死にたい夜に限って

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 私が毎晩立つ売春通りには、観音通りなんて異名がついている。女の観音様を格安で拝める通りってわけだろう。下世話な名前だとは思うけれど、戦後すぐからそう呼ばれていると言うから、歴史はある名前だ。  その観音通りの中程にある街灯の下。そこが私の仕事場だ。ここに立って、客を待つ。客がついたら、そこここに立ち並ぶラブホテルのどこかで股を開く。簡単な仕事だ。誰に教わったわけでもないけれど、セックスなんか誰にだってできる。あとはそれに値段をつけられるかどうか、それだけの話しだ。  咥えた煙草に火をつけ、コートの襟を合わせる。  今日は随分寒いから、客のつきは悪いだろう。  ふう、と煙草の煙を吐き出しながら、私はなんとなく、香也からかかってきたはじめの電話を思い出す。  あれは、香也と知り合って一週間かそこいらが経った、真夏の夜だった。  観音通りの近くにある五階建てアパートの屋上に出て、さて飛び降りようかと姿勢を固めていた私は、ポケットの中でスマホが震えていることに気がついた。  最初は、無視しようとした。数秒後には死ぬ身だ。誰からどんな用でかかってきた電話であろうと、もう出る必要もないだろう。私は腰まである柵を乗り越え、片足を宙に踏み出してみた。  それでも、電話は鳴り止まなかった。ワンピースのポケットの中でしつこく震え続けた。  誰だろう。私なんかに、こんなしつこく電話を鳴らすような用があるのは。  不思議に思って、電話を取った。  『あ、美奈ちゃん? 今何してるの? 暇?』  聞き慣れない声だった。とっさには誰だかも分からなかった。私はとりあえず、暇だよ、と返した。虚空に踏み出した右足が、生ぬるい風に吹かれていた。  『よかった、誰かに話し聞いてほしくて。聞いてよ、彼氏が酷いんだよ。』  明らかに男の声で紡がれた、彼氏、という単語。私はそこでようやく。電話の向こうにいるのが香也だと気がついた。正確には、香也の名前を把握していなかったので、先週行ったミックスバーの店員だ、と、そう思い至ったのだ。  そこから香也は、30分くらい彼氏に対する愚痴をぶちまけてきた。  私は夏の夜風に右足を晒したまま、うんうんとその話を聞いていた。  『話聞いてもらえてよかったー!ありがとうね!』  香也の締めの言葉にも、うんうん、と返して電話を切った。  それから私は足を引き上げ、柵を乗り越え、階段を使ってそのアパートを出た。  最高潮まで高まっていた、死にたい気分が、なぜだかメモリゼロの地点まで下がってしまっていた。  
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