夏の終わりと女郎雲

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 夏の終わりの事だった。  陽の沈みかけた橙色の空から、突然に大粒の雨が降り始めた。  前触れのない急な夕立に追い立てられ、畑仕事に勤しんでいた祖父と僕は、そばにあった物置の庇の下に慌てて逃げ込んだ。  祖父と同じ匂いがするゴワゴワとしたタオルで濡れた顔を拭かれながら、僕は高い空を眺めていた。  雨が降っているのに、陽は射している。  空には雲が浮かんでいるのだが、それは滅多に見ない奇妙な形をしていた。  放射線状に広がっている細い雲と、らせん状に渦を巻く雲が交差して、細かい網目のようになっている。  その形状は、ちょうど畑にできた蜘蛛の巣に良く似ていた。 「ぼん、見たらあかん」  祖父の節くれだった指と掌が、雲を眺めていた僕の視界を覆った。 「あれは女郎雲の巣や。呆けて眺めてたら、連れてかれんで」  顔に触れた祖父の手はカサカサとしていて、なんだかくすぐったかった。  僕は祖父の声の真剣さにも気付かず、可笑しくなってキャッキャと笑っていた。    それが十年ほど前の話だ。  あの頃は現役で農業をしていた祖父も、晩年はほとんど寝たきりの生活だったという。  僕自身、父方の実家を訪れたのは、何年振りかの事だった。  けれど、ここに来るのが楽しみだったのは、小学校を卒業するまでの事だ。それ以降は自然と足が遠のいていた。  祖父の死に目には会えなかった。  夏の終わり。暑さで衰弱した祖父は一人で息を引き取ったという。  夏休み中、クリーニングに出していた制服を急いで引き取り、僕は葬儀に参列した。    じーわ、じーわと蝉が鳴いている。  全身から汗が吹き出し、濡れたシャツがべったりと身体に張り付いていた。  強い日差しが照っている。  目の前には、祖父の畑が広がっていた。  正しくは、畑だった場所だ。  祖父が倒れてからは、ずっと手付かずになっていた。青々とした雑草が、僕の腰あたりまで背を伸ばしている。  僕はその葉を表面をじっと見つめていた。  どうして、もっと早く会いに来なかったのだろう。  祖父はずっとここにいたのに。  ポタリ、と大きな水滴が葉に落ちた。  降り出すかな、と思った瞬間、滝のような勢いで、空から雨粒が落ちてきた。  夕立だった。  ザァーッという雨音と細かい飛沫で、周りの風景が塗りつぶされていった。  僕は、その中を駆けていった。  既に制服は雨でビショビショになっていたが、それでも雨宿りをする場所を探した。  少し走った所で、道の脇に屋根付きのバス停を見つけた。  その庇の下に逃げ込む。  濡れたシャツの裾を絞り上げながら、僕は屋根に打ち付ける雨の音を聞いていた。  依然として雨は降り続けているのに、辺りには陽が射していて、妙に明るかった。  ふと上を仰ぎ見ると、空には不思議な形の雲がかかっている。  幾何学的な紋様だった。まるで蜘蛛の巣のような。  珍しいな、と思ってそれを眺めていると、どこからかバシャバシャと水溜りを踏む足音が聞こえてきた。 「あー、やばいやばい!」  バス停に近づいてきたのは、セーラー服を着た少女だった。薄っぺらいカバンを頭の上に掲げて雨除けにしている。  スカートの裾までびしょ濡れになっている少女は、僕が雨宿りしているバス停に息を切らせて駆け込んで来た。 「おっじゃましますー。いやぁ、凄い雨だね。もう異常気象だねぇ!」  鞄から取り出した黄色のタオルでショートカットの黒髪を拭きながら、少女は溌剌と僕に話しかけてきた。  その屈託のなさに呆気に取られたが、僕は「そうだね」と短く答えた。 「君、この辺の子じゃないね」  タオルを首にかけ、スカートの裾の水を切りながら少女は話しかけて来た。  ちらちらと白い太腿がのぞいている。  僕は、なるべくそちらを見ないように気をつけていた。 「うん。良く分かったね」 「分かるよ。制服違うし。っていうか、この辺のコミュニティは狭いから、同年代の子とは大体顔見知りなんだよ」 「なるほどね。……余所者が来ると不快?」  少女は一瞬キョトンとした顔をして、それからケラケラと笑った。 「何それ! 古い因習の村じゃないんだから、そんな排他的じゃないよ! むしろ、歓迎って感じじゃない? この辺りは過疎化が酷いみたいだし」 「……僕はここに引っ越してきた訳じゃないよ。祖父の葬式があるから滞在してるだけ」 「なぁんだ、残念。せっかく、新しいお友達が出来ると思ったのに」  少女はバス停のベンチに腰を下ろし、脚を組んで靴下を脱ぎ始めた。  革靴の中まで入り込んだ雨水で、脱いだ靴下の先からもポタポタと雫が垂れている。 「お葬式って事は……君、実森さんの所のお孫さん? この辺りで畑をやってた家の」 「……そう。詳しいんだね」 「まぁ、ずっとここにいるからねぇ」  少女は、雨の降りしきる田畑の風景を、ぼんやりと眺めながらそう言った。  かさを広げた夏の青い葉が雨粒に濡れ、陽光を受けてキラキラと輝いている。  小さなバス停から見えるその風景は、一瞬を切り取った一枚の絵画のようだった。 「私、君と会った事があるような気がする」  パッと振り向いた少女の瞳が僕を捉えた。  長いまつ毛が濡れていて、僕は少しだけドキッとした。 「……どうかな。確かに、昔はよく祖父の家に遊びに来ていたけど」 「じゃあきっとその時だよ。それって、夏の終わりの頃でしょう?」 「うん。夏休みが終わる少し前だった」 「そうだよね。そうだと思ったんだぁ」  少女は納得したように頷いていたが、僕の方には、子供の頃に女の子と遊んだような記憶は無かった。 「……あの時は、邪魔されちゃったもんね」  少女はポツリと呟いた。 「え?」 「ううん、何でもない!」  そういって少女はニッと笑った。 「ねぇ、いつまでこっちにいるの?」 「そんなに長くはいないよ。月をまたげば学校も始まるし。親父が色々後処理をするらしいけど、あと二、三日ぐらいじゃないかな」 「へぇ……。じゃあさ、どこかで都合あわせて遊ぼうよ!」  少女は、僕の方にグッと身体を寄せた。  揺れる髪の甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「えっ……、でも僕たち、ついさっき会ったばかりだよ」 「一期一会っていうじゃん。逆に、ここで約束しとかなきゃ、もう二度と会う事はないかもしれないよ?」  確かに少女の言う通りだった。  亡くなった祖父の家と畑は、売り払って処分する予定らしい。  一族の墓も別の場所にあるから、少女と遭遇する機会は、これっきりだ。 「仲間にも紹介したいしさ。どう?」  少女は小首を傾げてそう言った。 「……うん、分かった」  僕は自然と頷いていた。 「やった! そしたらさ、この後ちょっと付き合ってよ。今日スマホ忘れちゃったんだ。家の前まで来て貰えば、そこで連絡先を交換できるから」  少女は嬉しそうに身体を弾ませ、ニッコリと微笑んだ。  なんだか、とんでもないスピードで物事が進んでいるような気がしていた。  ほんの数刻前に出会ったばかりの少女。その一挙一動から、僕は目を離せずにいる。 「あ、雨やんだみたいだね」  ふとバス停の外に目をやると、少女の言うように雨が上がっていた。  濡れた地面と水溜りに陽光が射している。  青い空に広がっていた奇妙な形の雲は、どことなく全体的に薄くなっていた。  蜘蛛の巣の形に似た、女郎雲。  そうだ。たしかそういう名前だった。  昔、祖父から聞いたような覚えがある。  見てはいけない、と。  眺めていたら、連れていかれる、と。 「じゃ、行こうか」  バス停から外に一歩足を踏み出し、少女はクルリと振り返って、掌を差し出した。  これは、手を繋ごうという意味だろうか。  僕はゴクリ、と生唾を飲み込んだ。  躊躇していると 「ねぇ、早く行こう?」  と、少女に促された。  僕は覚悟を決め、その手を握ろうとした。  その時だった。  一陣の風が吹いた。  同時に、懐かしい匂いが僕の鼻腔をくすぐった。  汗と土と草の香りが混じった祖父の匂い。  風が吹き抜ける瞬間、僕はその声を聞いたような気がした。 「ぼん、あれは見たらあかんて言うたやろ。ほんまに、忘れん坊さんやなぁ」  僕は自然と目を閉じていた。  瞼の上に、節くれだった掌が重ねられているような感覚があった。  それはカサカサと乾いていて、けれど不思議な温かみがあった。  瞼を開いた時、目の前にいたはずの少女はいなくなっていた。  かわりに、白い煙のようなモヤモヤとした気体の塊が、水溜りの上で渦を巻くようにして漂っていた。 「ちぇー、あと少しだったのになぁ」  どこからか、少女の声が聞こえた。  すると、目の前の白いモヤモヤが、陽光に散らされて跡形もなく消えていった。  僕は唖然として、誰も居なくなったバス停で立ち尽くしていた。  空に浮かんでいたあの雲は、いつの間にかさっぱりと消えてしまっていた。    葬式の会場に戻ると、辺りが慌ただしくしていた。  話を聞くと、祖父の遺体が棺の中から忽然と消えてしまったのだという。  そんなバカな、と狼狽した父は、大汗をかきながら警察と相談をしていた。  喧騒の中で、僕は祖父から聞いた女郎雲の話を思い出していた。  見てはいけない雲。  連れて行かれてしまう雲。  もしかしたら、あの少女はあの雲の化身だったのではないだろうか。  そして、祖父は僕の代わりに、どこかへ連れ去られてしまったのではないだろうか。 「ぼん、あかんで」  それは口数が少ない祖父が、僕に注意するときの言葉だった。  温かい言葉、懐かしい匂い。  騒がしい会場の端でうずくまり、僕は視界が滲んでいくのを感じていた。
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