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次の日、会社から家にちょうど帰ってきたタイミングでスマホに電話がかかってきた。画面を見ると、相手は別れた妻からだった。
「もしもし」
「今からあなたの家に行っていいかしら?」と彼女は至極当たり前の事を尋ねるように訊いてきた。
僕はスマホを左手から右手に持ち替え、相手に聞こえないように息を吐いた。
「何か僕の家に忘れ物でもあるの?」と僕は言ってみた。
「忘れ物? そんなのあるわけないでしょ。もう私が出て行ってから一年は経ってるんだから」と彼女は言った。それは世界中の誰もが知っている明白な事実みたいに聞こえた。
「じゃあ何の用なのかな」
「ちょっとあなたに会いたくなったから訊いてるのよ」
「悪いけど今日はダメなんだ。先客がいる」
「ふうん。先客ね」
「信じられない?」
「もちろん信じるわ。私があなたのことを信じなかった事が一度でもある?」
僕は彼女に言うべき言葉が見つからず黙っていた。
「こっちからまた電話するわ」
回線を鋭いなたできっぱりと断ち切ってしまったみたいに電話は終了した。ブツリ、という機械的な音が僕の耳に残った。
僕はシャワーを浴びた後、二人分の夕食を作り、ハルがいる部屋の扉を二回ノックした。
「夕飯ができたんだけど食べるかい?」
沈黙を挟んだ後に、ゆっくりと扉が開いて彼女が部屋から出てきた。開いた部屋から光が漏れ出てくることはなく、ちらりと中を見てみると以前妻が使っていた間接照明が一つだけポツンと光っているだけだった。
彼女は僕の顔を最低限の礼儀のように確認してからすぐに視線を逸らして、夕食が並んでいるテーブルへと向かっていった。
僕は食事中に何度かハルに話しかけてみたが、申し訳程度の相づちを打っただけで反応は薄かった。まあ、仕方ないと僕は思った。この子だって好きでここにいるわけじゃないのだ。
ハルは僕より先に夕食を食べ終えた。そのまま部屋に戻るのかと思ったが、椅子に座ったままある一点をじっと見つめていた。彼女が見ている方に視線を移すとその先には本棚があった。
「なにか気になる本があるの?」
僕が尋ねると彼女は立ち上がって本棚から一冊の本を手に取った。
「借りてもいい?」と彼女は僕に尋ねた。
彼女が興味を示した本は性的な描写や曲解的解釈をする描写がある本で、育ち盛りの十四歳の女の子が読むにはいささか早すぎる気がした。加えて、姉の恋人の子供にそんな本を貸し出すのはなんらかの問題が発生するのではないかという心配もあった。
「もちろんいいけど、他の本にした方がいいんじゃないかな。君の年齢からそんな本を読むもんじゃないよ。もっといい本を読んだほうがいいと思うな」
「前向きな本……」と彼女は呟いてから、眉をひそめて<例えば?>という顔をした。僕は試しに心が前向きになる本を頭の中で思い浮かべてみた。しかし、そんな本は一冊も思い浮かばなかった。僕自身そんな本は手に取ったことがないのだ。
「ガリヴァー旅行記、走れメロス、星の王子さま」と僕は言ってみた。
「馬鹿みたい」と彼女は言った。「その本を読み終わったあとに、読者の心が少しでも動いていたらそれはいい本だといえるんじゃないの? たとえそれが後ろ向きであってもさ」
正論だった。正論すぎて、僕は返す言葉が全く思いつかなかった。彼女はそんな僕の様子を見ると、呆れたように息を吐いて部屋に戻っていってしまった。
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