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4
頬を押さえ、冬は考え込んだ。
「うーん…」
これはまずいかも。
スマホの画面と睨み合う。
さて、どうするべきか。
「おいみやたー」
呼ぶ声にはっと冬はスマホから顔を上げた。
「あ、はい──っ」
慌てて振り向くと、建部が足早にこちらに歩いて来ていた。オフィスのデスクの間を縫うように近づいてくる。
「おまえ昨日の資料どうした? データ見たいんだけど」
「あ、それ入力して──建部さんのほうにも進捗送ってますけど」
「ああそう? 悪い確認する」
「共有のほう見て下さい」
建部が自分のデスクに戻りパソコンで確認するのを冬は振り返ったまま見ていた。ちらりと手元に目を落とし、開いていたページに目をやってから建部に近づく。
「ありました? そのファイル開いて、それです」
モニターに映った箇所を指差すと、建部が素早くクリックした。最近ではオンライン会議も増え紙媒体の資料などあまり使わなくなってきたかのようにも思えるが、実際はまだまだ健在だ。データとして外に持ち出せないものも数多くあるのでやはり紙の資料は強い。その分手間もかかるのは致し方ないことだった。
販売数や価格、売れ筋に調達手段、コスト面での輸送費など細かく分析したものから取引先に有用だと思われるものだけを抽出し書き出していく。それが冬の日常業務の一環だった。
「あーこれなー。はいはい…今朝社内メール見てなかったわ、悪い」
「朝イチで会議でしたしね」
仕方がない、と言うと建部は大きく頷いた。
彼は朝から他の部署との合同会議に出ていてさっき戻って来たばかりだ。
「まったく、戦略会議は午後にやって欲しいもんだよ…、ん?」
画面をせわしなくクリックしていた建部の視線が、ふと何かを見つけたように下を向いた。
「なにおまえ、歯医者?」
「え、あ」
持っていたスマホを建部のデスクに置いていた。うっかり見られてしまった画面には、歯医者のホームページがしっかりと映っている。
「こないだ痛いって言ってたよな、まだ行ってなかったのか?」
先週の何気ない会話を建部はしっかりと覚えていたらしい。
「えーと、はい、…まだ」
「ちゃんと行けって言っただろうが」
「えーとだから、予約を」
取ろうと思って、と言いかけて冬は顔をしかめた。
奥歯がぴりっと痛む。
あの翌日からずっと冬は調子が悪かった。はじめは気のせいだろうと楽観的に考えていたのだが、痛みはどんどんひどくなるばかりで、咄嗟の言い訳でついた嘘がどうやら本当になってしまったようだ。
「休みの日に行かなかったのか」
今日は火曜日だ。
土日にやっている歯医者もあるにはあるが、冬はいつも診てもらっているところがよかった。だが…
「かかりつけが、閉院しまして」
「…はあ?」
昨日治まらない痛みにいい加減診てもらおうと連絡してみたところ、聴き慣れない声の年配の女性が出て、医師が体調を崩したので引退したと言われた。
『すみませんねえ、急なことでお知らせする暇もなくって。主人が…院長が入院して退院のめどが立たないので、思い切って閉院しまして。今そのお知らせを作っているところなんです』
はあ、と冬はおどろきの声を上げ、それからお大事にとだけ言って電話を切った。さてどうするかと考えて、先日同僚の杉原から教えてもらった歯医者を思い出した。名前と住所を書いた紙は会社のデスクの中だ。冬は昼休みに電話をしようとその歯科医院を確認しているところだった。
「だから早く行けって…、休みはどうしたんだ?」
「痛み止め飲んで寝てました」
近所の薬局で買った痛み止めは思いのほかよく効いた。薬が切れるとつらいので土日は家でおとなしくしていた。
そして名取との週末の飲みはそれを言い訳に断った。心配だとなぜか家に来たがった名取をどうにかやり込め──たかが歯痛で?──、手短に電話を終えると冬は心底ほっとした。
歯が痛むのも悪いことばかりではない。
だがこれ以上ひどくなると仕事に支障をきたしそうなので、冬としても早めに受診しておきたかった。
「早く予約取って来い」
ほら行け、と身振りする建部に冬は頷いた。
「昼休みに取ります」
そう言うと、建部は顔をしかめた。
「いいから、早くしないと初診は受け付けてもらえないぞ?」
「え、そうなんですか?」
少し大きな声で返すと、近くにいた同僚たちが何事かとこちらを振り返った。しまったと顔を上げれば作業中の杉原と目が合って、心配そうな顔をされた。
「宮田くん、あそこほんと人気だから! 早くしないと今日は駄目って言われるよ」
「うそ」
「ほんとだって! 呑気すぎない?」
会話が聞こえていたのだろう、杉原は早く早く、と冬を急かした。
「ほらみろ早くしてこい」
「え」
「駄目だったら私の名前出して。紹介って言えばもしかしたらいけるかもだから」
そんなに?
予約ひとつでそんなことあるか?
今までかかりつけ以外に行ったことがない冬にはにわかに信じがたいことだったが、ふたりに急かされて冬は慌てて廊下に出た。各部署の並ぶ廊下を端まで行く。奥にある休憩室に入ると、窓に寄った。仕事以外のプライベートなことはオフィスでは極力やらない。それが社内の暗黙のルールだった。
「えーと…」
スマホを開きもう一度確認する。初診予約専用と書かれたところをタップするとすぐに呼び出し音が鳴り始めた。
『──はい、デンタルクリニック・ホワイティアでございます』
抑揚のない若い女性の声に、やはりすごい名前だな、と冬は思った。杉原に最初教えてもらった時もその名前の仰々しさに驚いたのだが。
「すみません予約をお願いしたいのですが」
休憩室とガラスで隔てられた喫煙スペースから何人かの顔見知りが出てきて、冬は軽く会釈をした。
『初めてのご予約でよろしいでしょうか?』
「はい」
『診察ですか?』
「はい」
『かしこまりました、ではお日にちのご希望を…』
あの、と冬は彼女を遮るように言った。
『はい?』
「あの、痛みがあるので出来れば早いほうがいいんですが、今日とか」
『え? 今日ですか?』
「はい」
女性は今日という言葉に驚いたように黙り込んだ。ぱらぱらと何かを捲るかすかな音が聞こえる。
『あの少々お待ちください、──』
ぷち、と途切れすぐに保留音に切り替わる。杉原の言ったように当日連絡の予約は難しいのだろうか。
冬がいつも行っていたところは当日でもすんなりと診てもらえたので、これは少し驚きだった。
世間ではこれが普通なのか。
無意識に痛みのある頬を撫でた。痛み止めが効いているので大丈夫だけれど時々ぴりぴりと痛みが走る。
『お待たせいたしました』
長く流れていた保留音が切り替わり女性の声がした。喫煙スペースに入っていく同僚に軽く手を上げて冬ははい、と返事をした。
『申し訳ございませんが本日の予約はお取り出来ません』
「え、痛みがあってでもですか?」
『申し訳ありません、直近でしたら明後日の…』
明後日?
明後日まで我慢できるだろうか?
『午前中ですね』
「午前?」
明後日の午前?
思いきり平日の午前中だ。確かその日は取引先との打ち合わせがある。
しかも名取のいる会社だ。もしも受診するとなれば半休を貰わねばならない。
打ち合わせは…
それでもいいかと冬は一瞬思ったがすぐに打ち消した。
何考えてるんだおれは。
「それはちょっと困ります。仕事ですので。あの、実はそちらに掛かっている僕の知り合いから紹介されたのですが」
『ご紹介ですか』
「はい、杉原という女性です」
『そうですか…、えーと…、少々お待ちください、──ええ』
相手は一瞬黙り込んだ。
不穏なつぶやきを残してまた保留音が流れ始める。
軽快なチャイムの音が昼休みを告げた。
廊下が騒がしくなってくる。
保留は先程よりも長かった。同僚が冬を見て飯食いに行こう、と口振りで伝えるのに手ぶりを交え頷いていると、ぷつりと保留音が消えた。
『お待たせいたしました』
まるで何事もなかったかのように女性は言い、最終診療時間でよければ、と冷たく告げた。
「最終って…?」
『十九時五十分ですね』
***
走りながら冬はちらりと時計に目をやった。
十九時五十四分
「うわ…」
約束の時間より四分過ぎている。
終業時間は十八時、今日は仕事も順調に進み残業もなく余裕で間に合うと思っていたのに、退勤間際に問題がひとつ発生した。
営業部が持ち出しに使った資料と社内データの間にわずかな誤差があり、顧客から見積価格と実際の価格が違うという指摘を受けた。営業部はクレーム対応とデータ見直しに追われ、その分遅れそうになった業務が営業企画課に回ってきたのだった。
『えっうちでやるんですか』
『仕方ないだろ、今日出社してないやつもいるから人手が足りない。ほらテキパキ動け、みんなでやればすぐに終わる』
昨今の世間の事情から営業も在宅ワークを推奨されているので出社している人数はいつも半数ほどだ。それを交代でやりくりし、どうにか成績を維持している。
不満の声を上げた部下に建部はそう言って営業課に走って行った。もともと建部は営業の人間だったので今でも顔が広い。
『お、宮田、おまえ何時までいける?』
『十九時五十分なので、十九時半なら』
歯科医院はここから近い。二十分もあれば充分だった。
『わかった、悪いな』
そうして手分けをして対応に当たっていたのだが、結局こんな時間になってしまった。
社を出たのは四十五分を過ぎていた。
間に合わないと分かっていても冬は走っていた。電話に出た女性はとても冷たかったが、まがりなりにも医療機関だ。少しの遅れくらい待ってくれるかもしれない。
「…ついてないな…っ」
喋るとずきりと痛む。
痛み止めが切れてきたのだ。
人をよけて走る。次の角を曲がり路地に入ってすぐが歯科医院だ。
白い建物にガラス張りのフロント。
──あ
建物が見えた。窓にはまだ明かりがついていた。
「よかった」
ほっと息を吐き、冬は正面に回った。
三段ほどの階段に足を掛けた瞬間、ふっ、と明かりが消えた。
「え──」
入り口を見れば内側からロールカーテンが落ちている。
「す、すみません…っ」
扉の取っ手を引いたがガチャンと音が鳴るだけで開かない。そこは固く閉ざされていた。まったく見えない奥に人の気配を知るすべはない。
嘘だろ。
十九時五十七分。
たった七分なのに。
でもこれが仕事だったなら、七分の遅れはやはり問題だよな。
「…どうするかな」
まるで締め出しを食らった子供のようだ。情けなさにため息をつき冬は肩を落とした。なんだかひどく疲れてしまった。
今日もまた痛み止めでやり過ごすしかない。帰ろう、と思った、そのとき。
「い──っ」
突然走り抜けた強烈な痛みに冬はその場にうずくまった。
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