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私の名前は幸子。幸せな子でサチコだ。けれど私はあまり幸せではない人生を送っていると思う。
親は幼少期に離婚し、親権をとった母は私に名付けた時の思いなど忘れたかのようにアルコールと男に溺れ、私は厄介払いされるようにして高校から寮に入ってひとり暮らし。アルバイトで生計を立て、そのまま高卒で就職。パワハラとセクハラに耐えながらも、逃げ出す先がない私は職場にしがみつくしかなかった。
継続年数が長い私よりも大卒の子の初任給の方が高かったし、いつも「高卒だから」と嗤われていた。もちろん私の他にも高卒の人はいたし、その人たちとは励まし合ったり協力し合ったりもした。けれど、皆ハラスメントに辟易して実家に帰ってしまい、会社も大卒しか採らなくなり、私が最後の高卒社員だった。そのうち大卒すら採らなくなると、出来上がった空気は淀んでいくばかりだ。
そうなると私を嘲る風潮は一層強くなり、会社には敵と傍観者しかいないような状況だった。「高卒にはできないだろう」と仕事を回されないパワハラ、「女なんだから笑って珈琲淹れとけばいいんだよ」というジェンダーハラスメント、「何もできないお前が給料もらうためには胸や尻くらい触らせてくれないと」なんて馬鹿げたセクハラ。
辞めて他の会社に行こうと思っても、学歴も資格もなく、実務経験もほとんどない私じゃ、どこも採用してくれないだろう。そう思って行動できず、ただ耐えてしがみつく日々を送っていた。
そんな私の勇気のなさに呆れた神が、最後のチャンスをくれたのだろうか。ある日、朝目が覚めたら上司から電話があり、「会社が倒産した」と告げられた。
電話が切れた瞬間、私の頭に浮かんだ言葉は「よかった」「これで解放される」だった。私はそこで初めて、思っているより追い詰められていた自分に気付いた。気が付いた途端、涙が溢れて止まらなかった。私は幼い子どものように大声を上げて泣いた。平日の朝、周りへの迷惑も考えられずに、ただただ泣いていた。
――コンコン
狭い部屋中に響いていた泣き声が徐々に落ち着いてきた頃、玄関の金属製の扉をノックする音がした。平日の朝から大声で泣いていたことへのクレームだろう。慌てて玄関を開けた私は相手の顔を見るより前に深々と頭を下げた。
「申し訳ありません!うるさかったですよね!もうないようにしますので!!」
泣きすぎて少し枯れた声で謝る私の肩に、そっと温かい何かが触れた。おそるおそる顔を上げると、眉を下げた隣の隣の部屋に住むおばあさまが私の肩に手を置いていた。
「謝ることないのよ。私はあなたを責めに来たわけではないの。泣いているのが聞こえたから心配になってね……ただの老人のお節介よ。何があったか、聞かせてくれる?」
優しく目を細めたおばあさまの温かな両手が私の頬を包み込み、私はまた目を潤ませて小さく頷いた。「うちへいらっしゃい」と言われるまま鍵だけかけて隣の隣の部屋へお邪魔した。ちゃぶ台を挟んでおばあさまと向かい合い、私は少しずつ今までのことを話した。最初は会社でのこと、それから高校生の頃のこと、もうずっと会っていない母のこと、記憶も朧気な父のことまで。
「幸せな子でサチコだなんて名前負けです!私っ、私こんなの、辛子ですよ……!」
おばあさまは穏やかな相槌とともに静かに私の話を最後まで聞いてくれた。それからちゃぶ台のこちらへ来て、話すうちにまた泣いてしまった私を強く抱きしめてくれた。
「よくがんばりました」
親が離婚してから褒められてこなかった私の涙腺は、そのひと言で更に崩壊してしまった。おばあさまは私の涙と鼻水が服に着くのも厭わず、泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。
「すみません……」
泣き止んだ私がそれに気が付いて肩を落とすと、おばあさまは穏やかに笑って首を横に振った。
「いいのよ、服は洗えばいいのだから。あなたの心の方が大切よ」
「……ありがとうございます」
それから、「泣いた分の水分をとりなさい」と経口補水液を渡され、目を冷やすためにハンカチに包んだ保冷剤も渡され、私は泣き腫らした目を冷やしながらストローで経口補水液を飲んでいた。「そのまま聞いて」と言われて私が頷くと、今度はおばあさまが口を開いた。
「私たちの時代はね、それこそ今で言うハラスメントというのが……それはもう、そこら中で横行していたわ。けれどね、だからこそ私は、今の子には同じ目に合ってほしくないと思うのよ。それなのに私、必死に頑張っているあなたを逃してあげられなかった。今日の今日まで声をかけずに見ているだけだった。……ごめんなさい。もっと早くこうして抱きしめてあげるべきだったわ」
心底申し訳なさそうに眉を下げ、私に向かって謝るおばあさまに、今度は私から抱きしめて首を横に振った。
「謝らないでください!……私、今日こうして話を聞いていただけただけで嬉しいです!うまく言えないですけど、なんというか、久しぶりに人間になれたというか……だから、本当にありがとうございます!」
「よかった。少しでも力になれたなら僥倖だわ」
私が拙いながらも全力で感謝の気持ちを伝えれば、おばあさまは安堵の息を吐いて頬を緩ませた。おばあさまの笑顔につられるようにして、私も久しぶりに頬が緩んだ気がした。
それからそのままおばあさま――長らく挨拶だけの関係で忘れていたけれど松本八重(まつもとやえ)さんと言うらしい――と一緒にお昼ごはんを食べて、お昼寝して、おやつも食べて、理想の休日のような時間を過ごした。
最後に夕飯までご馳走になっている時、八重さんが私に尋ねた。
「あなたはこれからどうしたい?どうなりたい?まずはゆっくり休むのもいいし、お勉強をするのもいいし、あなたのしたいようにしていいのよ」
「私……私は――」
私の答えに八重さんはにっこり笑って頷いてくれて、ふたりで色々と計画を立てた。
あの日から私はまず1ヶ月ほど身も心も休めて、それから就業支援を受けて資格を取り、プログラミングの仕事に就くことができた。今度は仕事に慣れて落ち着いてきたら通信制の大学で大卒の資格も取ろうと思っている。
今の職場はハラスメントもないし、学歴で嗤われることもないし、資格を取ってから入ったこともあって給料も前よりは高い。最近は同僚の紹介で知り合った気になる人と出かけることも何度かあって、私は今、覚えている限り人生で初めて、公私ともに順調な日々を送れている。
八重さんとの関係はあの日からずっと続いていて、毎週末は一緒にご飯を食べている。八重さんはいつもにこにこと私の話を聞いてくれて、嬉しかったことを報告すると一緒に喜んでくれるし、悲しかったことを報告すると一緒に悲しんで慰めてくれる。私が今の順調な日々を送れるのはすべて八重さんのおかげだ。それをそのまま言うといつも八重さんは「私は何もしていないわ、あなたが頑張っているからよ」って言ってくれるけれど。
そんな折、気になっている人とご飯をいただいている時に、私の名前の話になった。その人は照れくさそうに頬を掻きながら私を見て言った。
「幸子さんの笑顔はとても優しくて、見ているこちらも幸せになります。周囲まで幸せにしてしまう幸子さんはまさに名は体を表す人ですね。そういうところも尊敬しています」
かつて自分は名前負けしていて、幸子じゃなくて辛子がお似合いだと泣きわめいていた私に、とうとう名は体を表す人だと言う人が現れた。そのことは私の心を喜びで満たし、高揚感で体温が2度上がった気がした。
八重さんをはじめ、就業支援の講師の方、今の会社で優しく業務を教えてくれた教育係の先輩、程よく仕事を回してくれる上司、あの日から私を支え育ててくれた人たちの顔が思い浮かんで目が潤む。
そっか、私はもうとっくに辛子じゃないんだ。なりたい自分へと進めているんだ。
私は――幸子になれたんだ。
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