愛と欲望と十四歳の少女

1/6
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
「申し訳ないんだけど、来月の間だけあの子を預かってくれる?」  電話に出ると、僕の姉は開口一番にそう言った。姉が『あの子』と呼ぶのは一人しかいないため、誰のことを言っているのかということはすぐに分かった。そこには厄介者を引き渡すような言葉の響きがあった。 「来月中? 随分長い期間だけど、どこか旅行にでも行くの?」 「義正さんと海外に行くのよ。ヨーロッパの方にね。ベネチア、ローマ、パリ」 「なら一緒に連れていけばいい。あの子の年齢なら世界を見れるいい経験になるよ」僕は本心からそう言った。「それにあの子と距離を縮めることだってできる。この前まで仲良くなろうと試行錯誤してたじゃないか」 「それが全然ダメだったのよ。義正さんの連れ子なんだから私だって仲良くなろうと努力はしたつもりよ。でもあの子、全く話さないんだもの。義正さんは恥ずかしがり屋なんだって言うんだけど、全然そんな感じじゃない。むしろものすごく頑固で私の事なんか眼中にないみたいに扱うのよ。知ってる? あの子、石みたいに笑わないの」と姉は辟易するように言った。  僕は十四歳か十五歳の女の子が石みたいに笑わないのを想像してみたが、それはうまくイメージできなかったし、どう考えても健やかに育っているとは思えなかった。 「それで僕にどうしろと? 子供なんて育てた事もないのに」 「別にあの子を笑わしてほしいなんて言ってないわ。それはいいの。きっとあの子はいつも腹の中で私を笑っているだろうからね」姉は自嘲的に言った。僕の姉はいつもユーモアのセンスがないのだ。「とにかく、この旅行だけは私たち二人で気兼ねなく楽しみたいのよ。だから来月の間だけ預かってくれればいいわ」  僕は少しの間悩んでいるフリをした。このような時間を作らないと、姉はなんでもかんでも僕に面倒事を押し付けてくることになる。 「分かったよ。来月の間は僕が預かる。でも僕にも仕事があるから、ずっとは面倒が見られない。そこは了承してほしい」 「それは全然心配しなくて大丈夫よ。だってあの子はなんでも自分でやっちゃうから」  姉は一押しのセールポイントを客に尋ねられた販売員のように言った。それから僕の家に来る時間を手早く伝えると「それじゃあよろしくね」と言って逃げるように電話を切った。    その子が僕の家に来たのは夜の十時だった。その日はとても暑い夜で、インターホンが鳴り玄関を開けると生暖かい空気が一気に僕の身体を包んだ。彼女はそんな熱帯夜に汗一つかかず、超然とした表情を浮かべながら僕を見上げていた。 「お母さんに送ってもらわなかったのかい?」  彼女は肩をすぼめて何も言わなかった。僕もあえて聞きたいとは思わなかった。 「まあとにかく入りなよ。もうここは君の家だ。なにも遠慮しなくていい」  彼女はどこかのサバイバル映画からそのまま出てきたかのような服装をしていた。見たこともないロゴの赤い野球帽、無地の白いTシャツ、ブルージーンズ、黒いスニーカー、自分の身体の半分を占めているほどの大きなリュック。でも、さっぱりとした印象はとてもこの子に似合っていたし、この子自身も自分が似合う服装の種類を把握しているような着こなしの雰囲気を感じた。  僕はとりあえず部屋の案内をした。トイレの場所、シャワーの出し方、電子レンジの使い方。それら全てをこの子は〈そんなのなんでもいいのよ〉というような表情をしながら聞いていた。  一通りの部屋の説明を終えると、彼女はじっと覗き込むように僕の顔を見てきた。どうやら、〈私の部屋はどこ?〉と僕に尋ねているようだった。感情表現が豊かな子だ。 「部屋ならそこを使ってほしい」僕はお風呂場の隣にある部屋を指でさした。「ある程度の生活の匂いは残っているかもしれないけど、もう誰も使ってない」 「この家にはあなたの他に誰もいないの?」  その子は冷蔵庫に話しかけているような無機質な口調で言った。それが初めて聞いた彼女の声だった。 「いないよ。一年前から一人で暮らしているんだ」 その子は〈そうなんだ〉という顔をしただけで、何も言わなかった。 「短い間だけどよろしく。ハル」  僕はするりと部屋に入っていく背中に向けて声をかけた。ハル、というのが彼女の名前だった。春の温かみを感じさせる良い名前だ。しかし彼女は振り返りもせずに、部屋の中に入ってしまった。表情を見ることも出来なかったので彼女が何と言っているのか知ることはできなかった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!