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「ですからね、お義父さん。私たちは、心配しているんですよ。事故や怪我にあう可能性も高いわけじゃないですか」
久しぶりに顔を見せた娘夫婦が世間話もそこそこに本題を切り出したのは、座敷に腰を下ろしてからたった数分後の事だった。
茂明は湯呑みに淹れた煎茶をすすり、小さく溜息をついた。
また、この話か。
「そうよ、お父さん。この間、お向かいの酒井さんも接触事故で入院したっていうじゃない。怪我したら大変なのよ」
娘の利津子は、大変、という単語を強調するようにそういった。
それは怪我をした老人の面倒を見る事になる自分達が大変だ、ということか。
つい口から出そうになった皮肉を、茂明は渋いお茶と共に喉の奥へ押しやった。
何を言っても徒労にしかならない事は、もう身に沁みてわかっていた。
利津子と、その夫である斉藤という男が、茂明に免許の返納を迫るようになってからもう数年が経つ。
お義父さんの身体が心配だ、などと耳障りの良いことを毎度口にしているが、腹の中はどうだかわからない。
高齢者に自主的な免許の返納を促せば、その家族に給付金が出るという話もある。
目の前で胡散臭い笑みを浮かべている男の狙いはおそらくそれだろう。
確かに加齢と共に衰えは感じているが、茂明の身体はまだよく動く。老眼はあっても同年代も比べれば視力も悪くないし、大きい病気もしていない。
利津子と斉藤が言うように、免許を返納するべきだとは思えないのだ。
「……悪いが、そのつもりはないよ。自分の身体の事は、自分が一番わかってる」
茂明がそう言うと、目の前の二人は困ったように顔を見合わせた。
まるで茂明の側に問題がある、とでも言いたげな様子だ。
この態度に、腹が立つ。
その上、二人は茂明の目の前でヒソヒソと耳打ちをし始めた。
いったい何のつもりなのだろうか。
ぶぶ漬けでも出してやろうか、と立ち上がった茂明に対し、利津子が声をかけた。
「あっ、お父さんの友達の倉本さん。最近、免許返納したらしいわよ。聞いてた?」
「……なんだと」
倉本は、古い友人だ。
小学生の頃から同じ学校だった。
中学の校舎へと続く河原沿いの道を、自転車で並走して毎日一緒に通学した。
高校二年の夏休みに、学校に黙って二人で普通二輪の免許を取りに行った。
勉強が苦手な倉本はなかなか学科試験をパスできず、結局夏休みの間に免許を取ることが出来なかった。
高校を卒業してからようやく免許を取り、工場の初任給で安い中古のバイクを買った。
その夜、二人で夜通し海岸沿いの国道を走った事は今でも覚えている。
「あいつ……俺に何も言わないで」
茂明が絶句していると、その肩に寄り添うように斉藤が近寄ってきた。
「……倉本さんは、賢明な判断をされたと思います。現在、免許を自主的に返納される方の平均年齢は七十四歳です。社会の為にも、そしてご自身の為にも、これは良い事なんですよ」
娘の利津子が、そっと茂明の手を取る。
「ねぇお願いよ。お母さんが亡くなる前の事、覚えているでしょう? お父さんには、あんな風に苦しんでほしくないの」
そう言って、利津子は仏壇の前に飾られた遺影に目をやった。
小さな写真立ての中では、五年前に亡くなった妻の禎子が笑っている。
不意の事故で脊髄を損傷した禎子は、長いこと寝たきりの生活を強いられた。
茂明も介護に手を尽くしたが、晩年の禎子は褥瘡に苦しみ、側で世話をしているだけでも辛い気持ちになった。
確かに、免許を返納すればそうやって苦しむ事もないだろう。しかし……。
「お義父さん、皆がそうしているんです」
自信に満ちた声で斉藤が言い放つ。
「より良い、安全な社会の為なんだよ?」
利津子の目が、自分を見つめている。
茂明は己の身体から、なにかがスッと抜けていくような気がした。
それはきっと、自分を今この場所に繋ぎ止めていた楔のようなものだった。
「……わかったよ。半年以内に、返納する」
力無く、茂明はそう言った。
もう誰も自分が免許を持ち続けることを望んでいない。そう悟った瞬間だった。
それから茂明は免許を返納する予定日に向けて諸々の処理を進めた。
ずっと手入れを続けてきた愛車の大型二輪を手放した時は、流石に悲しかった。
けれど、持っていても使い道がないのだからしょうがない。
駐輪場を含めた各所の契約も滞りなく解約し、茂明はとうとうその日を迎えた。
「合同免許返納式」と書かれた大きな幕がセンターの入り口に垂れ下がっていた。
最近では自主返納を申し出る高齢者が増加している為、手続きを簡素化し、まとめて処理を行うのだという。
「じゃあ、お義父さん。僕はこれで」
茂明をセンターまで送り届けた斉藤は、運転席から軽く挨拶をして、あっという間にどこかへと走り去っていった。
周りを見渡すと、茂明と同世代の人々がセンターの入り口に向けて進んでいた。
皆、同様に正装をしている。
茂明も、珍しくジャケットに袖を通した。
合同とはいえ、これも式典なのだ。
少しでも見栄えは良くしておきたいのが心情だろう。
センターの入り口で、事前に郵便で送られてきていたハガキの印字をコードリーダーに読ませた。事前登録を済ませておく事で、のちに特典として付与される「早期返納ポイント」が増えるのだという。茂明は斉藤に勧められるがまま、慣れないデバイスを事前に操作して自分の情報を画面に打ち込んでいた。
音声ガイドの案内に従い、茂明はセンターの広い廊下を歩いた。
返納センターの建物はとても新しく、そして清潔だった。埃一つ落ちていない床の上で茂明は何とも落ち着かない気持ちになった。
「それでは、こちらでお待ちください」
第一ホール、と書かれた広い部屋まで導かれ、茂明は扉を開けた。
そこには四十人ほどの同世代の男女が集まっていた。皆、どことなく不安そうな表情を浮かべて椅子に座っている。
ハガキに書かれた番号を確認して、茂明も指定された座席に腰を下ろした。
机の上には、クリアファイルにまとめられた資料とペンシル、それと水の入ったペットボトルが一本置かれている。
「各規程を御一読いただき、承諾をいただけましたら書類の空欄に署名をお願いします」
頭上のスピーカーから女性の声が聞こえてくる。周りの人々がいっせいに書類を広げたのがわかった。茂明もそれに続く。
「記入漏れがないか確認していただきましたら、クリアファイルに用紙を戻してください。また、お持ちいただきました免許カードを同じファイルに入れてください」
茂明は財布を取り出し、その中にしまいっぱなしだった免許を取り出した。
左上に印刷された顔写真は、今の茂明に比べていくらか見た目が若い。
名前の上に記されているのは、国から付与された十二桁の番号だ。
茂明はその数字をゆっくりと撫でた。
生まれてから今まで、ずっと一緒だった数字だ。少し名残惜しかった。
クリアファイルにカードを入れると、また音声案内があった。
「それでは、記念撮影を行います。ホールの後方にお集まりください」
そこには撮影用のひな壇が用意されており、ご丁寧に立ち位置の番号まで振ってあった。
決められた場所に立つと、不意に懐かしい気持ちになった。
「……なんだか、卒業式みたいですねぇ」
誰かがそう呟くと、それまで押し黙っていた人々が「そうですねぇ」「懐かしいなぁ」と同意の言葉を口にした。
和やかな雰囲気が流れ、皆の強張っていた表情が少し綻ぶ。
「それでは二度シャッターを切ります。赤いランプに視点を合わせてください」
パシャ、と音がして閃光が走った。
皆、笑っている。
茂明もぎこちなく笑顔を浮かべた。
スン、と鼻を啜る音が近くから聞こえた。
それはひな壇に立つ人々の間にゆっくりと広がっていった。
小さな音は、やがて嗚咽となった。
皆、笑いながら涙を流している。
そうか、同じ気持ちだったのか。
二度目のシャッター音が鳴った時、茂明は歪な表情を浮かべていた。
「自主的な免許返納を望まれた皆様に、最終のご案内を申し上げます」
天井の高い部屋だった。
つるんとした白い壁が周りを囲っている。
「国内の生産性向上の為、『国民免許』の早期返納にご協力いただきありがとうございます。皆様の賢明なご判断は、必ずやこの国の若い世代を助ける力となることでしょう」
スピーカーから流れる声を聴いている内に強烈な眠気が襲ってきた。まるで睡眠薬を服用した時のようだ。茂明はふらつき、飲みかけのペットボトルを手から床に落とした。
「返納に痛みや苦しみは伴いません。皆様は羽毛に包まれて眠るように、穏やかな気持ちで処理を受けることができます」
頭上で、シュッと何かが噴出される音がした。それはゆっくりと周りに降ってくる。
「皆様の肉体は、移植手術や献血、或いは有機肥料として、指の先まで余すことなく使われます。老いてなお、社会のために自らの価値を提供した皆様は、最も賞賛されるべき優秀な国民の一人といえるでしょう……」
ばたり、と人が倒れる音がした。
周りも次々に意識を失っていく。
茂明も、もう立っていられなかった。
思わず膝をついた茂明の視線の先に、まだ両足で踏ん張っている男がいた。
男は拳を固く握り、物凄い勢いで壁を叩き続けている。
「嫌だ……俺は、死にたくないッ! まだ、死にたくないッッ! ここから出してくれ、出してくれよォッッ!」
薄れゆく意識の中で、茂明は先に逝った妻の顔を強く思い浮かべていた。
僕は、君のいる所へ行けるだろうか。
男の声は、部屋の中で虚しく響いていた。
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