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3
駅の改札を通った瞬間、ふと誰かがいたような気がして顔を前に向けた。
なんだ?
押し出されるようにして前に進んでいる人の絶え間ない流れ、見知らぬ人々の顔、反対側ではそれとは逆にホームに向かう人たちの流れが続いていて…
『? 大塚?』
「あ…、悪い」
耳に当てたままだったスマホから聞こえた声に、はっと大塚史唯は我に返った。
「……」
何だったんだ、今の。
何か──
『おいちゃんと聞いてるか』
ああ、と大塚は頷いた。
「で、なんだって?」
『それ聞いてないってことだな』
「帰宅中にかけてくるおまえが悪い」
人の流れのまま改札を抜け構内を出ると、ひやりとした風が頬に当たった。
季節はもう秋なのだ。
「それで?」
『だから来週の話だよ』
「ああ…、」
何かを思い出したように大塚は空を仰いだ。来週。そういえばそうだった。
「おまえの代わりか」
すっかり忘れていた。
「いいけどこれきりだぞ。大体俺は…」
『せっかくのもん使わなけりゃもったいないだろうが』
「別にもったいなくは──」
通話の向こうから声がして、相手は大きくそれに返事をした。遠くなった声がまた近づいて口早に言った。
『じゃあ来週な、来週! ちゃんと頼んだからな!』
「お──」
おい待て、と言おうとした途端ぷつりと切れた。大塚は渋い顔でため息を落とした。
まったく。
「人の気も知らねえで…」
小さく呟くとスーツのポケットにスマホを滑り込ませた。
妹の結婚式で久々に会った大学の友人があの日冗談のように大塚に頼んできた話がどうやら本気だったらしいと気づいたのは今週初め、やたら鳴るスマホの通知欄には友人からの再三に渡るスケジュールの確認が並んでいた。そして仕事の忙しさに放置していた。
連絡先の交換などしなければよかった。
いままでずっと避けて通ってきたのに。
「…めんどくせえ」
大塚は前髪をかき上げた。仕事だからとセットした髪が少し崩れて額に落ちる。口寂しさを覚えて胸ポケットを探り、出先で切らしていたことを思い出した。
今日はまだ仕事は終わりではない。夕食には程遠く、一服して空腹を紛らわせたい。
もう少し先にコンビニがある。
明るい光を放つコンビニの前まで来ると大塚は迷わず中に入った。
「いらっしゃいませえ」
──あ
レジカウンターの中で店員が頭を下げた。若い彼は大学生に見えた。胸に付けた名札を見た途端、大塚は先程の違和感の正体に思い当たった。
***
「うん、ああ、うん──分かってるって」
スマホの向こうから聞こえる母親の声に適当な相槌を返すと、呆れたような声が返ってきた。
「そのうち行くって。今ちょっと手が空かないからさ…うん、そう、忙しいんだよ」
『忙しいってあんたそればっかりじゃない』
「仕方ないだろ、ほんとに忙しいんだって…」
ついてない。
玄関に入った早々鳴った電話につかまってしまった。
「分かってる、うん」
沸いた湯をカップラーメンに注ぎながら、冬は言った。ちらりと時計を見て三分後を計る。出来るならあと二分でこの通話を終わらせたい。
サイズを間違えて買った大きすぎるスウェットの腕をまくり、電気ケトルを置いた。冷蔵庫を開けて作り置きの残り物を適当にテーブルに出していく。とりあえず食べられそうなものをレンジに突っ込んで、ずっと喋り続けている母親の声に意識を戻す。
『…大体あんたももういい歳なんだから早く結婚して──そういえば高校の時の同級生の結婚式行ったんでしょ?』
「──」
ぎくりと冬の首が強張った。
なんでそんなこと知ってるんだ。
嫌な話題に強引に母親の話に割り込む。
「あー母さん悪いけどさ、もうおれ飯食うから…」
『え、今からご飯なの? ねえちょっと、その結婚式でいい感じの子とか──』
「ごめんほんともう、じゃあまた」
早口に言って通話を切った。
急にしんとした耳元に、はあ、と深く冬はため息をついた。
母親は悪い人ではないが人のことに干渉しがちだった。
電話をかけてくるのはいいが、その度に兄夫婦の近況だの結婚だの言うのはやめてくれないだろうか。
「ほんとに…」
思い出したくもなかったことを思い出してしまい、気持ちが沈む。
結婚式か。
どうして母親が知らせもしなかったその話を知っているのか、おおよその見当はつくが、今は考えたくもない。
目の前のカップラーメンの蓋を取る。三分は過ぎていた。
冬はもう一度ため息をつくと、レンジの中のものを取り出した。温まり切らなかった作り置きと少し伸びたラーメンを前に座る。
思い出してしまった、望まなかった再会の日。
食欲が一気に失せてしまったが捨てるわけにもいかないと、冬は重い箸を持ち上げた。
『…え、ミヤ?』
それは突然だったのだ。
出来ることならもう二度と顔を合わせたくなかった人がそこにいた。
『ゆう、佑真──』
四ヶ月ほど前、取引先の会社との予定されていた打ち合わせ。案内された会議室で待っていた冬と建部の前に名取は現れたのだ。
あの頃よりずっと、大人になった姿で。
『あれっ、宮田くん、うちの名取と知り合い?』
ミーティングの席で固まった冬を見て、取引先の担当者である相沢が冬と名取を交互に見た。それに名取が頷く。
『はい、高校時代の同級生です』
『そうなのか! へえすごい偶然だな! あ、建部さん、今度支店からうちに移動してきた名取です』
冬の横で成り行きを見守っていた建部に、相沢は名取を紹介した。
支店。
『そうですか、初めましてインクルード企画課の建部です』
『初めまして、一日付でこちらに勤務することになりました名取です』
互いに名刺を出して交換する。そつのない名取の仕草に思わず見とれていると、名取がじっと冬を見てきた。
『へ?』
『名刺は?』
『え…おれの?』
『社会人の基本でしょ』
はい、と名刺を差し出されて冬は仕方なく受け取った。礼儀に則り、自分の名刺を名取に渡す。
『ありがとう』
笑って受け取る名取を見て、冬は複雑な気持ちになった。
『では始めましょうか』
仕切り直すように言った相沢の言葉にそれぞれが席についた。冬も建部の横に席を取り、資料を広げていった。
「……」
あの日は散々だった。仕事に集中しなければと考えるほど、名取の気配に気を取られ何かと失敗ばかりを繰り返していた。
指に挟んだ名取の名刺をくるりと回す。
裏面には綺麗な字で書かれた名取の携帯番号がある。
『ミヤ、連絡先書くからさっきの名刺出して』
『え、いや──』
『会社専用の番号しかそれ載せてないから』
『あ』
すっと上着の内ポケットに手を伸ばされ、心臓が跳ね上がった。
『ああごめん』
名取が冬の顔を見て笑う。あまりにもぎょっとした顔をしていたのか、少し先でエレベーターを待っていた建部が呆れた顔をしていた。
『じゃあこれ』
そう言ってもう一枚名刺を渡される。いつのまに書き付けたのか、それにはすでに名取の携帯番号が記されていた。
『後で必ず掛けて。じゃあ、──失礼します』
建部を振り向き一礼すると名取はさっとオフィスへ戻って行った。冬の手には二枚目の名刺が残り、追いかけるわけにもいかず冬はそれをポケットに仕舞った。
『なんか嬉しそうじゃないな』
『そんなことないですよ』
建部の少し気遣うような声に冬は笑った。
『あんまり久しぶりだったんで、びっくりしてるだけです』
本当に久しぶりすぎた。
もう二度と会わないと決めていた。
遠い過去に置いてきたのに。
だが…
どうせ仕事上また会うことになるのだからと冬は覚悟を決めて、終業後名取へと電話を掛けたのだった。
「馬鹿だったな」
かたん、と冬は名刺を置いた。
名刺入れから取り出した、あのとき名取から貰ったもの。
誰もいない部屋の中でその音がやけに大きく響く。
ベッド脇のサイドテーブルに置いたスマホの画面は、時折思い出したように明るくなっては暗くなるを繰り返していた。
友人からのメッセージ。
読まなくてもいい企業メール。
さっき会話を終わらせたばかりの母親が送ってきた何かの画像。
そして、名取からの週末の予定の確認。
「……」
胸の奥がざわりとする。
もう関わりたくないと思いながらも、どこかでそれを嬉しいと思う自分が確かにいる。そんな自分自身に呆れるしかない。
まだ好きなんだろうか。
名取を。
冬は自嘲気味に笑った。
「そんなわけないだろ」
違う。
違う──
全部気のせいだ。
気のせいでしかない。
もう好きじゃない。
冬はスマホの画面をタップした。
名取のメッセージは開かず、代わりに母親からの連絡に既読をつける。
頼んでもいないのに兄夫婦の子供の写真を送ってきていた。見たことだけを分からせれば十分だろうと、そのままアプリを閉じてスマホをサイドテーブルに伏せて置いた。
明かりを落としベッドにもぐりこむ。
何もかもが面倒だ。返事は明日でいいだろう。気づかなかったことにしておけばいい。
目を閉じるとすぐに眠りはやってきた。
落ちていく感覚。
まどろみの中でちくりとどこかが痛んだ気がした。
***
「…っと」
暗い玄関の中でスイッチを探した。
明かりがついても音はない。
丸一日空けた家は今では他人のように冷たかった。
真夜中に帰宅することは今に始まったことではない。
仕事が終わるのはいつも日付を過ぎていた。それから家に帰れば、もうあと何時間で朝が来るのだ。
帰りのコンビニで買った袋をテーブルの上に放った。中にはおにぎりひとつと菓子パンひとつ。夜食と朝食にそれぞれ食べる用だった。かさりと音がしてくたりと倒れる。置かれていたメモ用紙がその拍子にテーブルの端まで動き、大塚はちらりと目をやった。
捨てたいが、やめておく。
「……」
上着を脱ぎそのままベッドに倒れこみたいのを我慢して、流しで手を洗い水を飲んだ。風呂は朝、無理やりにでも目を覚ますために入るようにしている。
「腹減った」
夕飯を食べそこなって空腹だった。テーブルの上に目をやり、どちらにするかと一瞬迷い、菓子パンを選んだ。とりあえずこの飢えをどうにかしなければ眠れない。袋から買ったものを出して立ったまま一口齧り、飲み込んで、ため息をつく。
何か飲むものくらい用意するか。
買い置きを突っ込んでいる引き出しにインスタントのスープがあるのを思い出した。確かあるはずだ。開けようとして、大塚は足先がそばにあった紙袋に引っかかった。
未開封のまま入っている白い箱やリボンのついた小さな袋が入っている。
二ヶ月前に出席した妹の結婚式で貰った引き出物だ。どうせ使うこともない皿か何かだろうと、あの日帰って来てからずっと忙しさにかまけて放置していた。
大塚は手を伸ばし、袋の中の小さな袋を手に取った。
これは何だったのか。式場から出るときに妹に渡されたものだ。
綺麗にラッピングされた包装紙を破く。
破れた隙間からひらりとなにかが足元に落ちた。
「…あ?」
花びらだ。
色は美しいのに乾燥しているそれはドライフラワーだと、疎い大塚にも分かった。
パッケージにはローズティーとある。
──当式場で育てた薔薇を使用したフラワーティーです、…
式場の周りは美しい薔薇に囲まれていた。その中庭にも淡いクリーム色の小さな薔薇が咲き誇っていた。
さっき寄ったコンビニ店員の胸にあった名札は宮野だった。
「…──」
宮野──ミヤ
『ミヤ』
今日まで思い出しもしなかったあの日の出来事が脳裏をよぎる。
『僕のこと好きだろ、ミヤ』
駅の改札で、似た人物ときっとすれ違ったのだろう。自分は忘れたつもりでも、どこかで覚えていたのだ。あのほんの一瞬のことを。
足早に中庭を出て行った彼の顔はぼんやりとして淡く、それでも印象は強く胸の奥に残っている。
泣きそうな顔をしていた。そして怒っていた。
大塚は電気ケトルを取り、水を入れスイッチを押した。静かな部屋の中、電気で湯の沸く音が小さく響く。
テーブルを振り返った。そこにあるメモ用紙をじっと見つめる。三週間前、愛想をつかして出ていった同居人が残した走り書き。
いい加減捨てたいと思いながらも教訓のようにそこに置いている。そんな自分が心底嫌らしいと思う。あのときのタキシードの男とどちらがいい勝負だろうと、諦めのようにため息をついた。
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