満ちている。
そうだ、今日はおめでたい日だ。
人生で、出来れば一度だけの輝かしい一日。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
「おめでとう、お幸せに」
その声の中心でひと際晴れやかな顔をした男が皆を見渡した。
「ありがとう」
ゆっくりと振り向いたその目が冬を見て笑う。
彼のそばにぴたりと寄り添う花嫁の白いヴェールがふわりと風で膨らんだ。
宙に舞う花びらに日の光が反射して、冬は目を細めた。
きらきらと輝く。
「おめでとう」
眩しくて、浅くにしか呼吸が出来ない。
「ありがとう」
かけた言葉に新婦は微笑み、男は自信に満ちた笑みを返した。
「おー宮田」
名前を呼ばれて顔を上げると、よく知った顔が見下ろしていた。
久しぶりに見る顔だ。
「古賀、久しぶり」
「よ」
古賀と呼ばれた男ははふわりと頬を緩めて軽く手を挙げた。
「ほんとすげえ久しぶりだな、元気してたか?」
「まあね」
「全然変わんねえなおまえ」
古賀は高校の同級生だ。卒業してからも何年かは連絡を取り合っていたが、ここ数年は音沙汰がなかった。互いにそう頻繁に連絡を取るようなタイプではない。
頷いて、白いパラソルの下で冬はわずかに目を細めた。
「そっちは? 子供元気?」
「元気元気、半年後にはもうひとり増えるしな」
「うわそれ大変だな」
離れていても伝え聞いていたことを尋ねると、古賀は嬉しそうに笑った。
「ああ、でもオレよりも嫁さんがな」
「だな。兄貴んとこも大変そうだよ」
二年前に結婚した八歳年上の兄には半年ほど前に双子の子供が生まれた。割と自由の利く仕事をしている兄は一年間の育児休業をもぎ取って毎日奮闘していると、実家の母親から聞いていた。早く会いに来いと再三言われているにもかかわらず、仕事が忙しいと避け続けているのが現状だ。
『かわいいのは今のうちだぞ』
それはそうだろうが、子供は苦手なほうだった。
「にしてもさあ、結婚式がガーデンパーティとかってあいつらしいよなあ」
冬は笑って頷いた。
彼は──新郎の名取名取は昔から少し派手で、人と同じことをしたがらない性格だった。
遠くにいる二人を見る。
人に囲まれ、和やかに談笑する声。たくさんの人の足元で午後の陽の光に光る青々とした芝。
新婦の白いドレス、彼の淡いグレイのタキシード、あちこちに飾りつけられた白いブーケの花びらが風にあおられ空に舞っている。
まるでお伽噺の中のような景色。
「ああ」
「こんな洒落たとこどこで見つけてきたんだかね」
ここいい? と訊かれて、冬は頷いた。隣の席にいた会社の同僚はもう随分戻って来ていない。別の場所で盛り上がり話し込んでいるのだろう。古賀が椅子を引き、腰を下ろした。
「まあ天気が良くてなによりだったよな」
「雨だったらどうしたんだろうな」
「さあなあ」
冬は周りを見回した。
高台にあるこの式場は去年出来たばかりで何もかもが新しい。芝生は敷地である丘の端までずっと広がっていて、開けたそこからは数キロ先の海が見下ろせるようになっていた。
陽の光を受けてきらきらと反射する水面に白い線を引きながら、小さな船が行き交う景色。
柔らかく吹き寄せる風はほんの少し潮の香りがする。
「まあとにかく乾杯」
古賀はにやりと笑って手にしていたグラスを持ち上げた。冬の手の中のグラスの縁に軽く当て、淡い琥珀色の液体を一気に飲み干した。横目にそれを見て、冬もグラスを煽る。
「乾杯」
乾杯のときに注がれたシャンパンはもう温くあまり味など分からない。そもそもそれほど酒は飲まない方だった。
古賀がふたりを顎で示した。
「名取の奥さん綺麗だねえ」
「うん」
「なんかあの子に似てない?」
ぴくりと冬の指が動く。
「ん?」
「昔おまえが付き合ってた子…、ほら髪が長い…、あーなんて名前だっけ」
懐かしい顔と名前が一瞬頭をよぎる。口にしそうになって、冬は笑って首を振った。
「覚えてないよもうそんな前の」
「まあそりゃそっか、オレも思い出せないわ」
古賀は笑ってグラスに口をつけた。
「で、おまえは? 結婚とかどうなの?」
さっきおまえのこと聞かれたんだけど、と古賀が別のテーブルを顎で示した。同じ年頃の女性が何人かグループを作って写真を撮りあっている。新婦側の列席者のようで、皆きらきらとして楽しそうだ。
「あの子可愛くねえ?」
冬は微笑んだ。古賀がグラスを置くのと入れ替わりに目の前のグラスを持ち上げた。
「おれはいいかな」
「彼女は?」
「いない」
「ふーん」
結婚なんて考えたこともない。
人の思う幸せの形を実現することは難しい。求められても、そのように出来ないことを冬は誰よりもよく分かっていた。
自分のことだからよく分かる。
おれはこのあと、きっと誰も好きになれない。
諦めきれず結局八年も──八年も好きだったのだから。
それも今日で終わりすると決めていた。
全部なかったことにしてしまうのだ。
「そういやおまえ、このあとスピーチするって?」
「うん」
遠くに見える水面がきらきらと光る。
視界の隅に式場のスタッフがこちらに向かってゆっくりと歩いてくるのが見えた。そろそろ出番なのだ。
「友人代表でね」
遠くで何気なく新郎が振り向いた。ふと合ってしまった視線に胸の奥がざわざわとする。
***
マイクを握る手に力を込めた。
「名取くんとは──、あの、まあちょっと堅苦しいので名取くんと呼ぶことにしますが──」
冬が笑うと、そこにいる人たちも笑った。
昔は人前に出ることは苦手だったけれど、社会人になってそういう機会も増えて随分と慣れた。和やかな雰囲気の中、ささやかな笑いを交えながら冬は新郎である名取とのエピソードを語っていく。
「名取くんとは高校が同じで、一年の時の委員会で意気投合しました」
話しながら冬は当時のことを思い出していた。
初めて言葉を交わしたときのこと。
初めて彼を認識したときのこと。
楽しかったこと、些細なことで口げんかになったこと、仲直りをして遊びに行って、お互いの家を行き来してそれぞれの部屋で好き勝手に過ごし、飽きるほど話をしたこと。
そうしていつか、──
いつしか自分は。
「かけがえのない友人がこうして晴れの日を迎えられたことを、心から嬉しく思っています。名取、日向さん、本当におめでとう」
笑顔を作るのは得意だ。
満面の笑みでそう言うと、名取と新婦が揃って頭を下げた。湧き上がる拍手の中で、冬はにこやかに笑ったまま、マイクを握る指先を誰にも気づかれないようにぎゅっと強く握り込んだ。
「あれ? どこ行くの」
冬が立ち上がると、古賀はそれを目で追った。
「んーちょっと休憩してくるわ」
「おう」
結局古賀はあのまま冬の隣に座ったままで、同僚も別の席で意気投合した誰かに掴まってしまって帰っては来なかった。立食に近いカジュアルな式ならではというか、集まった人は皆席など気にせずに自由気ままに式を楽しんでいる。
席を離れ、冬はため息をついた。
「……」
ざわめきを背にして、ガーデンの奥にある本館の中に入る。
屋内はひっそりとして人の気配がなかった。ひんやりとした空気が気持ちいい。どこからか流れてくるBGMはかすかなピアノの音だ。
とりあえず、とトイレを探した。
少しでもいい、ひとりになりたい。
壁の案内板に添ってガラス張りの廊下を歩き、角を曲がる。用を足してトイレから出た冬は、ガラスの向こうに見える賑わいの中には戻らずに、反対の方へと歩いた。確かこちら側にも小さな庭園があったはずだ。来たときにちらりと目にした気がする。
あそこならゆっくり息が出来そうだ。
庭園への出口は廊下の中程にあった。軽く押しただけで音もなく開いた。
「うわ、…」
綺麗だ。
黒いレンガの外壁に添って植えられた小さなクリーム色の薔薇に冬は目を細めた。
すごいな。
これだけたくさんあると見応えがある。
小さな薔薇の花弁を指先で突くと、まだみずみずしく濡れていて、中に溜まっていた水がぽろりと零れ落ちた。
水やりの残りなんだろうか。
中庭のあちこちに置かれた木製のベンチの表面を撫で、濡れていないことを確かめてから冬は腰を下ろした。
自然と漏れたため息に、我ながら情けなさを感じる。
こんなはずでもなかったんだけどなあ。
覚悟して来たはずなのに、実際はなんにも覚悟出来てない。目の前にある光景にいちいち動揺してしまっている。
「馬鹿だな……」
ここまで気持ちを制御するのが難しかったなんて思わなかった。
やっぱり来るべきじゃなかった。
スピーチも引き受けるんじゃなかった。
友人の多い名取のことだ。他にも候補はいたはずだから、別に回してもよかったんだ。なんでこんな思いしてまで──そもそもあの電話を取らなければ…
掛けたりしなければ。
「あーだめだ…」
思考がどんどんマイナスに落ちていくのを、冬は首を振って止めた。考え込むと落ちるところまで落ちていくのは昔からの悪い癖だ。いい加減変わらないと。
項垂れているのはハレの日に似つかわしくないと顔を上げた。
こんなにいい天気なのに。
見上げた空は見事なまでに晴れ上がっていた。
気持ちのいい風が珍しく整えた髪を撫でていく。
そうだ、まだ今日という日は長い。このあとは二次会が待っている。もう少し気を張っていなければならない。
「…しっかりしろよ」
目の前に広がる薔薇の庭園に目を向けて冬は再び深く息を落とした。中庭は入り組んだ低木と木立で迷路のようになっていて、冬の背の高さほどの生垣が奥の方に広がっている。あちこちに見えるベンチや小さなテーブルは互いに視線を合わせないように配置されていて、よく考えられた上に置かれたものだと一目でわかった。
かさ、と音がした。
「……」
人だ。
誰かいる。
奥の方からこちらに歩いてくる。
男だ。
口に煙草を咥え、ダークスーツに身を包んでいる。
その姿に思わず冬は息を吞んだ。
「…」
視線を感じたのか、男が顔を上げた。
目が合った。
「──」
男は立ち止まった。まさか自分以外に人がいるとは思わなかったのだろう、戸惑ったように寄越した曖昧な会釈に、冬もつられて頭を下げた。
「ど──、どうも…」
「どうも」
目を逸らすと彼はスーツの内側から携帯灰皿を取り出し、慣れた手つきで煙草を消した。ふう、と大きく吐いた煙が空気に溶ける。
「結婚式なんて退屈で」
ぱちん、という音にはっと冬は我に返った。今のは自分に言った言葉だったのか。慌てて頷き返すと、彼はそばの木に寄りかかり、気怠そうにため息をついた。
煙はもう出ない。
「出るつもりもなかったんですけどね。まあ──仕方なく」
独り言のように淡々という男に、はあ、と冬は相槌を打った。
「おれもまあ、そんなところ…、ですね」
ちらりと横目に冬を見て、男はふっと表情を緩めた。
「お互い大変ですね」
「ええ」
「会社関係?」
一瞬迷ってから冬は答えた。
「そうです。取引先の──あ、今は取引先にいる…、友人の、式で」
「ふうん」
手持ち無沙汰なのか、彼は冬の話を聞きながら上着のポケットをまさぐり煙草を取り出した。一本抜いて口の端に咥える。
「それも面倒そうだな。俺は親族の式で、出たくもないのに強引に引っ張り出されたんですよ」
口の動きに合わせて咥えたままの煙草が上下に揺れる。
その動きに見惚れていると、廊下の方から足音がしてきた。振り向こうとした瞬間、中庭へ通じるドアが勢いよく開いた。
「──ミヤ」
名取だ。
タキシード姿で大股に近づいてくる。驚いている冬に男は軽く会釈して来た方へと行ってしまった。多分あちら側にも出入りできる場所があるのだ。この式場の中に会場は三か所、中庭を囲むようにして作られていた。
視線が不思議と彼を追った。
「誰?」
男が行ってしまったほうを見て名取が言った。
「知り合い?」
張り付いた目を無理やり引きはがし、冬は名取を見上げた。
「いや知らない人だけど…、なに?」
「姿が見えないから探しに来たんだよ」
「ちょっと休憩してた」
「こんなとこで?」
有無を言わせないような勢いで言われ、冬は口を噤んだ。一体何なのか、座っている自分の前に立った名取を見上げて、内心でため息をついた。
「酒飲み過ぎて酔ったんだよ、いいだろ、少しぐらいいなくても」
少し強めの口調で言い返すと、名取は黙った。それを上目にちらりと見て視線を外し、冬はわざと大げさなため息をついた。
「おまえこそ早く戻ったほうがいいんじゃない? 今日の主役だろ」
「今はお色直しだから」
「……へえ」
カジュアルを演出したガーデン式のウエディングにお色直しなどあるんだろうか。
気遣いのような嘘になぜかじわりと苛立った。
視線を落とした先の名取の靴先が光っている。ピカピカで、完璧な、傷ひとつない美しい革靴。磨き上げられたそれは着ているタキシードと同じで、彼によく似合っていた。
見ている冬の顔が鏡のように映り込みそうだ。
「なあ、怒ってるの?」
頭の上で名取が大きく息を吐いた。
「急に呼んで悪かったって」
「それはもう…」
「また会えたのも縁だと思ったからさ」
「……」
「僕は嬉しかった」
他意のない名取の言葉に冬は何も言えなくなる。
俺は。
俺は──
深く冬は息を吸い込んだ。
「俺も嬉しかったよ」
嬉しかった。
そして二度と会いたくないと思った。
「じゃあ怒ってない?」
「怒ってないって…」
「ほんと?」
「本当だって。おれの機嫌なんか気にするなよ」
感情的にならないよう自分に言い聞かせて、冬は微笑んだ。
そうだ、今日はおめでたい日なのだ。
笑って門出を祝ってやりたい。
「呼んでくれて嬉しかったよ。来てよかった」
「そっか、よかった」
ほっとしたように名取は言った。
「再会してすぐに呼ぶのは悪いと思ったけど、ミヤならそう言ってくれると思ったよ」
「それは…」
だって、と名取は続けた。
「僕のこと好きだろ、ミヤ」
「──」
ゆっくりと顔を上げる。
正面から冬を見て名取は笑っていた。
綺麗な顔で。
誰もがきっと見惚れるような。
「僕に好きって言ったの、ちゃんと覚えてるよ」
「そ…」
冷水を頭からかぶったように血の気が引いた。
冗談で済ませたはずだ。
八年前のあの日、それから一度も話題にしたことなどなかったのに。
卒業して離れて──二ヶ月前、思わぬところで再会するまで、一度も。
お互いに口にしなかった。
「そんなこと言ったっけ、おれ」
なぜ今ここで?
冬は忘れたふりをして立ち上がった。
「言ったよ」
「冗談だろ?」
名取がかすかに目を瞠る。
その目をまっすぐに冬は見上げた。
「そろそろ戻るわ。おまえも戻れよ」
何かを言われるまえに背を向けて冬は中庭を走り出て行った。
***
木立の陰で煙を吐き出す。
彼が出て行った後、タキシードを着た男は肩を竦めた。そして彼の後を追って出て行った。
なんだあれは。
少しばかり大袈裟な仕草に、煙草を咥えたままの唇を男は曲げた。
未練たらしく煙草を吸いたくてふたりからは見えない場所に移動したのだが、どうやら間が悪かったらしい。
聞くつもりもなかったが、聞こえてきた会話はまるで…
「……」
かち、とライターを鳴らして男は煙草に火をつけた。深く吸い込み、肺を煙で満たしてからゆっくりと吐き出していく。
それにしても、と顔を顰めた。
「…──」
あれはどう見ても新郎だった。
どういう事情があるか知らないが、わざわざあんなことを言うだろうか。
彼は青褪めた顔をしていた。
「ま、関係ねえか…」
そうだ、自分には何の関係もない。
ほんの一言三言話しただけの人間を憐れんでやるほど暇じゃない。
どうせもう会うこともないのだ。
「……ミヤ、か…」
それは名前なのか苗字なのか。
遠くから足音が聞こえてきた。自分の名を呼ぶ声がする。式場に姿が見えないから誰かが探しに来たのだろう。
おそらく家族が。
そろそろ戻るか。
男は深くまた煙を吸い込んだ。肺の奥の奥まで。細胞の隅々まで満たしてくらりと酩酊する。その感覚を存分に味わってから空を仰ぎ見ると、よく晴れたそこに向かって勢いよく紫煙を吐き出した。
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