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 前を行く背中を、荷物を持って冬は追いかけていた。 「ちょ、宮田ー? 大丈夫かあ?」  呆れたような顔でこちらを振り返った人に、冬は慌てて頷いて見せた。職場の先輩である建部が、歩くスピードを緩めて冬が追い付いてくるのを待っている。 「ほんと大丈夫かよ」 「大丈夫です大丈夫」 「それちょっと貸せ、俺も持つから」 「いや平気です。建部さんこそそれ重いし」 「おまえほど力なくないからな」 「すいませんねえひ弱で…」  決して力がないとか病弱だとかそういうわけではないのだが、昔から冬は何かを持って移動するということが苦手だった。それは重かろうが軽かろうが大した違いはなく、動けはするのだけどいかんせん手に何かを抱えていると体の芯がぶれて上手くいかない。この感覚を人に伝えるのはとても難しいし、だからといって具合が悪いのかと毎回尋ねられるのも面倒なので、冬はいつも力がないということにしていた。体つきも細い方なので皆妙に納得してくれるから、何が幸いするか分からないものだ。ずっとこの体の細さが冬にはコンプレックスだったのに。  出来ることならもっと男らしい体つきがよかった。 「ああもう貸せ、あとちょっとだからしゃきっとしろよ」 「はい、すみま、──あっ」  紙袋を渡そうとした冬の手を避け、建部は反対の手に握られていたもうひとつの紙袋を取り上げた。 「違うこっち。行くぞ」  実はそちらの方が重かったのだが、建部はそれをきちんと見抜いていたようで当たり前のように自分の荷物と合わせて持ち、さっさと歩き出した。 「わ、待って…っ」  慌てて冬は目的地の入り口に向かう建部の背を再び追いかけた。  上昇するエレベーターの中で冬は素早く身なりを整えた。ちらりと横を見ると、建部のスーツはほんの少しも乱れていない。彼の方が大変だっただろうに、自分との対比に少し情けなくなる。 「ネクタイ曲がってる」 「あ」 「大丈夫かあ? ほんとしょうがないな…」  笑い混じりに呆れた声で言われ、伸びてきた手に衿を整えられた。 「うちの子供より手がかかるのはどういうわけだろうなあ」  ほれ、と肩を割と強めに叩かれる。手のひらが大きいからか音も痛さも大きくて、うっ、と思わず冬は涙目になった。 「先輩のとこのちびと一緒にされても…」 「おいうちの子を馬鹿にすんな」  建部はおととし同僚だった女性社員と結婚し、半年ほど前に子供が生まれたばかりだ。 「うちの子はなあっ、おまえなんかより一億倍かわいい」 「はいはい…」  うんざりするほど聞かされた台詞に冬は適当に相槌を打った。さんざん写真や動画を見せられた彼らの子供は、幸いにも美人と名高い彼の妻に似て本当にとても可愛いかった。子供が苦手な冬だったが、彼女は──子供は女の子だった──大丈夫だった。 「久しぶりに会いたいですね」  思い出したら会いたくなって冬は思わず口にした。あのふっくらとした子供の頬を見ているだけで癒される気がする。実の兄に生まれた子供たちには何かと理由をつけて会いに行かないというのに、どこか矛盾しているものだ。 「じゃあまた近いうちにウチで飯でも食うか」 「は──」  はい、と返事をしようとしたときエレベーターのドアが開いた。  ぎくりと冬の肩が強張る。 「──こんにちは、お待ちしておりました」 「ああ、こちらこそ遅くなりまして」  にこやかな笑顔を交わす建部についてエレベーターホールに降りた冬は、心臓にナイフを充てられたようにひやりとした。  冬たちを出迎えた男はにっこりと微笑んだ。 「すみません、相沢が急用で外出したため僕が担当いたします」 「そうですか、名取さんなら話が早いですね。な、宮田」  建部がそう言って冬を振り返った。冬と名取が友人であることを建部は知っているのだ。 「そうですね」  冬は笑った。出来るだけ自然に。 「ではこちらへ」  案内する名取のあとに建部がついて行く。冬もそれを追った。  目の前で談笑するふたり。  あの結婚式からもう二ヶ月あまりが過ぎていた。 「それでは今日はこれで。ありがとうございました」 「こちらこそお時間取っていただいて…えーと、では次回は十八日ですかね?」 「そうですね。ちょっと確認してみます」  携帯を手にすると名取はミーティングルームを出て行った。テーブルの上の資料を纏めながら、建部に気づかれぬよう冬はため息を落とした。 「どうした? 腹でも痛いか?」 建部に言われ慌てて冬は顔を上げた。 「違いますよ、ちょっと眠くって」 「おまえねえ…友達だからって気を抜きすぎだぞ」 「いや…」 「お待たせしました」  建部が呆れた顔をしていると、名取が戻ってきた。建部はさっと身づくろいすると椅子を立った。冬もまとめた荷物を鞄に仕舞い席を立つ。 「十八日で大丈夫とのことです。時間はそちらのいい時間でお願いしたいと。この日相沢は一日内勤ですので」 「そうですか」  建部は頷きながら持っていたタブレットでスケジュールを手早く確認した。冬はそれを後ろから覗き込み、予定のない空欄を探した。ひとつ空いているところがある。 「では午後ではどうでしょう? 十四時では?」 「承知しました。十四時ですね。では次回は十八日の十四時に」  お待ちしています、と名取が頭を下げた。それに続き建部と冬も腰を折る。  失礼します、と部屋を出て行こうとしたとき、名取がふたりを呼び止めた。 「ああ、よかったらこのあとお昼一緒にいかがですか?」  お時間あれば──僕も外に出るので。 急な話だ。冬は建部を見た。 「いや、私は弁当なんですよ。それに社に戻って報告もありますので──」 「そうですか」  やんわりと断りを入れる建部に心底ほっとしたのも束の間、彼は冬を振り向いて言った。 「宮田、おまえ行って来ていいぞ」 「え」  荷物を持った手でぽん、と力強く肩を叩かれた。 「報告は俺だけで充分だから、おまえは友達と飯食って来れば」 「え」 「時間内には戻って来いよ」  建部は名取に会釈するとミーティングルームを出て行った。  人のざわめきの中、気まずい空気がいやに重い。  誤魔化すように水の入ったグラスを何度も持ち上げていると、向かいに座った名取がくすりと笑った。 「すぐ来るって」 「え?」 「ランチ、そんなに焦ることないだろ」 「……」  そうじゃない、と言い返そうとして冬は言葉を飲み込んだ。言い返すのは間違いのような気がして、グラスに口をつけ水を一口飲んだ。 「先輩に仕事させておれだけっていうの落ち着かないんだよ」 「建部さんが自分で言ったことだろ、気にしてないよ」 「それは…」  そうだが。 すみません、と名取が近くの店員を呼んだ。若い女の店員がやってくると、名取はデザートのメニューを持ってくるように頼む。 「ありがとう」  店員がはにかんで去った後、冬はつと気になって名取を見た。 「甘いもの好きだったっけ?」  冬の記憶の中で、名取が甘いものを食べているのを見たことがない。  名取は当然、といった顔で冬に言った。 「僕? 苦手だけど」 「じゃあなんで…」  冬が尋ねようとしたとき、ほかの店員がランチを持ってきた。 「お待たせしました」  皿の乗った木製のトレイがそれぞれの前に置かれる。いい匂いの湯気がふわりと顔の前に立ち上り、冬は急に空腹を覚えた。食欲もないまま適当に選んだランチセットだったが、とても美味しそうだ。  ごゆっくり、と言って立ち去る店員と入れ替わりに、さっきの店員が戻ってきた。メニューを名取に渡し、今日のおすすめを伝える。それを聞きながら冬は箸に手を伸ばして味噌汁を啜った。メインはチキン南蛮で、たくさんの野菜が添えられている。店内は狭いが多くの会社員で席は埋まっていて、近くのテーブルでは男女6人のグループが和気あいあいと笑い声を上げていた。 「じゃあ僕はこれとこれで。ミヤは? どれがいい?」 「え…、え?」 「あー林檎好きだったよな、このタルトタタン? 美味そうだよ」 「は? おれ…」  そんなに食べられない。  いらない、と言うよりも早く名取は店員に言った。 「じゃあそれもひとつ」 「かしこまりました」  メニューを下げて奥へと行く店員の後姿をちらりと見て、冬は名取に目を戻した。 「いるなんて言ってないけど」 「そう? じゃあ持ち帰ればいいよ」  なんてことないようにくすりと笑って、名取は箸を取った。綺麗な手つきで茸と豚肉のグリルを持ち上げる。 「ん、うまい」 「……」 「ここ同僚にうまいって聞いたけど当たりでよかったよ」  相変わらず食べる仕草が優雅だ。  すらりとして長い指、白い皿の上を行き来する箸の先に自然と視線が吸い寄せられ、慌てて冬は視線を逸らした。 「…ケーキふたつって、いつからそんな甘党になったんだよ」  ん? と名取は顔を上げた。  じっと頬のあたりに視線を注がれる気配に冬は落ち着かなくなった。  名取は手を止めグラスに手を伸ばした。 「大学入ってからかな、ケーキ作ったって言うから頑張って食べたらそれが美味しくてさ」 「誰が?」 「日向。お菓子とか作るのが趣味なんだよ。しょっちゅう食べさせられてる」  そういえば結婚式での彼女の友人のスピーチでそんなようなことを聞いた覚えがある。古賀がしきりに家庭的すぎるのもなあ、とぼやいていた。 「へえ、そう」 「うん。だからひとつは持って帰る用、喜ぶと思って」 「ふうん」  ちらりと視界の端に名取の左手が入った。  薬指、細い銀色の指輪。 「…いい旦那さんしてるんだな」 「まだ新婚だよ?」  冬の言い方が可笑しかったのか、名取は軽くむせた。涙のにじむ目を向け笑い声で冬に言う。 「そんなの当り前だろ」  当たり前か。  それはそうだ。 「そっか」  何かを言おうと思って思い直し、目の前の食事に専念した。    ため息が漏れそうになる。  電話を終えて時計を見るともう定時を過ぎていた。  お疲れさま、とひとりが席を立つと、それにつられたようにしてオフィスのあちこちから声が上がり始める。 「お疲れ、今日は皆もう帰っていいぞ」  課長がオフィス内に聞こえるように声をかけ部屋を出ていくと、どこかほっと部屋の空気が緩んだ気がした。さほど広くはないオフィスで共に働いているのは八人、上司との関係は良好だが、それでもいると気を遣うものだ。  その上司が率先して早く帰宅してくれるのはありがたい。 「課長、今日も買い物して帰るのかねー? 手にメモ持ってたわ」  入れ替わりに戻って来た建部が冬に言った。斜め向かいの席につく。そこが建部のデスクだった。 「奥さんまだ具合悪いんでしたっけ」 「そうらしいな。退院したばかりだからあまり無理できないんだろうな」 「ああ…、そっか」  手元の資料を打ち込みながら話していると、建部が帰らないのかと冬に言った。 「あ、これ終わらせたら帰ります。やっとかないと明日動けないから」 「そうか? 手伝うか?」 「いえ、もうちょっとなんで」  大丈夫です、と建部に言うと彼は黙って頷いた。建部は簡単にデスクの上を片付けると、席を立った。 「じゃあ俺帰るわ」 「はい」  建部も忙しい身だ。共働きの妻と交代で保育園の迎えに行っている。今日は木曜日なので、建部が行く番なのだ。 「あ、先輩」 「ん?」 「ちょ、ちょっと待って下さい」  退出しようとした建部を慌てて冬は呼び止めた。すっかり忘れていたと席を立ち、奥の小さなドリンクスタンドに早足で向かった。コーヒーマシンやポットなどを置いてある横の冷蔵庫を開け、小さな箱を取り出した。 「これよかったら持って帰ってもらえませんか」 「んー?」  急いでいる建部に申し訳ないと思いながらも、冬はその箱を建部に渡した。 「なんだよ」 「ケーキです、林檎の。昼食べきれなかったので」  建部は怪訝そうな顔をして箱を開き、中を覗き込んだ。 「おまえ食えばいいのに」  もっともな意見に冬は咄嗟の言い訳を思いついた。 「あー…あの、歯が痛くって、昼行ったとこで頼んだんですけどやっぱり今日は食べれそうにないかも」 「歯あ?」 「いや、そんな、たいしたことないんで。それ花南さんに上げてください」 「おまえなあ…、まあ、ありがたくいただくけど」  花南は建部の妻の名前だ。  呆れたように建部は冬を見てから、ケーキの箱を鞄に仕舞った。 「ちゃんと治しとけよ、後々大変だぞ虫歯は」 「はあ」 「じゃあな」  お疲れ、と言って建部はオフィスを出て行った。まだ残っていた同僚たちがもういない建部に声をかける。 「……」  はあ、と冬は息をついた。  歯が痛いなんてのはもちろん嘘だ。心配されたことにかすかな罪悪感を覚える。 「……」  とにかく、仕事を終わらせないと。 「宮田くん」  デスクに戻り椅子に座ろうとしたとき、同僚の杉原に声を掛けられた。杉原は冬と同期入社した女性だ。 「何?」 「歯痛いの?」 「ええと、ああ、まあ」  建部との会話を聞いていたのだろう、杉原は心配そうな目で冬を見ていた。 「私が行ってる歯医者結構いいよ? 教えようか」 「あ、──うん」  言った手前断る理由が思いつかなくて冬は頷いた。杉原はちょっと待って、と鞄から財布を取り出し、一枚のカードを抜いた。冬のデスクの上のメモ用紙を一枚取ってさっと走り書きする。  はい、と渡された紙には歯科医院の名前と電話番号、簡単な住所が書かれていた。 「先生優しくておすすめ、行くなら早いほうがいいよ」 「わかった。ありがとう」  住所はここからそう遠くない。杉原は会社帰りに行っているのだろう。効率を考えればそのほうが楽だ。  行く気などさらさらないが、気分転換に行くのも悪くないと思い、冬は嫌なことを思い出した。席につくと振り切るように仕事の続きを始めた。 『ミヤ、今週末って暇?』  昼間、店を出たところで名取が言った。  仕事は休みだよな、と続けられて冬は驚いた。 『え?』 『暇なら飲みに行かない?』 『え、…なんで』  思わず口を突いて出た言葉に、名取は振り返って意外そうな顔をした。 『なんでって何?』 『いや──その、おまえ結婚したばっかりだし…』 『結婚って、もう二ヶ月過ぎてるよ?』  あっさりと返されて次の言葉がなかった。 『もうずっと一緒にいるし、結婚してもそう変わらないよ。最近話せてなかったしさ、どうかと思ったんだけど』  少し困ったような笑顔に胸の奥が動く。忘れようと押し込めていた面影が重なって、駄目だとわかっているのに冬はその笑顔に弱かった昔の自分と同じようにまた頷いていた。 「おれって馬鹿だよなあ…」  退社して外に出るともう二十時を過ぎていた。結局今日も最後までオフィスに残ってしまった。  通りに出て人の流れに乗る。オフィス街のこの時間帯は帰宅する人で昼間と変わらず賑やかだ。駅までの道のりは五分とかからない。  嫌だといえばよかったと今更のように気持ちが沈む。  思い出したくない。  あの頃のことは何も、出来れば何もなかったことにしたかったのに。  どうしていつも名取の願いを聞いてしまうのか。八年経ってもなお変われない。冬は情けない自分自身に深く息をついて駅の改札を通った。
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