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 よし、と冬は息を吐いた。今日はもうこれで終わりだ。ファイルを保存して建部に共有すると、パソコンを落とした。毎度面倒だがそうする決まりなので仕方がない。  杉原が買ってくれたコーヒーが残っていた。すっかり冷え切ってしまっている。もう二十時を過ぎていた。  急いで帰ろう。  飲み干そうと紙コップを手にし、口をつけようとしたとき、スマホが鳴った。 「──」  画面を見て冬はすぐに手に取った。 「──遥香?」 『あ、よかった! ごめん時間早くて…、大丈夫今? 掛け直そうか』  少し焦ったような遥香の声がスマホから聞こえた。冬は大丈夫、と言った。 「いいよ」 『本当? もう帰ってる?』 「いや、まだ会社…でもおれひとりだから話しても大丈夫だよ」  そう、と遥香は安心したようにため息を吐いた。 「研修お疲れ、大変だったな」 『んーまあね。きつかったけどいい勉強にはなったよ』 「そっか」 『それで…、話だよね? 佑真の』 「うん」  少し陰りを見せた遥香の声に話したくないのかもしれないと、ふと今更のように思った。 「ごめん、変なこと聞きたがって…」 『いいんだって。私があんなこと言っちゃったから気になるよね。ごめん』  明るく笑う遥香に冬は少し安心した。 『別れる前にちゃんと言えばよかった…、でもなんか言いにくくって。あの頃冬くん佑真とずっと一緒にいたし…、私達も上手くいってなかったしね』 「ああ、…うん」 『あれは私が嫉妬してただけなんだけど』 「嫉妬?」  くすりと遥香は笑った。 『佑真に。結局予定が被ったとき冬くんが優先するのは大体あいつだったから』 「……」  冬は黙り込む。  思い返して──確かにそうだったことに気づく。  遥香と行こうと言っていたテーマパーク、その後で名取に誘われたイベント、同じ日の同じ時間。  結局、冬が取ったのは佑真だった。 『もう昔のことだから気にしなくていいんだよ。あのときは悲しかったけど、今思えばそれも当然かって思うし』  自嘲気味に言う遥香に、冬はどきりとした。  もしかして… 『冬くんはさ、佑真のこと好きだったよね』 「──」 『恋愛って意味でだけど』  息が止まる。  誰にも言わなかった。  あれだけ必死に隠してきたつもりだったのに。  それとも女性ならではの勘なのだろうか。  あのころ冬の一番近くにいた女性は間違いなく遥香だった。  こくりと嚥下する。  重く飲み込めない空気。  指先が冷たい。 「気づいてたんだ…、遥香」  スマホの向こうで頷く気配がした。 『大丈夫、誰にも言ってないよ』 「うん」  分かっている。  遥香は──遥香ならそんなことはしない。  冷えた指先を握りこんだとき、でも、と遥香は言った。 『でも佑真は知ってたよ』  ひそやかにそっと。 『私が気づくより前にあいつは知ってたよ』 「…え?」 『私に言ったのよ、あいつ。冬くんは自分のことが好きだって』 ***  ドアを開けて中に入ると、待合室には誰もいなかった。 「こんばんはー…」  杉原は恐る恐る声を掛けた。 だが返事はない。  受付にも誰もいない。  いつも取り澄ましたような顔で受付の女が座っているのに。  ええ?  嘘でしょ? あれだけ確認したのに。 「あ、のー」  今度はもう少し声を大きくしてみる。  待合室と診療室を仕切る白いドアに近づくと、中から誰かが話しているのが聞こえてきた。  誰かいる。  無人というわけではなさそうだ。 「もうなんなのよ…」  杉原は仕方なく診察券だけ出して受付に置き、待合室のソファに座った。傍のラックには発売されたばかりの雑誌が置いてあるが、退勤したばかりの身には手に取るのも億劫だと、スマホを取り出してぼんやりと眺める。動画サイトを開き音を消したまま、見るともなしに動画を見ていく。  ふあ、とあくびが漏れたとき、がたがたとドアの向こうから音がした。 「…ちょ、そんなこと言われてもですねえ! 私は──」 「──…て、──」  大声を上げる男は、おそらく院長だ。相手の声は低くて何を言っているのか聞き取れない。  え、なに、何事!?  がた、と杉原は立ち上がった。  女の声も聞こえる。きっと受付の女だ。 「修羅場…!?」  まさか、と頬が引き攣ったとき、仕切りのドアが開いた。  やたらと大きな男が出てきた。  待合室で立ち尽くしている杉原を見て、わずかに目を瞠った。 「ああ…、患者さん?」 「…え、とー…?」  低い声で尋ねられ杉原は戸惑いながら頷いた。  何だろうこの人。  やたらと目つきが悪いし顔も怖い。 「取り立て…?」  ここの院長、何かやらかしたんだろうか…  思わず思っていることが口から漏れ出ると、男はかすかに口角を上げた。 「そんなところです」  あ、と杉原は息を詰めた。  イケメンだ。  この人笑うと── 「ちょっと、もうほんと手伝ってくれないと困りますよ!?」  今度は小柄な男がドアから現れた。男は適当な返事を返し、杉原を振り返る。 「今日は帰ったほうがいいですよ」 「そ、そうですか…」 「気をつけて」  小柄な男に引っ張られて、男は奥に戻っていく。開いたドアの隙間から、院長と受付の女が所在なさげに座っているのが見えた。女がちらりとこちら向いた。目が合った気がして、杉原は顔を引っ込めた。 「…帰るか」  文句を言う気満々だったのに、憔悴したような女の顔を見た途端、なんだかどうでもよくなってしまった。よく分からないがいたところで意味がないと杉原はドアを開けて外に出た。  しかしどうするか。奥の詰め物が欠けてしまったから診てもらいたかったのに。 「どっか開いてるかな…?」  入り口の端に立ってスマホで検索をかける。望みはないが万一ということもあるし…  画面をスクロールする。  背後でドアの開く音がして振り向くと、さっきの男が出てきた。 「あ…」  杉原をちらりと見て、咥えかけていた煙草を戻した。 「あの、吸ってもいいですよ…?」 「…いや、やめておこうかな。路上喫煙も最近は厳しい」  口元だけで苦笑して、男は深く息を吐いた。  わずかな沈黙が降りてきて思わず杉原は尋ねていた。 「あのお、ここ、なにかあったんですか?」  男は杉原を見下ろしてゆっくり瞬くと、戻したはずの煙草を咥えた。 「近いうちに分かりますよ」 「ふうん…」 「どこか他所を見つけたほうがいいだろうな」 「ああー…、まあ、でも今日がよかったんですよねー」  まあいいか、と杉原は続ける。  ちょうど話し相手が欲しかったところだ。 「遅くまでやってるとこなかなかなくて。今探してたんですけど」  スマホの画面をスクロールしていると、男の視線を感じた。 「同僚が診療所みたいなところに行ったって言ってたけど、別に今は痛くはないからなあ…」 「…同僚?」 「ああ、はい。同じ会社の。あー、うちの会社近いんで。そのときここを教えたけど入れなくて──なんでか知らないけど」  注がれている視線に顔を上げると、男はじっと首を傾げこちらを見ていた。 「…その同僚って…、もしかして──宮田…?」 「え」  言い当てられて杉原は驚いた。  まさか宮田冬の知り合いなのか。 「そ、ですけど…お知り合い、とか?」  世間は狭い。  さっきも冬の友人とすれ違ったばかりだ。 「まあ、そうです」 「へえそうなんですか! すごい偶然…」  冬にこんな知り合いがいたとは驚きだ。  一体どんな知り合いなのだろう。 「今日は宮田くん、まだ会社にいますよ」 「…そうですか」  そう言った横顔が柔らかくなる。  あ、と杉原は目を奪われた。  険しい目元だが、それが和らぐとこの人は随分と印象が変わる。  紹介して欲しい。  彼氏がいることも忘れてそう思ってしまい、杉原は我に返った。 (何考えてんの私)  あはは、と笑った。 「もしかして高校の先輩か何かですか? あ、なんかの集まりとか?」  誤魔化すように言うと、男は怪訝に眉を顰めた。 「集まり?」 「え、いやあ──あの、さっき名取さんを見かけたから、…」 「──…名取」  あれ、なんか余計なこと言った?  男はひどく驚いていた。  凝視され、意味もなく杉原はぶんぶんと胸の前で両手のひらを振った。 「社のほうに行ってたから、その」  冬の知り合いなら名取のことも知っているだろうと、そう思っただけだったが。  ざわりと変わった男の雰囲気に冷や汗が出た。  怖い。 「そ…」  男が杉原に一歩踏み出したとき、勢い良くドアが開いた。 「ちょっと! あんったまたこんなところで! 手伝ってって言ったでしょうが! 大塚さんあんたほんとにねえ…っ!」  さっきの小柄な男が飛び出してきた。  大塚。  駆け寄ってきたその人を上手く躱し、大塚と呼ばれた男は杉原の腕を強く掴んだ。 「会社どこだ」 「え」 「大塚さん! もう、何して──」 「場所は!?」  大声を上げた大塚に小柄な男も杉原もびくりと体が跳ねた。大塚は構わず杉原を揺さぶった。  そしてもう一度場所は、と叫んだ。 「あ、ここ戻って、コンビニの先左…っ」 「左だな」 「ひだり、ですっ」 「ありがとう」 「──」  大塚は傍でおろおろとしていた小柄な男を振り返った。 「所長、俺はこれで」 「はあ?!」 「ちょっと具合が悪いもんで」 「どっ、そ、…っ、ああ!?」 「それじゃ」  杉原に悪かった、と頷くと大塚は見る間に走って行ってしまった。  残された小柄な男──所長は怒りで顔が真っ赤だ。 こめかみに筋が浮かべ拳を振り上げた。 「大塚あああ! 戻って来い馬鹿たれええええ! 減給減給クビだクビィいいい!」  両手をぶるぶる震わせて叫ぶ所長の声が虚しく夜に響く。  杉原は思わず笑いそうになったのを必死に口に手を当てて堪えた。  それにしても冬にあんな知り合いがいたとは。  これは教えてやらないと。  手に持っていたスマホを弄り、杉原はさっそく前沢にメッセージを送った。 ***  それは陽の翳る教室。  遥香は教室に忘れ物をしたことに気づき、部室から教室に戻っていた。教室までの階段を上がり、廊下を小走りに進む。明日の授業で出る課題の資料を丸ごと忘れて来るなんてどうかしていた。  放課後になると教室の二つある出入り口の一つは施錠される。大抵はいつも後方側だ。  教室の黒板側の扉を引くと案の定開いていた。教室には誰もいない。  いつもは誰かしら残っているのだが、今日は皆帰ったようだ。  自分の席に行き、机の横に掛けていたトートバッグを取る。早く部活に戻らないと、コーチが戻ってきては面倒だ。中身を確認して全部揃っているのを見ると、遥香は教室を出ようと振り返った。  ぎくりと体が強張った。  戸口に名取佑真が立っていた。 「何してるの?」 「──」  驚いた。いつの間に──何の音もしなかったのに。 「忘れ物?」 「あ、ああ、うん、明日の課題のやつ…」 「そう」  名取はにこりと笑った。 「もう行かないと。抜けてきちゃったから」  遥香はそう言って戸口を塞ぐようにして立っている名取の横をすり抜けた。  それにしても、名取は何をしに来たのだろう?  名取のクラスは一階上だ。二年になって進学別に教室の配置が上下になった。このクラスに何の用があるだろう── 「部活、頑張って」 「え、…うん」  すれ違いざまに言われて、遥香は顔を上げた。まさかそんなことを言われるとはおもっていなかった。  名取のことは中学から知っているが、人を引き付ける見た目とは裏腹に、彼は驚くほど他人に関心がない。  それも高校に上がって変わったのか…  確かに少し雰囲気は柔らかくなった。  もしかしたら冬と一緒にいるからだろうか。  そうだ、冬に聞くことがあるんだった。今度の週末、出かけようと話していたから…どこに行くか決めないと。 「あんたが頑張ってくれるとミヤが助かるからさ」 「──え」  振り向くと、名取も振り返っていた。  その目が遥香を見ていた。 「それどういう意味…」 「わからないんだ?」 「──」 「足りない頭で考えろよ」 「──っ」  傷つくよりも先に怒りのほうが勝っていた。遥香はきつく名取を睨みつけた。冬の友人であることは分かっているが、関係なかった。  そんな遥香を見下ろして名取は笑っていた。  いつものように、美しく。 「ミヤが好きなのはあんたじゃなくて僕だよ」 「……え?」 「優しいから、あんたに付き合ってあげてるんだよ」  そう言ってにっこり笑う彼は美しかった。  人を惹きつけてやまない。  いつも皆その笑顔に心を奪われる。  でも、違う。 (なにこれ)  遥香は気がついた。  名取のその笑顔は作り物だ。  本当は笑ってなんかいない。 (この人…)  冬に告白し付き合い始めてから四ケ月が過ぎていた。
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