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土曜日
※ ※ ※
ひゅーっ、ぱちぱちっと。夜空から降り注ぐ無数の音。
そして、そのどれよりも大きな音を立てる僕の鼓動。
紫色の浴衣から伸びる白い左手をぎゅっと握る。涼やかな夜風と、彼女の温もり。今僕の体の中を満たしているこの気持ちを、彼女も感じてくれているのだろうか。
「ねえ、五木くん」
「ん?」
「『抜き打ちテストのパラドックス』の問題文、最後までちゃんと読んだ?」
「こんなとこでも数学の話かよ」
僕の苦笑いに対し、彼女はむっと唇を結んだ。
「ダメなの?」
色っぽい声音が、僕の心臓を鷲掴みする。今夜のために彩ってくれた唇に、棉のように白い頰に、浴衣の上でたゆたう黒髪に、今すぐ触れたくて仕方がない。
「ダメじゃあないよ。えっと、最後まで読みはしたけど、細かくは覚えてないな」
「そう。なら、改めて解説するわ」
くっと、僕の右手を握る彼女の指先に力が込められる。僕は花火を見ることをやめて、彼女に体を向けた。
「抜き打ちテストの宣言を教師から聞いた学生は、五木くんと同じように、月曜から金曜までどの曜日にも抜き打ちテストは不可能と考え、『テストは行われないはずだ』と結論づけるの」
「うんうん」
「だけど結局、学生の予想を裏切って、テストは水曜日に行われる」
「ああ、そうだった」
そう、推論からはあり得ないはずの抜き打ちテストが、結局は行われるのだ。
「でも、あれってどうしてなんだ? だって、学生の考えた論理は正しいはず」
「学生には、選択肢があるのよ」
「選択肢?」
「テストが行われること、そしてそれが自分の予期しない日に行われること。この二つの宣言を信じるかどうかの選択肢。二つとも信じれば矛盾をきたし、どちらかを信じなければ、テストがほんとうに行われるのか、行われるとしてそれはいつなのか、学生は予測できない」
彼女が瞬きをする。はらりと空を切るまつげの一本一本に、目を奪われる。
「まあ、細かいことはいいわ。ここで大事なのは、たとえ前もって宣言されたとしても、実際テストは抜き打ちであり得るということ」
謎めいた笑みを浮かべ、彼女は続けた。
「さて、以上を踏まえて、わたしから五木くんに一つ予告よ」
彼女の右手が蛇のように伸びて、僕の腰に回る。
いつのまにか、僕らの距離は最小値。
「今から一分以内に、わたしからあなたに抜き打ちでキスをします。
できなければ、未来永劫あなたとのキスは諦めます」
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