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「さぎ…り…」 金曜の午後9時過ぎ。場所は繁華街近く。 目の前に立っている荒川君の横には、知らない女性。いかにも男ウケの良さそうな、ナチュラルメイクに適度な露出のワンピース。栗色のボブカット。小ぶりなブランドバッグ。合コンなら1番人気なんだろうなと思わせる、そんな女性と手を繋いで路地から出てきた荒川君と、姉2人に食事に連れていってもらった帰りの僕は往来でばったり出会した。 因みに、彼らが出てきた路地は、誰もが知っているラブホテルが幾つも立ち並んでいる場所だ。察しない訳がなかった。 僕に気づいて顔色を変えた荒川君に、そんな荒川君に気づいてしまう僕。つまりこの状況は…。 (早速、浮気かあ……) 姉2人には荒川君を紹介していなかった事が幸いだった。僕は、友達と会ったからと姉達に先に帰ってもらい、荒川君に向かってにっこり笑った。その間にも、状況がよく飲み込めていないらしい女の子の方は、荒川君の腕に腕を絡ませたまま胸を押し付けてそこに居た。 「あは、偶然だね。…少し、そこの公園で話そっか」 僕が首を傾げて微笑みながらそう言うと、女性はポーッとしながら見つめて来て、荒川君は顔面蒼白になりながらも後ろに着いてきてくれた。 往来から少し入ったその公園の存在は知っていたけれど、立ち寄るのは初めてだ。思っていたより小さくて、遊具は滑り台とシーソーとブランコくらいしかない。まあ僕らはそんなものを使いに来た訳でもないからどうでも良いのだが、それにしても物寂しい公園だ。入り口から少し入って辺りを見回し無人なのを確認してから、僕は彼らに向き直った。 「荒川君、何か言いたい事ある?」 そう言うと、荒川君はやっと我に返ったように、女性の腕を振りほどきながら言った。何時もは史弥君と呼んでいる僕の、久々の荒川君呼びに感じ取るものがあったんだろう。 「違、違うんだ、これは」 「えっ、何、どうしたの?フミ君」 フミ君。 その呼び方に、僕の目尻はピクッと反応してしまう。それと同時に、すうっと胸の中から何かが抜け落ちていくのを感じた。 「ふうん、なるほどね」 冷めていくのがわかる。ああやっぱりと、愛しさが落胆に変わっていくのが。 「いや誤解しないで、違うんだ、これは」 弁解しようとする荒川君の言葉に、フッと鼻から笑いが漏れる。これだけ密着してホテル街の路地から出てきて、フミ君呼び。それだけの材料が揃っていて、まだ誤解と言う彼に呆れてしまう。 「じゃあ聞くね。 彼女とホテル行った?」 ハッキリ聞くと、女性は目を丸くして少し頬を染めながら少し眉を吊り上げながら僕に言う。 「ちょっと、なんなの?」 けれど今は彼女を相手にしている訳ではないから、僕は笑って右手の人差し指を自分の唇に当てながらこう返した。 「ややこしくなるから少し黙っててね」 昔からこうすると大体の人は静かになってくれる。今にも吠え出す前の小型犬のようだった彼女も、スンッと大人しくなってくれた。吊り上げた眉も下がって、代わりに視線が痛いくらい見られ始めたけど、まあこの際それは良い。 「で、どうなの?」 再度、荒川君に向かって聞くと、彼は肩をビクッと跳ねさせ、そして数秒後、観念したようにボソッと答えた。 「……行きました」 予想通りの答えに、体中の色んな力が抜けていく。だがこれまでの慣れなのか、表情はキープ出来た。 「そう」 内心はすごくショックだ。どうやら僕は、これまでに無く荒川君を信じていたらしい。でも違った。彼も僕が初めてだったというだけで、一皮剥けば他の連中と同じだった。 僕と付き合って男としての自信を付けたから、本能に従って狩りを始めただけなんだろう。しかも、相手が女性という事に、僕のショックは倍増だ。まるで女性を相手にする前のリハビリに使われたような気がして。いや、実際そうなんだろうな…。 なら、僕の言うべき言葉はやはりこの一択なんだろう。 「じゃ、別れよう」 僕がそう口にした途端、荒川君は膝から崩れ落ちた。 「や…ごめ…ごめんなさい、イヤだ……」 頭を左右に振ると凛々しい顔が崩れて、涙目になる。隣にいる女性はそんな彼に驚きながらも、やっと色々察したらしく荒川君と僕を交互に見て、とても気不味げにおろおろしていた。 「僕、最初に言ったよね。浮気したら別れるって」 「…俺を、好きじゃ、ないの?好きなら許してくれるものだって、」 「相手の愛情に胡座をかく人間は好きじゃないんだ」 ピシャリと言った僕の顔をハッとしたように見た荒川君の表情に、元カレ達が重なってとても残念な気持ちになった。 好きなら許すもの……? 元カレ達の中にも、そんな事を言った奴は何人か居た。でも、それって全然フェアじゃないよね? そりゃ許せる人も居るんだろう。でも、好きなら許すのはあくまでその人の厚意であって義務じゃない。好きだからこそ許せない人も居るだろうし、そもそも許したら次もあると思われるのがオチな気がする。そうなると愛情の比重が一気に傾いて、ますますフェアじゃなくなる。片方ばかりが忍耐を強いられる関係って、絶対に健全じゃない。母や姉、叔母達の薫陶が無くたって、そう思う。 「僕は一度でも嫌なんだ、裏切られるのは。事ある毎に思い出して君を責める自分の姿を想像するのも嫌。」 だってそれって、すごく醜い。そうなった時、きっと好きだって気持ちは純粋なものではなくなってる。嫉妬や憎悪や、そんな汚い感情に汚染されている。 そんなの全然、幸せじゃない。 「さよなら。短い間だったけど、楽しかったよ。ありがとう」 僕はそう言って微笑みながら、リュックのポケットからスマホを取り出して、電話帳から荒川君の連絡先を表示した。そしてそれを、荒川君の目の前に差し出しながら削除して、他の連絡手段もブロックした。目を見開いてガクガク震えながら首を振る荒川君。何故かボブの彼女も泣き出している。君はどうした? 「いや、だ…やだ、ごめん、ごめんなさい、許して…お願い、許して…」 何時の間にか土下座して、地に額を擦り付けている荒川君。何故かそれに倣って土下座を始める女性。だから本当に君はどうしたの?と思っていたら、女性が急に叫んだ。 「ごめんなさい!私、派遣の性感マッサージ嬢なんです!」 「……は?」 予想もしていなかった言葉に、僕は呆然とした。 「生還マッサージ?」 「いえちょっとニュアンスが…性感です。聞いた事ありません?M性感って」 「…あるような、ないような…?」 聞いた事はあるけど、具体的にはわからない。つまり、風俗って事? でも風俗なんだから、スるんじゃないの? 風俗を利用なんかした事はない僕は、本格的に頭の中が混乱してきてしまった。 「えーと…ざっくり説明させていただきますとですね…」 涙でメイクをヨレさせながら口を開いた彼女の話によると、それは僕には未知の世界の話だった。 彼女はとあるM性感店のマッサージ嬢で、呼ばれればホテルに出張してちょっとエッチなマッサージなどのサービスをするらしい。客層はM気質で責められたい人が殆どで、彼女は特に本格派Mのお客さんに人気なのだとか。 僕、よくわからなかったんだけど、風俗にも色々種類があって、彼女の在籍している性感マッサージのお店は、発射はさせるけどセックスはしないってサービス内容なんだって。 でもこれって、どう捉えたら良いんだろ?セックスはしてないって信じるとしても、通常セックスに使うような場所で、2人きりで、射精するようなサービスを受けたって事でしょ?いや、でも彼女からするとお仕事だし…あれ?どう判断したら良いの? というか…… 「荒川君、僕に不満だったんだ?」 そう聞くと、彼はブンブン首を振って否定した。 「違う!違う、早霧に不満なんてない!!逆だよ…俺は、俺が……!」 ブンブン首を振るから涙も飛んで来た。ますますわからない僕に、彼女が溜息を吐きながら彼の代わりに答えてくれた。 「フミ君…荒川さんは…私から技術を学びたかったんです」 「技術?」 「私、店ではオイルマッサージだけじゃなく、前立腺マッサージのエキスパートって言われてるんです。だから特にMっ気が強くてアナルを責められたいお客様から指名がかかるんです。でもたまに、それを教えてくれって女性のお客様に呼ばれる事もあって…。」 「女性の?」 「M気質の彼氏や旦那様を持つ女性のお客様がたまにいらっしゃるんですよ」 僕と彼女が話す横で、まだしゃくり上げながらウンウン頷いている荒川君。涙と鼻水ぐしょぐしょでイケメン台無し。 「…んとに、マッサージしてもらって、どこが気持ち良いのか確認っ、したり…、手業とか教えてもらったり、しただけで…っ」 「……」 「俺から彼女には触ってないし、勃起しても自分で抜いたし…っ」 「…………」 う、うーん……勃ったら自分で…? 本当に?と疑いの目で彼女の方にアイコンタクトしてみたら、彼女にも力強く頷かれてしまい、ジャッジに迷いが出てきた僕。 えぇ…いやでも……えぇ~…。 「誓って、誓ってヤッてない!俺はただ、自分が下手だから誰かに習いたくてっ…早霧を悦ばせる事ができるように、早く上手くなりたくて!それにはプロに頼むのが一番かなって…!」 う、う~ん…確かにそれは一理! 「ゲイ風俗も考えたけど、相手に変な気起こされたら逃げられないかもしれないし、女の子相手なら俺がその気にならなければ大丈夫だって自信あったし……」 いや、ゲイ風俗だって仕事なんだからお客様を無理には襲わないのでは?偏見じゃない?と思ったけど、今は黙っておく。単に当時の荒川はそう考えたって事なんだろう。 「だから、本当に体の関係は無いんです! 私がこんな事を言うのも何なんですけど、彼氏さんを悦ばせる為に学びたいという荒川さんの健気な気持ちを汲んでいただいて、何卒!何卒、もうひとたびご再考のほどを…!」 「師匠…っ!」 「……(師匠?)」 何だか妙なテンションになってきた彼女と号泣する荒川君を見て、僕はどうしたら良いものかわからなくなっていた。
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